第7話「客人の馬車」
「ヴィオレッタさん、ちと来てくれんか」
トーマスさんの声が、工房の戸口から飛び込んできた。
朝の仕込みの最中だった。鍋の火を弱め、リーゼルに目配せして外に出た。
村道の向こうに、馬車が見えた。
漆黒の箱馬車。四頭立て。車体の側面に紋章が彫られている。鷲と月桂樹。
ルーゼン公爵家の馬車だった。
辺境の村道に、その馬車はあまりにも不釣り合いだった。轍の深い土の道に、磨き上げられた車輪が沈んでいる。御者が手綱を絞り、馬が鼻を鳴らした。
「公爵家の馬車じゃ。今朝、村の入口で止まった。わしに案内を求めてきおった」
トーマスさんの声は落ち着いていた。けれど目の奥に、緊張がある。
「村の代表として迎える。お前さんは工房にいなさい、と言いたいところじゃが」
「いいえ。工房で迎えます」
「そうか」
トーマスさんは頷いた。
「なら、わしが案内する。従者は外で待たせる。お前さんの工房に入るのは、公爵一人じゃ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。わしは村長として当然のことをするだけじゃ」
トーマスさんが馬車に向かって歩いていった。
工房に戻った。
リーゼルが鍋の前に立っている。
「師匠、何かあったんですか」
「お客さんが来る。少しの間、奥にいてくれる?」
「はい」
リーゼルは何も聞かなかった。私の顔を見て、それだけで察したのだろう。帳簿を抱えて奥の部屋に消えた。
私は工房の中を見回した。
竈の火。乾燥棚のカワラヨモギ。作業台の上の瓶。帳簿。トウキの香り。
ここは私の場所だ。
三年かけて、一人で作った場所だ。
エプロンを外さなかった。工房主として迎える。それ以外の立場はない。
戸が叩かれた。
「入ってください」
戸が開いた。
エーリヒ・ルーゼンが立っていた。
五十二歳。背は高い。痩せた。三年前より、明らかに痩せていた。
仕立てのいい外套。けれど宮廷で見かけた絢爛な装いではない。暗い灰色の布地。装飾は控えめ。辺境への旅装と言えばそうだが、公爵にしては質素に過ぎた。
顔を見た。
父の顔だった。
当たり前だ。三年で顔は変わらない。けれど、目の周りの皺が深くなっていた。頬が削げていた。髪に白いものが増えていた。
「ヴィオレッタ」
父が私の名前を呼んだ。
声が掠れていた。
私は一歩も動かなかった。作業台の前に立ったまま、頭を下げた。
「ようこそ、翠風堂へ。遠い道のりでしたでしょう」
平民が公爵を迎える言葉。娘が父に向ける言葉ではない。
父の表情が揺れた。一瞬、何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「……立派な工房だな」
父は工房の中を見回した。乾燥棚、竈、瓶の並んだ棚。視線が一つ一つを辿る。
「座ってください」
椅子を指した。レナードさんがいつも座る椅子。
父が腰を下ろした。姿勢は良い。公爵としての所作が身体に染みついている。けれど、膝の上に置いた手が震えていた。
私は作業台の向かい側に立ったまま、座らなかった。
「単刀直入に申す」
父が口を開いた。
「帰ってきてほしい。ルーゼン家にはお前が必要だ」
予想通りの言葉だった。
レナードさんが伝えてくれた通りの、予想通りの申し入れ。
「勘当を撤回する手続きは整えてある。法務院への届出も準備済みだ。お前の同意があれば、すぐにでも家門に復帰できる」
「公爵閣下」
私は呼んだ。父を、ではない。公爵を。
「お申し出は承りました。ですが、お断りいたします」
父の手が、膝の上で握りしめられた。
「なぜだ」
「私はもうルーゼン公爵家の令嬢ではありません」
声は落ち着いていた。自分でも驚くほど。
「三年前に勘当されました。その後、断罪は無効になりましたが、身分の復帰は辞退しました。今の私は平民です。翠風堂の工房主で、帝国公認の辺境薬草顧問です」
「ここで、自分の名前で生きています」
父は言葉を失った。
反論が来ると思っていた。説得が続くと思っていた。けれど、父は何も言わなかった。
ただ、私の顔を見ていた。
その目が、何を見ているのかわからなかった。三年前に庇わなかった娘の顔か。宰相との接点を持つ元令嬢の顔か。それとも、もっと別の何かか。
公爵の目の奥に、打算と後悔が混在していた。
レナードさんが言っていた。「後悔や親愛が含まれている可能性も否定できない。ただ、打算が混在していることは間違いありません」。
その通りだった。
父自身も、自分の動機が何なのかわかっていないのだろう。
私はそれを見抜いていた。見抜いた上で、断った。
沈黙が長かった。
竈の火がぱちりと音を立てた。
父が口を開きかけて、また閉じた。
それを三度繰り返した後、ようやく声が出た。
「そうか」
それだけだった。
立ち上がりかけて、足が止まった。
「……一杯、茶をもらえるか」
不意の言葉だった。
公爵が平民の工房で茶を乞う。それがどういう意味を持つか、この人は理解しているのだろうか。
わかっていないのかもしれない。ただ、去る前に、娘が作ったものを口にしたかっただけかもしれない。
私は一瞬迷った。
それから、竈に火を入れた。
鍋に水を張る。温度を見る。棚からヤナギソウの煎じ茶を取り出した。レナードさんのために作った特別な配合ではない。定番品。来客用の、誰にでも出す配合。
杯に注いだ。淡い琥珀色。
父の前に置いた。
父は両手で杯を持ち上げた。
手が震えていた。
一口、含んだ。
長い沈黙があった。
「美味い」
掠れた声だった。
「かつて公爵家では飲まれることのなかった味だな」
「平民の技術で作った茶です」
私は答えた。
父は杯を見つめたまま、しばらく動かなかった。
茶を飲み終えて、父が立ち上がった。
「達者でな」
それだけ言って、戸口に向かった。
振り返らなかった。
トーマスさんが外で待っていた。公爵を馬車まで案内する。従者が馬車の扉を開けた。
私は工房の入口に立って見送った。
門の外。
レナードさんを初めて見送った場所と同じだった。あの時は、門の外に立つこと自体が私にとって大きな一歩だった。
今日は違う意味で、ここに立っている。
父の背中が馬車に消えた。扉が閉まった。御者が手綱を取り、四頭の馬が動き出した。
漆黒の馬車が、村道の向こうに小さくなっていく。
風が吹いた。
父を傷つけたことを、わかっていた。
「帰ってきてほしい」と言った人間を、拒んだ。その言葉に打算が混ざっていたとしても、全てが嘘ではなかったかもしれない。
けれど、曲げなかった。
曲げなかった自分の足元が、確かだった。
痛みはある。拒絶する側にも、痛みはある。
工房に戻ると、奥の部屋からリーゼルが顔を出した。
「師匠」
「うん。終わったよ」
「……大丈夫ですか」
「大丈夫」
嘘ではなかった。大丈夫だった。
リーゼルが鼻を一つ鳴らした。
「工房、師匠の匂いがします」
「匂い?」
「トウキと、カワラヨモギと、竈の煙。翠風堂の匂い。師匠の場所の匂い」
私は少しだけ笑った。
「そうだね」
ここは私の場所だ。
三年かけて作った場所で、これからも続く場所だ。
竈の火が、静かに燃えていた。




