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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第7話「客人の馬車」

「ヴィオレッタさん、ちと来てくれんか」


トーマスさんの声が、工房の戸口から飛び込んできた。


朝の仕込みの最中だった。鍋の火を弱め、リーゼルに目配せして外に出た。


村道の向こうに、馬車が見えた。


漆黒の箱馬車。四頭立て。車体の側面に紋章が彫られている。鷲と月桂樹。


ルーゼン公爵家の馬車だった。


辺境の村道に、その馬車はあまりにも不釣り合いだった。轍の深い土の道に、磨き上げられた車輪が沈んでいる。御者が手綱を絞り、馬が鼻を鳴らした。


「公爵家の馬車じゃ。今朝、村の入口で止まった。わしに案内を求めてきおった」


トーマスさんの声は落ち着いていた。けれど目の奥に、緊張がある。


「村の代表として迎える。お前さんは工房にいなさい、と言いたいところじゃが」


「いいえ。工房で迎えます」


「そうか」


トーマスさんは頷いた。


「なら、わしが案内する。従者は外で待たせる。お前さんの工房に入るのは、公爵一人じゃ」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。わしは村長として当然のことをするだけじゃ」


トーマスさんが馬車に向かって歩いていった。


工房に戻った。


リーゼルが鍋の前に立っている。


「師匠、何かあったんですか」


「お客さんが来る。少しの間、奥にいてくれる?」


「はい」


リーゼルは何も聞かなかった。私の顔を見て、それだけで察したのだろう。帳簿を抱えて奥の部屋に消えた。


私は工房の中を見回した。


竈の火。乾燥棚のカワラヨモギ。作業台の上の瓶。帳簿。トウキの香り。


ここは私の場所だ。


三年かけて、一人で作った場所だ。


エプロンを外さなかった。工房主として迎える。それ以外の立場はない。


戸が叩かれた。


「入ってください」


戸が開いた。


エーリヒ・ルーゼンが立っていた。


五十二歳。背は高い。痩せた。三年前より、明らかに痩せていた。


仕立てのいい外套。けれど宮廷で見かけた絢爛な装いではない。暗い灰色の布地。装飾は控えめ。辺境への旅装と言えばそうだが、公爵にしては質素に過ぎた。


顔を見た。


父の顔だった。


当たり前だ。三年で顔は変わらない。けれど、目の周りの皺が深くなっていた。頬が削げていた。髪に白いものが増えていた。


「ヴィオレッタ」


父が私の名前を呼んだ。


声が掠れていた。


私は一歩も動かなかった。作業台の前に立ったまま、頭を下げた。


「ようこそ、翠風堂へ。遠い道のりでしたでしょう」


平民が公爵を迎える言葉。娘が父に向ける言葉ではない。


父の表情が揺れた。一瞬、何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「……立派な工房だな」


父は工房の中を見回した。乾燥棚、竈、瓶の並んだ棚。視線が一つ一つを辿る。


「座ってください」


椅子を指した。レナードさんがいつも座る椅子。


父が腰を下ろした。姿勢は良い。公爵としての所作が身体に染みついている。けれど、膝の上に置いた手が震えていた。


私は作業台の向かい側に立ったまま、座らなかった。


「単刀直入に申す」


父が口を開いた。


「帰ってきてほしい。ルーゼン家にはお前が必要だ」


予想通りの言葉だった。


レナードさんが伝えてくれた通りの、予想通りの申し入れ。


「勘当を撤回する手続きは整えてある。法務院への届出も準備済みだ。お前の同意があれば、すぐにでも家門に復帰できる」


「公爵閣下」


私は呼んだ。父を、ではない。公爵を。


「お申し出は承りました。ですが、お断りいたします」


父の手が、膝の上で握りしめられた。


「なぜだ」


「私はもうルーゼン公爵家の令嬢ではありません」


声は落ち着いていた。自分でも驚くほど。


「三年前に勘当されました。その後、断罪は無効になりましたが、身分の復帰は辞退しました。今の私は平民です。翠風堂の工房主で、帝国公認の辺境薬草顧問です」


「ここで、自分の名前で生きています」


父は言葉を失った。


反論が来ると思っていた。説得が続くと思っていた。けれど、父は何も言わなかった。


ただ、私の顔を見ていた。


その目が、何を見ているのかわからなかった。三年前に庇わなかった娘の顔か。宰相との接点を持つ元令嬢の顔か。それとも、もっと別の何かか。


公爵の目の奥に、打算と後悔が混在していた。


レナードさんが言っていた。「後悔や親愛が含まれている可能性も否定できない。ただ、打算が混在していることは間違いありません」。


その通りだった。


父自身も、自分の動機が何なのかわかっていないのだろう。


私はそれを見抜いていた。見抜いた上で、断った。


沈黙が長かった。


竈の火がぱちりと音を立てた。


父が口を開きかけて、また閉じた。


それを三度繰り返した後、ようやく声が出た。


「そうか」


それだけだった。


立ち上がりかけて、足が止まった。


「……一杯、茶をもらえるか」


不意の言葉だった。


公爵が平民の工房で茶を乞う。それがどういう意味を持つか、この人は理解しているのだろうか。


わかっていないのかもしれない。ただ、去る前に、娘が作ったものを口にしたかっただけかもしれない。


私は一瞬迷った。


それから、竈に火を入れた。


鍋に水を張る。温度を見る。棚からヤナギソウの煎じ茶を取り出した。レナードさんのために作った特別な配合ではない。定番品。来客用の、誰にでも出す配合。


杯に注いだ。淡い琥珀色。


父の前に置いた。


父は両手で杯を持ち上げた。


手が震えていた。


一口、含んだ。


長い沈黙があった。


「美味い」


掠れた声だった。


「かつて公爵家では飲まれることのなかった味だな」


「平民の技術で作った茶です」


私は答えた。


父は杯を見つめたまま、しばらく動かなかった。


茶を飲み終えて、父が立ち上がった。


「達者でな」


それだけ言って、戸口に向かった。


振り返らなかった。


トーマスさんが外で待っていた。公爵を馬車まで案内する。従者が馬車の扉を開けた。


私は工房の入口に立って見送った。


門の外。


レナードさんを初めて見送った場所と同じだった。あの時は、門の外に立つこと自体が私にとって大きな一歩だった。


今日は違う意味で、ここに立っている。


父の背中が馬車に消えた。扉が閉まった。御者が手綱を取り、四頭の馬が動き出した。


漆黒の馬車が、村道の向こうに小さくなっていく。


風が吹いた。


父を傷つけたことを、わかっていた。


「帰ってきてほしい」と言った人間を、拒んだ。その言葉に打算が混ざっていたとしても、全てが嘘ではなかったかもしれない。


けれど、曲げなかった。


曲げなかった自分の足元が、確かだった。


痛みはある。拒絶する側にも、痛みはある。


工房に戻ると、奥の部屋からリーゼルが顔を出した。


「師匠」


「うん。終わったよ」


「……大丈夫ですか」


「大丈夫」


嘘ではなかった。大丈夫だった。


リーゼルが鼻を一つ鳴らした。


「工房、師匠の匂いがします」


「匂い?」


「トウキと、カワラヨモギと、竈の煙。翠風堂の匂い。師匠の場所の匂い」


私は少しだけ笑った。


「そうだね」


ここは私の場所だ。


三年かけて作った場所で、これからも続く場所だ。


竈の火が、静かに燃えていた。

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