第6話「師匠の名前」
三年前、私は別の名前で生きていた。
朝の仕込みを終えて、私はリーゼルを呼んだ。
「リーゼル、少し話したいことがある。座って」
リーゼルが作業台の向かいに座った。手にはまだカミツレの花が一束残っている。それを棚に置いて、こちらを見た。
「はい」
真っ直ぐな目だった。何を聞かされるのか、予想がついているのかもしれない。ついていないのかもしれない。どちらにしても、この子は逃げない。
「昨日、トーマスさんには話した。今日は、あなたに自分の口から伝えたかった」
私は息を吸った。
「私の本当の名前は、ヴィオレッタ・ルーゼン。三年前まで、ルーゼン公爵家の令嬢だった」
リーゼルは黙っていた。
「宮廷で断罪された。冤罪だった。でもその時は誰も庇ってくれなかった。父に勘当されて、この村に来た。銀貨四枚と薬草の知識だけを持って」
「その後、断罪は無効になった。身分を戻す話もあった。でも私は辞退した。公爵家の令嬢には戻らない。今の私は平民で、翠風堂の工房主で、帝国公認の辺境薬草顧問」
「それが、私のこれまでです」
言い終えて、口を閉じた。
リーゼルはまだ黙っていた。
長い沈黙だった。工房の中で竈の火がぱちりと音を立てた。乾燥棚のカワラヨモギが風に揺れた。
「あたし」
リーゼルが口を開いた。
「師匠が話してくれるの、待ってました」
「待って」
「はい。あたしが師匠の過去を聞かないって約束したの、覚えてますか」
覚えている。リーゼルが工房に来た最初の頃、一度だけ私の過去について聞こうとした。その時に私が「聞かないで」と言って、リーゼルは「わかりました」と答えた。それ以来、一度も聞かなかった。
「あの時から、いつか師匠が自分から話してくれるって、思ってました」
「怒ってない?」
「何に怒るんですか」
リーゼルが首を傾げた。本気でわからないという顔だった。
「師匠は師匠です。公爵の娘だろうが平民だろうが、あたしに薬草のこと教えてくれて、工房で一緒に働いて、毎朝竈に火を入れてくれる人です」
「それが変わるんですか」
「変わらない」
「じゃあ、何も問題ないです」
リーゼルはカミツレの束を棚から取り上げて、作業に戻った。
当たり前のように。何事もなかったかのように。
でも、手元を見ると、カミツレの茎を結ぶ指先がいつもより少しだけ力んでいた。
何も感じていないわけではないのだ。ただ、この子はそれを表に出さない。出さないことで、私を守ろうとしている。
「リーゼル」
「はい」
「ありがとう」
「はーい」
軽い返事。いつもの声。
でも、振り向いた時の目が少しだけ赤かった。
午後、宰相府の定期便が届いた。
十日ぶりだった。
顧問契約に基づく公式連絡が二通。予算の四半期報告と、帝都の薬種商からの問い合わせ書類。
そして、公印のない封書が一通。
レナードさんからだった。
封を切った。
文面は短かった。いつもより短い。
『辺境薬草顧問への定期連絡を再開します。遅延をお詫びします。帝都の状況は安定に向かっています。詳細は追って連絡します。』
公務の文面だった。私的な言葉は一文もない。
宰相府の便を使っているのだから、当然だ。弾劾の動きがある中で、私的な手紙を公務の便に紛れ込ませるわけにはいかない。
でも、最後に一行だけ。
『お身体を大事にしてください。』
同じ一行。
前の手紙にもあった、同じ言葉。
公務の文面の中に、この一行だけが浮いている。宰相府の経理担当官がこの書簡を検閲したとしても、健康を気遣う一文だけでは弾劾の材料にはならない。
ぎりぎりの線で、この人は言葉を届けてくれている。
私は便箋を裏返した。
何もない。追伸もない。
でも、十日間の沈黙の後にこの一行があるだけで、胸の奥が緩んだ。
生きている。仕事をしている。私のことを忘れていない。
それだけで十分だった。
夕方、工房の片づけをしながら、私は便箋と筆を取り出した。
返書を書く。
顧問としての公式報告。在庫状況、売上、仕入れ計画。全て帳簿の数字を転記した。
そして、最後に一行。
『お身体を大事にしてください。茶を用意して待っています。』
書き終えて、筆を置いた。
これは顧問の報告ではない。
数字と計画の間に挟まれた一行は、仕事の言葉ではない。
「これは手紙だ」と、自覚した。
公務の体裁を取った、私的な手紙。あの人が私にそうしたように、私もあの人に同じことをしている。
書簡でしか届かない距離。何もできない無力感。
でも、言葉を届けようとすること自体が、三年前の私にはなかった行為だった。
あの頃の私は誰にも何も届けなかった。届ける相手がいなかった。
今はいる。
届けたい人がいる。
封をして、宰相府の定期便の返送袋に入れた。
リーゼルが奥から顔を出した。
「師匠、明日の仕込み、あたしが朝やっておきますか」
「いい。一緒にやろう」
「はい」
リーゼルが帳簿を棚に戻した。
「師匠」
「ん」
「今日、話してくれてありがとうございました」
振り返らずに言った。棚の前で、カミツレの束を数えながら。
「あたし、師匠がどこの誰でも、ここにいます」
私は何も言えなかった。
ただ頷いた。リーゼルには見えなかっただろう。でも、頷いた。
夜。
窓の外が暗い。星が出ている。
棚の奥には父の書簡がしまってある。返書は書いていない。
隣に、レナードさんへの返書を入れた定期便の袋がある。
二通の手紙。
片方には答えられない。もう片方には、ぎりぎりの言葉で返した。
グスタフが先日言っていた。ルーゼン公爵が辺境に向かっているかもしれない、と。
まだ来ていない。
来るのかもしれない。来ないのかもしれない。
どちらにしても、私はここにいる。
竈の火を落とした。
トウキの香りが工房に残っている。
明日も朝が来る。仕込みがある。リーゼルと一緒に竈に火を入れる。
それだけは変わらない。
それだけが、今の私の全てだった。




