第2話「父の影」
「師匠、グスタフさんの話、気にしてるでしょう」
リーゼルが朝の仕込みの手を止めずに言った。
私は黙ってトウキの根を刻んでいた。刃の音だけが工房に響く。
「気にしてない」
「嘘。昨日の夜、帳簿を三回開いて三回閉じてました」
見ていたのか。
「……眠れなかっただけ」
「はーい」
リーゼルはそれ以上聞かなかった。鍋の火加減を確かめ、乾燥棚のカミツレを数え、帳簿に数字を書き込んでいく。
この子の前では嘘がつけない。つけないが、理由を話すこともできない。
ルーゼン公爵家が動いている。
グスタフの言葉が、一晩経っても消えなかった。
仕込みを終えて、午前の煎じに入った。
鍋が三つ、竈の上で並んでいる。ヤナギソウの定番品、カミツレの安眠用、それから近隣の村へ卸す咳止め。どれも手慣れた配合だ。温度を見て、時間を測って、瓶に詰める。
手は動いている。頭は別のことを考えている。
父が法務院に使いを出している。
法務院が管轄するのは、爵位の記録、婚姻の届出、そして勘当の処理だ。
三年前、私はルーゼン公爵家から除籍された。当主権限による勘当。法務院の記録には「家門からの除籍」として残っている。
撤回するには、当主の申請と法務院への届出が要る。そして、私本人の同意。
同意しなければ成立しない。
それはわかっている。わかっているのに、胸の底が落ち着かない。
父が何かをしようとしている。三年間、何もしなかった人が。
なぜ今なのか。
宰相府の顧問になったからか。翠風堂の名が帝都に届いたからか。それとも、レナードさんとの関係が噂になっているからか。
どれであっても、父の動機に私自身への関心が含まれているとは思えなかった。
思えない、と断じることが、三年前なら簡単だった。
今は、簡単ではない。
恨んでいるわけではない。許したわけでもない。ただ、あの日の法廷で父が黙って立っていた姿を、私はまだ正確に受け止められずにいる。
「師匠」
リーゼルの声で我に返った。
「咳止め、三分過ぎてます」
慌てて鍋の蓋を取った。煎じすぎると苦みが出る。ぎりぎりだった。
「ごめん」
「大丈夫です。まだ間に合ってます」
リーゼルが瓶を並べて待っている。私は鍋を傾けて、琥珀色の液体を注いだ。
手が、わずかに震えていた。
気づかれただろうか。
リーゼルは何も言わなかった。ただ、瓶の蓋を一つずつ丁寧に閉めていった。
午後、帳簿の整理をした。
棚の奥にある古い帳簿を引き出す。今月の在庫確認のために、初期の仕入れ記録と照合する必要があった。
一冊目を開く。
最初のページ。
震える字で、一行だけ書かれていた。
「トウキの根 三束。カワラヨモギ 一束。所持金 銀貨四枚」
三年前。この村に来た最初の日に書いた記録だった。
字が歪んでいる。筆圧が定まらない。インクが一箇所にじんでいるのは、手が震えていたからだ。
あの日、私は公爵家から追い出された荷物ひとつの女だった。薬草の知識だけを頼りに、名前も知らない辺境の村に来た。
銀貨四枚。トウキの根が三束。それが全てだった。
帳簿をめくる。
二ページ目、三ページ目。字は少しずつ安定していく。取引先が増え、品目が増え、数字が大きくなる。リーゼルの名前が初めて出てくるのは二十三ページ目。「助手。リーゼル。報酬は食事と宿」。
そこから先は、二人分の字が混在し始める。
私の几帳面な字と、リーゼルの少し大きな丸い字。
今の帳簿には、もっと多くの名前が載っている。トーマスさん。グスタフ。近隣の村の薬種問屋。宰相府の経理担当官。
一人で始めたものが、一人ではなくなっている。
私は最初のページに戻った。
震える字を見つめた。
この字を書いた人間と、今の私は同じ人間だ。でも、同じではない。
あの頃は、父のことを考える余裕すらなかった。生きるだけで精一杯だった。
今は余裕がある。余裕があるから、蓋をしていたものが顔を出す。
帳簿を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
最初のページの隣に、小さな染みがあった。インクではない。
あの日、泣いたのだ。
覚えていないふりをしていた。でも帳簿は覚えていた。
夕方、宰相府の便が届いた。
定期連絡の封書と、公印のない手紙。
レナードさんからだった。
封を切る。
いつもの短い文面。流通の進捗、予算の状況、帝都の天候。
末尾に一行。
『近日中に辺境を訪問します。お伝えしたいことがあります。』
お伝えしたいこと。
公務の報告なら、書簡で済む。わざわざ「訪問して伝える」と書くのは、書簡には書けない内容だということだ。
父のことだろうか。
レナードさんは宰相だ。宰相府の情報網を通じて、ルーゼン公爵の動向を把握しているはずだ。グスタフの噂が私の耳に届く前に、あの人の手元には報告が上がっていたかもしれない。
それを、書簡ではなく直接伝えようとしている。
私のことを気遣っているのだ。
文面からは読み取れない。けれど、この人の書き方を知っている。必要なことだけを書く人が、わざわざ「お伝えしたいことがあります」と書く。それは、言葉を選んでいるということだ。
手紙を畳んだ。
胸の奥が温かくなる感覚と、不安が同時に来た。
レナードさんが来る。
父の話を持って。
私は手紙を棚にしまい、竈の前に戻った。
明日の仕込みがある。リーゼルは南斜面のカミツレを採りに行く。午前中は一人で煎じをやる。
やることはある。
考えるのは、レナードさんが来てからでいい。
今はまだ、何も決めなくていい。
そう思った。
けれど、棚の奥にしまった手紙のことが、ずっと頭の隅にあった。
レナードさんの筆跡。父の使いが法務院に出入りしているという噂。三年前の帳簿の、震える字。
「何も変わらない」と、心の中で呟いた。
私は翠風堂の工房主だ。帝国公認の辺境薬草顧問だ。毎朝竈に火を入れて、薬草を煎じて、瓶に詰めて、帳簿をつける。
何も変わらない。
その言葉を繰り返すこと自体が、何かが変わり始めている証拠だと、わかっていた。
窓の外で風が鳴った。
乾燥棚のカワラヨモギが揺れた。
明日も朝は来る。竈に火を入れる。それだけは変わらない。
それだけは。




