第3話「伝えたいこと」
山道の向こうで、鳥が鳴いた。
朝靄がまだ残っている。工房の窓から見える山並みは薄い灰色に煙っていて、木々の輪郭がぼやけている。
今日、レナードさんが来る。
書簡に書かれていた日付は今日だった。「近日中に」ではなく、日を指定してきた。公務の合間を縫って辺境まで来るということは、それだけの理由があるということだ。
私は朝の仕込みを早めに片づけた。
定番品の煎じは昨日のうちに瓶詰めまで終わらせてある。リーゼルには午前中の工房番を任せた。
「師匠、お客さん?」
「うん。宰相府の方が来る」
「あの人ですか」
リーゼルが少しだけ口元を緩めた。「あの人」で通じてしまうことに、私は何も言えなかった。
「お茶、出すんでしょう。あたし、奥で帳簿やってます」
「……ありがとう」
気を遣わせている。この子に気を遣わせるような関係が、いつの間にかできている。
昼前。
工房の戸が叩かれた。
「入ってください」
戸が開いた。
レナードさんが立っていた。
前と同じだった。宰相の紋章はない。護衛の騎士も連れていない。仕立てのいい外套だけが、辺境の風景に馴染まない。
「お久しぶりです」
私は作業台の前から一歩出て、頭を下げた。
「お待ちしていました」
「ありがとうございます。少し、お時間をいただけますか」
「はい」
声が硬い。いつもの書簡の文面とは違う。公務の報告をする時の口調に近い。
けれど、それを崩そうとしている気配がある。硬い声の奥に、別の何かを押し込めている。
私は椅子を指した。レナードさんが腰を下ろす。姿勢は正しいが、膝の上に置いた手が微かに力んでいる。
竈の前に戻り、湯を注いだ。レナードさんのために改良した配合。甘草を減らして角を取ったもの。
杯を差し出した。
レナードさんは両手で受け取り、一口含んだ。
「……前より、柔らかくなりましたね」
「少し変えました」
「美味い」
短い言葉だった。でも、飲み方が変わっていた。前は少し冷ましてから口をつけていたのに、今日はすぐに飲んだ。温度を下げたことに、気づいたのだろうか。
何も言わなかった。ただ、杯を両手で包んでいた。
「ヴィオレッタ」
レナードさんが杯を置いた。
肩書きのない名前。二人きりの時だけの呼び方。
「お伝えしたいことがあります」
「はい」
「ルーゼン公爵が動いています」
やはり、そうだった。
「公爵家の代理人が法務院に出入りしていることは、宰相府でも確認しています。勘当撤回の手続きを準備している可能性が高い」
レナードさんの声は宰相のそれに戻っていた。正確で、感情を排した報告。
「ただし、撤回には本人の同意が必要です。あなたが同意しなければ成立しません」
「知っています」
「ええ。ですから、法的には問題ありません」
レナードさんは一度言葉を切った。
「問題は、公爵の動機です」
「動機」
「ルーゼン公爵は現在、社交界で孤立しています。断罪が冤罪と判明して以降、公爵家の信用は著しく低下した。後継問題も浮上しています」
「その状況で、あなたとの関係を回復することは、公爵にとって政治的な意味を持ちます。宰相府の顧問であるあなたが公爵家に戻れば、公爵家は宰相との接点を得る」
私は黙って聞いていた。
わかっていた。グスタフの噂を聞いた時点で、そこまでは推測していた。
「つまり、父は私を利用しようとしている」
「断言はできません」
レナードさんの声が、少しだけ揺れた。
「後悔や親愛が含まれている可能性も否定できない。ただ、打算が混在していることは間違いありません」
正直な人だ。
父を庇うこともしないし、一方的に断罪することもしない。事実だけを並べて、判断は私に委ねようとしている。
「会わない」
私は言った。
「会いません」
即答だった。考える必要はなかった。三年間何もしなかった人が、今になって動く理由に、純粋な後悔だけがあるとは思えない。
仮にあったとしても。
今の私には関係のないことだ。
レナードさんは頷いた。
「わかりました」
けれど、レナードさんは続けた。
「ただ、会わずに済ませられない可能性があります」
「どういうことですか」
「公爵級の貴族の移動は法的に保障されています。宰相であっても、公爵の移動を制限する権限はない」
「つまり」
「ルーゼン公爵が辺境に直接来る可能性があります。勘当撤回の申請自体は公爵の権限で提出できる。あなたの同意がなければ不成立ですが、申請の手続きのために直接訪れることは止められません」
私は杯を見つめた。
湯気が細く立ち上っている。
父が来る。
この工房に。
三年間、一度も姿を見せなかった人が、この場所に立つ。
竈の火と薬草の匂い。リーゼルの丸い字の帳簿。トーマスさんが直してくれた窓枠。レナードさんが座っている椅子。
ここは私の場所だ。
三年かけて、一人で作った場所だ。
そこに父が来る。
胸の底に、冷たいものが広がった。恐れではない。怒りでもない。もっと正体のわからない、重たい何かだった。
「ヴィオレッタ」
レナードさんが名前を呼んだ。
「もし公爵が来た時」
少しの沈黙があった。
「隣にいてよいですか」
宰相の声ではなかった。
報告でも、提案でもなかった。
この人が、個人として、私に聞いている。
私は杯から目を上げた。
レナードさんの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
三年間、一人で立ってきた。一人で竈に火を入れて、一人で薬草を煎じて、一人で帳簿をつけた。一人で十分だと思っていた。
一人で立っていたいと、そう言ったこともあった。
けれど。
「……お願いします」
声が小さかった。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
助けを求めたのは、いつ以来だろう。
覚えていない。少なくとも、この三年間では一度もなかった。
レナードさんは黙って頷いた。
大袈裟な言葉はなかった。約束とも誓いとも言わなかった。ただ頷いて、杯に手を伸ばした。
茶を一口、飲んだ。
それだけだった。
それだけで十分だった。
工房の外で、馬の蹄の音が聞こえた。
レナードさんの表情が変わった。
ハインツだった。レナードさんの護衛騎士。今日は同行していなかったはずだ。
戸が叩かれた。
「失礼いたします。閣下、急ぎの報せがございます」
レナードさんが立ち上がった。戸口でハインツと短く言葉を交わす。ハインツの声は低く抑えられていたが、一つの言葉だけが聞き取れた。
「弾劾」。
レナードさんが振り返った。
「申し訳ありません。帝都に戻らなければなりません」
「弾劾、と聞こえました」
「帝都で、私の罷免を求める動きが出ているようです。詳細はまだわかりません」
宰相の顔に戻っていた。声に感情はなく、判断だけがある。
「ヴィオレッタ」
名前を呼ぶ声だけが、さっきと同じ温度だった。
「必ず戻ります」
戸口を出て、ハインツと並んで村道を歩いていく。
私は工房の入口に立って、その背中を見送った。
門の外。
風が吹いた。
頼ることの重さを、初めて知った。
一人で抱えなくてもいいと思えた安堵がある。それと同じくらい、誰かに頼った自分が少しだけ心許なかった。
弱くなったのだろうか。
わからない。
わからないけれど、あの人が「隣にいてよいですか」と聞いた時の声を、私はきっと忘れない。
奥の部屋から、リーゼルが顔を出した。
「師匠、帰っちゃいました?」
「うん。急な用事だって」
「ふうん。お茶、飲んでくれました?」
「飲んでくれた」
「よかった」
リーゼルはそれだけ言って、帳簿の続きに戻った。
工房の中に、茶の香りがまだ残っていた。




