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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第4話「遠い火」

私は竈の灰を掻き出した。


朝の工房は静かだった。レナードさんが帝都に戻ってから五日が経つ。書簡は届いていない。


五日間、宰相府の定期便すら来なかった。


それが意味することを、私は考えないようにしていた。


リーゼルが乾燥棚のカミツレを数えている。帳簿に数字を書き込む鉛筆の音だけが、工房に響いている。


「師匠、ヤナギソウの在庫、あと二日分です」


「明後日の朝、西の谷に採りに行こう」


「はい」


いつもの会話。いつもの仕込み。


手を動かしていれば、考えずに済む。


済むはずだった。


昼過ぎ、グスタフが来た。


月に二度の定期便とは別の、臨時の来訪だった。荷馬車ではなく、馬一頭で。商品を持っていない。


「グスタフさん、今日はお仕事じゃないんですか」


「仕事じゃない。ちょっと伝えておきたいことがあってね」


グスタフが工房の椅子に腰を下ろした。いつもの軽い口調ではなかった。


「帝都がきな臭い」


「きな臭い」


「宰相弾劾の話が出てる。噂じゃない。帝都の議会筋から直接聞いた」


手が止まった。


弾劾。


ハインツが工房の戸口で口にした言葉。あの日、レナードさんが急いで帝都に戻った理由。


「弾劾の発議には侯爵級以上の貴族三名の連名が必要だって話は知ってるかい」


「……はい」


「今、二名が揃ってる。三名目を探してる最中らしい。根拠は宰相の私的な辺境訪問。職権の私物化だってさ」


私的な辺境訪問。


私のところに来ていたこと。


「三名揃えば発議が成立する。成立すれば、弾劾の審議が始まる。審議中は宰相府の機能が制限される。実質的に、宰相の職務が停止する」


グスタフは淡々と語った。商人として情報を扱う人間の、感情を挟まない口調だった。


「まだ三名は揃っていないんですよね」


「揃っていない。けど、二名揃った時点で、帝都の空気は変わってる。宰相が辺境に通ってるって話は、もう公然の噂だよ」


私は竈の前に立ったまま動けなかった。


怖れていたことが、形になっていた。


レナードさんの書簡にあった一行。「帝都において、私の辺境訪問が一部で話題になっているようです。問題はありません」。


問題はあった。


あの人は知っていた。知っていて、「問題ありません」と書いた。私に心配をかけないために。


「グスタフさん」


「うん」


「宰相閣下から書簡が届いていません。五日間」


グスタフは少し黙った。


「忙しいんだろうね。弾劾の動きに対処してるなら、書簡を書く余裕はないかもしれない。宰相府の便を使えば、それ自体が監視されてる可能性もある」


公務の便で私的な手紙を送れば、それが弾劾の材料になる。


だから書けない。


私は唇を噛んだ。


「ヴィオレッタさん」


グスタフが、珍しく名前で呼んだ。


「あんたのせいじゃないよ」


レナードさんと同じことを言った。


「宰相が辺境に来たのは、あんたが呼んだからじゃない。あの人が自分で選んだことだ。弾劾を仕掛けてる連中は、あんたを狙ってるんじゃなくて、宰相の椅子を狙ってるんだ」


わかっている。


頭ではわかっている。


でも、私がいなければ。


私が顧問にならなければ。あの人がこの辺境に来る理由がなければ。


「その顔やめなよ」


グスタフが立ち上がった。


「あんたが自分を責めても、帝都の政治は一歩も動かない。あんたにできることは、ここで工房を回すことだけだ。それが一番いい」


正しかった。


正しいけれど、正しさでは胸の痛みは消えない。


グスタフが帰った後、私は一人で工房に残った。


リーゼルは午後の採取に出ている。


鍋の火を落とし、作業台を拭き、瓶の蓋を一つずつ確認した。


手を動かしている間だけ、考えなくて済む。


けれど手が止まった瞬間、全部が戻ってくる。


レナードさんが去り際に言った言葉。「必ず戻ります」。


あの声を信じている。信じることは、もう怖くない。信じると決めたのだから。


怖いのは別のことだ。


信じている相手の足を、自分が引っ張っていること。


宰相が辺境の平民のもとに通う。それだけで、政敵は武器を手にする。私がここにいるだけで、あの人の立場が危うくなる。


では、どうすればいい。


顧問を辞めるか。レナードさんとの関係を断つか。


どちらも違う。


顧問を辞めれば、翠風堂の公的な後ろ盾がなくなる。この村の産業が後退する。リーゼルの将来にも影響する。


レナードさんとの関係を断てば、あの人が傷つく。私も傷つく。そして弾劾を仕掛けている連中の思惑通りになる。


どちらも選べない。


どちらも選ばなくていい、とは、まだ思えなかった。


夕方になった。


西の空が赤く染まっている。工房の窓から見える山の稜線が、夕陽の輪郭を切り取っている。


リーゼルが採取から戻ってきた。カミツレの束を三つ抱えている。


「師匠、これ、南斜面のほうが質がよかったです。明日もう一回行ってきます」


「ありがとう。乾燥棚に吊るしておいて」


「はい」


リーゼルが棚の前で作業を始めた。カミツレの花を一つずつ向きを揃えて吊るしていく。丁寧な手つきだった。


「師匠」


「ん」


「あたし、難しいことはわかんないですけど」


リーゼルが振り返らずに言った。


「師匠がここにいるのは、いいことだと思います」


不意を突かれた。


「あたしがここにいられるのも、師匠がいるからだし。村の人たちがお茶買いに来るのも、師匠がいるからだし」


「だから、師匠がいなくなるとか、そういうの、考えなくていいと思います」


この子は何を聞いたのだろう。グスタフの話を、どこかで聞いていたのか。


それとも、私の顔を見ればわかるのか。


「……ありがとう」


「はーい」


軽い返事。いつものリーゼル。


けれど、その言葉は軽くなかった。


私はここにいる。


ここにいることが、誰かの迷惑になるかもしれない。でも、ここにいることで支えられている人がいる。


どちらも事実だ。


どちらかを選ぶ必要は、今はない。


夜。


工房の片づけを終えて、棚の前に立った。


レナードさんのために作った茶の配合。甘草を減らして角を取ったもの。小さな紙包みが棚の奥にある。


次にあの人が来た時のために、取っておいたものだ。


次がいつになるかはわからない。


弾劾の動きが収まるまで、あの人はここに来られないかもしれない。来ることが、さらに状況を悪くするかもしれない。


紙包みに手を触れた。


捨てはしない。


しまっておく。いつか、あの人が戻ってきた時のために。


「必ず戻ります」と、あの人は言った。


私は「待っています」と言った。


その二つの言葉だけが、今の私を支えていた。


窓を閉めた。


竈の火を落とした。


帳簿を開き、今日の記録を書いた。売上、在庫、仕入れ予定。震えない字で。


三年前の最初のページとは違う。今の字は安定している。


でも、胸の奥は揺れている。


遠い帝都の火が、ここまで届いている。


見えないけれど、熱は感じる。


明日も竈に火を入れる。薬草を煎じる。瓶に詰める。帳簿をつける。


それだけが、今の私にできることだった。

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