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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第3話「伝えたいこと」

山道の向こうで、鳥が鳴いた。


朝靄がまだ残っている。工房の窓から見える山並みは薄い灰色に煙っていて、木々の輪郭がぼやけている。


今日、レナードさんが来る。


書簡に書かれていた日付は今日だった。「近日中に」ではなく、日を指定してきた。公務の合間を縫って辺境まで来るということは、それだけの理由があるということだ。


私は朝の仕込みを早めに片づけた。


定番品の煎じは昨日のうちに瓶詰めまで終わらせてある。リーゼルには午前中の工房番を任せた。


「師匠、お客さん?」


「うん。宰相府の方が来る」


「あの人ですか」


リーゼルが少しだけ口元を緩めた。「あの人」で通じてしまうことに、私は何も言えなかった。


「お茶、出すんでしょう。あたし、奥で帳簿やってます」


「……ありがとう」


気を遣わせている。この子に気を遣わせるような関係が、いつの間にかできている。


昼前。


工房の戸が叩かれた。


「入ってください」


戸が開いた。


レナードさんが立っていた。


前と同じだった。宰相の紋章はない。護衛の騎士も連れていない。仕立てのいい外套だけが、辺境の風景に馴染まない。


「お久しぶりです」


私は作業台の前から一歩出て、頭を下げた。


「お待ちしていました」


「ありがとうございます。少し、お時間をいただけますか」


「はい」


声が硬い。いつもの書簡の文面とは違う。公務の報告をする時の口調に近い。


けれど、それを崩そうとしている気配がある。硬い声の奥に、別の何かを押し込めている。


私は椅子を指した。レナードさんが腰を下ろす。姿勢は正しいが、膝の上に置いた手が微かに力んでいる。


竈の前に戻り、湯を注いだ。レナードさんのために改良した配合。甘草を減らして角を取ったもの。


杯を差し出した。


レナードさんは両手で受け取り、一口含んだ。


「……前より、柔らかくなりましたね」


「少し変えました」


「美味い」


短い言葉だった。でも、飲み方が変わっていた。前は少し冷ましてから口をつけていたのに、今日はすぐに飲んだ。温度を下げたことに、気づいたのだろうか。


何も言わなかった。ただ、杯を両手で包んでいた。


「ヴィオレッタ」


レナードさんが杯を置いた。


肩書きのない名前。二人きりの時だけの呼び方。


「お伝えしたいことがあります」


「はい」


「ルーゼン公爵が動いています」


やはり、そうだった。


「公爵家の代理人が法務院に出入りしていることは、宰相府でも確認しています。勘当撤回の手続きを準備している可能性が高い」


レナードさんの声は宰相のそれに戻っていた。正確で、感情を排した報告。


「ただし、撤回には本人の同意が必要です。あなたが同意しなければ成立しません」


「知っています」


「ええ。ですから、法的には問題ありません」


レナードさんは一度言葉を切った。


「問題は、公爵の動機です」


「動機」


「ルーゼン公爵は現在、社交界で孤立しています。断罪が冤罪と判明して以降、公爵家の信用は著しく低下した。後継問題も浮上しています」


「その状況で、あなたとの関係を回復することは、公爵にとって政治的な意味を持ちます。宰相府の顧問であるあなたが公爵家に戻れば、公爵家は宰相との接点を得る」


私は黙って聞いていた。


わかっていた。グスタフの噂を聞いた時点で、そこまでは推測していた。


「つまり、父は私を利用しようとしている」


「断言はできません」


レナードさんの声が、少しだけ揺れた。


「後悔や親愛が含まれている可能性も否定できない。ただ、打算が混在していることは間違いありません」


正直な人だ。


父を庇うこともしないし、一方的に断罪することもしない。事実だけを並べて、判断は私に委ねようとしている。


「会わない」


私は言った。


「会いません」


即答だった。考える必要はなかった。三年間何もしなかった人が、今になって動く理由に、純粋な後悔だけがあるとは思えない。


仮にあったとしても。


今の私には関係のないことだ。


レナードさんは頷いた。


「わかりました」


けれど、レナードさんは続けた。


「ただ、会わずに済ませられない可能性があります」


「どういうことですか」


「公爵級の貴族の移動は法的に保障されています。宰相であっても、公爵の移動を制限する権限はない」


「つまり」


「ルーゼン公爵が辺境に直接来る可能性があります。勘当撤回の申請自体は公爵の権限で提出できる。あなたの同意がなければ不成立ですが、申請の手続きのために直接訪れることは止められません」


私は杯を見つめた。


湯気が細く立ち上っている。


父が来る。


この工房に。


三年間、一度も姿を見せなかった人が、この場所に立つ。


竈の火と薬草の匂い。リーゼルの丸い字の帳簿。トーマスさんが直してくれた窓枠。レナードさんが座っている椅子。


ここは私の場所だ。


三年かけて、一人で作った場所だ。


そこに父が来る。


胸の底に、冷たいものが広がった。恐れではない。怒りでもない。もっと正体のわからない、重たい何かだった。


「ヴィオレッタ」


レナードさんが名前を呼んだ。


「もし公爵が来た時」


少しの沈黙があった。


「隣にいてよいですか」


宰相の声ではなかった。


報告でも、提案でもなかった。


この人が、個人として、私に聞いている。


私は杯から目を上げた。


レナードさんの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。


三年間、一人で立ってきた。一人で竈に火を入れて、一人で薬草を煎じて、一人で帳簿をつけた。一人で十分だと思っていた。


一人で立っていたいと、そう言ったこともあった。


けれど。


「……お願いします」


声が小さかった。


自分でも驚くほど、小さな声だった。


助けを求めたのは、いつ以来だろう。


覚えていない。少なくとも、この三年間では一度もなかった。


レナードさんは黙って頷いた。


大袈裟な言葉はなかった。約束とも誓いとも言わなかった。ただ頷いて、杯に手を伸ばした。


茶を一口、飲んだ。


それだけだった。


それだけで十分だった。


工房の外で、馬の蹄の音が聞こえた。


レナードさんの表情が変わった。


ハインツだった。レナードさんの護衛騎士。今日は同行していなかったはずだ。


戸が叩かれた。


「失礼いたします。閣下、急ぎの報せがございます」


レナードさんが立ち上がった。戸口でハインツと短く言葉を交わす。ハインツの声は低く抑えられていたが、一つの言葉だけが聞き取れた。


「弾劾」。


レナードさんが振り返った。


「申し訳ありません。帝都に戻らなければなりません」


「弾劾、と聞こえました」


「帝都で、私の罷免を求める動きが出ているようです。詳細はまだわかりません」


宰相の顔に戻っていた。声に感情はなく、判断だけがある。


「ヴィオレッタ」


名前を呼ぶ声だけが、さっきと同じ温度だった。


「必ず戻ります」


戸口を出て、ハインツと並んで村道を歩いていく。


私は工房の入口に立って、その背中を見送った。


門の外。


風が吹いた。


頼ることの重さを、初めて知った。


一人で抱えなくてもいいと思えた安堵がある。それと同じくらい、誰かに頼った自分が少しだけ心許なかった。


弱くなったのだろうか。


わからない。


わからないけれど、あの人が「隣にいてよいですか」と聞いた時の声を、私はきっと忘れない。


奥の部屋から、リーゼルが顔を出した。


「師匠、帰っちゃいました?」


「うん。急な用事だって」


「ふうん。お茶、飲んでくれました?」


「飲んでくれた」


「よかった」


リーゼルはそれだけ言って、帳簿の続きに戻った。


工房の中に、茶の香りがまだ残っていた。

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