第1話「二杯目の約束」
忙しい、と思った。
朝の工房は湯気で満ちていた。
竈の火は夜明け前から入れてある。乾燥棚のトウキを下ろし、カミツレの花を選別し、煎じ用の水を三つの鍋に分けて沸かす。
瓶詰めの在庫が減っている。
近隣の村からの買い付けが先月の倍になった。帝国公認の顧問印が効いているのか、それとも単純にラーゼン村の薬草茶が知られ始めたのか。
どちらでもいい。手が足りないのは同じだ。
「師匠、カミツレあと三束しかないです」
リーゼルが乾燥棚の前で声を上げた。
「南斜面の群生地にまだ残ってる。明日の朝、採りに行こう」
「あたしが行きます。師匠は煎じのほうやってください」
言い切る口調が、少し前とは違う。
この子は変わった。任せた分だけ、自分の判断で動くようになった。採取の時期、乾燥の見極め、束ねる量。いちいち聞かなくなった代わりに、報告だけは正確に上げてくる。
「お願いね」
「はい」
リーゼルが帳簿を取りに奥へ消えた。
私はひとつ息をついて、棚の上段に手を伸ばした。
奥にしまってある小さな紙包み。
甘草の根を細かく刻んだもの。通常の煎じ茶には使わない配合だ。
これは仕事ではない。
レナードさんのための茶を、もう一度作り直そうとしている。
前に出した配合は悪くなかった。でも少しだけ角が残っていた。甘草の量が多すぎたのか、蒸らしの時間が長かったのか。
あの人は何も言わなかった。美味いと言って、全部飲んだ。
でも私は知っている。
あの人は少し冷ましてから口をつける癖がある。それを見ていたから、前より温度を落としたほうがいいとわかった。甘草も一割減らして、角を丸くする。
わかる、というのが問題だった。
仕事として出す茶なら、万人向けの配合でいい。相手の癖に合わせて調整するのは、もう仕事ではない。
わかっている。
わかっていて、新しい配合を試している。
竈の火が安定した。
鍋の湯がゆっくりと対流を始める。
私は小さな土瓶に湯を注ぎ、刻んだトウキと甘草を入れた。蓋をして、三分。
蓋を開ける。
香りが立った。前回より丸い。角が取れている。
一口、含む。
悪くない。
もう少しだけ甘草を減らしてもいいかもしれない。でもそれは次に試す。今日のところはここまでだ。
土瓶を棚に戻した。
午後になって、宰相府の定期便が届いた。
顧問契約に基づく公式の連絡書と、もう一通。
公印のない封書。
私宛の、レナードさんからの手紙だった。
文面はいつも短い。公務の合間に書いているのだろう。筆跡が少しだけ急いでいる。
辺境の薬草の流通について、帝都の薬種商から問い合わせが来ていること。次の四半期の予算配分が確定したこと。翠風堂の売上報告を受領したこと。
事務的な内容に混じって、最後に一行。
『辺境の気候はいかがですか。お身体を大事にしてください。』
公務の報告に、この一行は要らない。
要らないのに書いてある。
私はその一行を二度読んで、手紙を畳んだ。
畳んでから、もう一度開いた。
三度目に読んだとき、自分の顔が少し熱くなっていることに気がついた。
馬鹿みたいだ。たった一行で。
手紙の中に、もうひとつ気になる記述があった。
『帝都において、私の辺境訪問が一部で話題になっているようです。問題はありません。』
「問題はありません」。
レナードさんはいつもそう書く。
問題がないなら書かなければいい。わざわざ書くということは、問題ではないが無視もできない何かがあるということだ。
宰相が辺境に通っている。
その事実が、帝都の誰かにとって都合が悪い。
私は手紙を封筒に戻し、棚の奥にしまった。
考えても仕方がない。レナードさんが問題ないと言っているのだから、今はそれを信じるしかない。
信じるしかない、という言葉が、少しだけ重かった。
この人の足を引っ張っているのではないか。
宰相が私人として辺境の平民のもとに通う。それが帝都の貴族たちの目にどう映るか。
考えないようにしていたことが、あの一行で輪郭を持った。
「師匠」
リーゼルの声で顔を上げた。
「また眉間にしわ寄ってます」
「……寄ってない」
「寄ってます。煎じ始めてから一回もしゃべってないし、鍋見てるふりして手が止まってます」
的確すぎる観察だった。
「ちょっと考え事してただけ」
「考え事しながら鍋見てると焦がしますよ」
リーゼルが横から鍋の様子を覗き込んだ。火加減は問題ない。問題ないことを確認してから、この子はわざと言っているのだ。
「ありがとう。大丈夫」
「はーい」
軽い返事で、リーゼルは自分の作業に戻った。
何も聞かない。でも見ている。
この子がいてくれることの意味を、最近ようやく正確に理解し始めている。
夕方。
グスタフが来た。
帝都と辺境を行き来する行商人で、翠風堂の薬草茶を帝都でも卸している。商売の話のついでに、いつも帝都の噂を持ってくる男だ。
「繁盛してるね、翠風堂。帝都でも評判いいよ。宰相府のお墨つきってのは強い」
「ありがとうございます。品質は落とさないようにしています」
「うん、それは大事。で、ちょっと気になる話があってさ」
グスタフが声を落とした。
「ルーゼン公爵家が動いてるらしいよ」
手が止まった。
「動いてる、というのは」
「詳しくは知らない。ただ、公爵家の使いが何人か帝都の法務院に出入りしてるって話。何の手続きかまではわからないけど」
法務院。
勘当の記録を管理しているのは法務院だ。
「噂の域を出ない話だけどね。一応、知らせておこうと思って」
「……ありがとうございます」
グスタフは商売の話に戻り、いくつかの注文を確認して帰っていった。
私は工房の戸口に立ったまま、しばらく動けなかった。
父が動いている。
三年間、何の連絡もなかった人が。
何のために。
考えても答えは出ない。グスタフの話だけでは何も判断できない。
竈の火がぱちりと爆ぜた。
私は戸口から離れ、鍋の前に戻った。
明日も仕込みがある。カミツレの在庫を確認して、リーゼルの採取計画を聞いて、煎じの温度を見て。
やることはある。
手を動かしていれば、考えずに済む。
考えずに済む、と思うこと自体が、もう以前の私とは違うのだと気づいていた。
以前なら、考える必要すらなかった。父のことなど、とうに終わったことだったから。
終わったはずのことが、まだ終わっていなかったのかもしれない。
棚の奥にしまったレナードさんの手紙と、グスタフが持ち込んだ噂。
ふたつの影が、静かな工房の中で重なった。




