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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第6話「師匠の名前」

三年前、私は別の名前で生きていた。


朝の仕込みを終えて、私はリーゼルを呼んだ。


「リーゼル、少し話したいことがある。座って」


リーゼルが作業台の向かいに座った。手にはまだカミツレの花が一束残っている。それを棚に置いて、こちらを見た。


「はい」


真っ直ぐな目だった。何を聞かされるのか、予想がついているのかもしれない。ついていないのかもしれない。どちらにしても、この子は逃げない。


「昨日、トーマスさんには話した。今日は、あなたに自分の口から伝えたかった」


私は息を吸った。


「私の本当の名前は、ヴィオレッタ・ルーゼン。三年前まで、ルーゼン公爵家の令嬢だった」


リーゼルは黙っていた。


「宮廷で断罪された。冤罪だった。でもその時は誰も庇ってくれなかった。父に勘当されて、この村に来た。銀貨四枚と薬草の知識だけを持って」


「その後、断罪は無効になった。身分を戻す話もあった。でも私は辞退した。公爵家の令嬢には戻らない。今の私は平民で、翠風堂の工房主で、帝国公認の辺境薬草顧問」


「それが、私のこれまでです」


言い終えて、口を閉じた。


リーゼルはまだ黙っていた。


長い沈黙だった。工房の中で竈の火がぱちりと音を立てた。乾燥棚のカワラヨモギが風に揺れた。


「あたし」


リーゼルが口を開いた。


「師匠が話してくれるの、待ってました」


「待って」


「はい。あたしが師匠の過去を聞かないって約束したの、覚えてますか」


覚えている。リーゼルが工房に来た最初の頃、一度だけ私の過去について聞こうとした。その時に私が「聞かないで」と言って、リーゼルは「わかりました」と答えた。それ以来、一度も聞かなかった。


「あの時から、いつか師匠が自分から話してくれるって、思ってました」


「怒ってない?」


「何に怒るんですか」


リーゼルが首を傾げた。本気でわからないという顔だった。


「師匠は師匠です。公爵の娘だろうが平民だろうが、あたしに薬草のこと教えてくれて、工房で一緒に働いて、毎朝竈に火を入れてくれる人です」


「それが変わるんですか」


「変わらない」


「じゃあ、何も問題ないです」


リーゼルはカミツレの束を棚から取り上げて、作業に戻った。


当たり前のように。何事もなかったかのように。


でも、手元を見ると、カミツレの茎を結ぶ指先がいつもより少しだけ力んでいた。


何も感じていないわけではないのだ。ただ、この子はそれを表に出さない。出さないことで、私を守ろうとしている。


「リーゼル」


「はい」


「ありがとう」


「はーい」


軽い返事。いつもの声。


でも、振り向いた時の目が少しだけ赤かった。


午後、宰相府の定期便が届いた。


十日ぶりだった。


顧問契約に基づく公式連絡が二通。予算の四半期報告と、帝都の薬種商からの問い合わせ書類。


そして、公印のない封書が一通。


レナードさんからだった。


封を切った。


文面は短かった。いつもより短い。


『辺境薬草顧問への定期連絡を再開します。遅延をお詫びします。帝都の状況は安定に向かっています。詳細は追って連絡します。』


公務の文面だった。私的な言葉は一文もない。


宰相府の便を使っているのだから、当然だ。弾劾の動きがある中で、私的な手紙を公務の便に紛れ込ませるわけにはいかない。


でも、最後に一行だけ。


『お身体を大事にしてください。』


同じ一行。


前の手紙にもあった、同じ言葉。


公務の文面の中に、この一行だけが浮いている。宰相府の経理担当官がこの書簡を検閲したとしても、健康を気遣う一文だけでは弾劾の材料にはならない。


ぎりぎりの線で、この人は言葉を届けてくれている。


私は便箋を裏返した。


何もない。追伸もない。


でも、十日間の沈黙の後にこの一行があるだけで、胸の奥が緩んだ。


生きている。仕事をしている。私のことを忘れていない。


それだけで十分だった。


夕方、工房の片づけをしながら、私は便箋と筆を取り出した。


返書を書く。


顧問としての公式報告。在庫状況、売上、仕入れ計画。全て帳簿の数字を転記した。


そして、最後に一行。


『お身体を大事にしてください。茶を用意して待っています。』


書き終えて、筆を置いた。


これは顧問の報告ではない。


数字と計画の間に挟まれた一行は、仕事の言葉ではない。


「これは手紙だ」と、自覚した。


公務の体裁を取った、私的な手紙。あの人が私にそうしたように、私もあの人に同じことをしている。


書簡でしか届かない距離。何もできない無力感。


でも、言葉を届けようとすること自体が、三年前の私にはなかった行為だった。


あの頃の私は誰にも何も届けなかった。届ける相手がいなかった。


今はいる。


届けたい人がいる。


封をして、宰相府の定期便の返送袋に入れた。


リーゼルが奥から顔を出した。


「師匠、明日の仕込み、あたしが朝やっておきますか」


「いい。一緒にやろう」


「はい」


リーゼルが帳簿を棚に戻した。


「師匠」


「ん」


「今日、話してくれてありがとうございました」


振り返らずに言った。棚の前で、カミツレの束を数えながら。


「あたし、師匠がどこの誰でも、ここにいます」


私は何も言えなかった。


ただ頷いた。リーゼルには見えなかっただろう。でも、頷いた。


夜。


窓の外が暗い。星が出ている。


棚の奥には父の書簡がしまってある。返書は書いていない。


隣に、レナードさんへの返書を入れた定期便の袋がある。


二通の手紙。


片方には答えられない。もう片方には、ぎりぎりの言葉で返した。


グスタフが先日言っていた。ルーゼン公爵が辺境に向かっているかもしれない、と。


まだ来ていない。


来るのかもしれない。来ないのかもしれない。


どちらにしても、私はここにいる。


竈の火を落とした。


トウキの香りが工房に残っている。


明日も朝が来る。仕込みがある。リーゼルと一緒に竈に火を入れる。


それだけは変わらない。


それだけが、今の私の全てだった。

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