第1話「翠風堂の朝」
山あいの谷を抜けてきた風が、乾燥棚の薬草を揺らした。
ラーゼン村の朝は静かだ。
鶏が鳴き、井戸の滑車がきしみ、遠くで牛が低く唸る。それだけの音で一日が始まる。
私はその音を聞きながら、工房の竈に火を入れた。
翠風堂。
村の東外れ、もともと空き家だった石造りの小屋を借り受けて三年になる。
壁には乾燥させた薬草の束が並び、棚には私が調合した茶葉の瓶が詰まっている。
看板は木の板に炭で書いただけのもので、風が強い日は傾く。
それでも十分だった。
竈の火が安定したのを確認して、銅の鍋に水を注ぐ。
今日の仕込みは二種類。関節の痛みを和らげるヤナギソウの煎じ茶と、冷え性に効くトウキの温茶。どちらもこの村では需要が絶えない。
辺境の冬は長い。
寒さは骨に染みるし、農作業で身体を酷使する村人たちは慢性的な不調を抱えている。
帝都であれば魔法治癒で一瞬だ。けれど治癒師一回分の報酬は、この村の一家が半年暮らせる額に相当する。
だから、薬草がある。
私が三年前にこの村に流れ着いたとき、村人たちは痛みを我慢するか、気休めの民間療法に頼るしかなかった。
効能も分量も曖昧で、煎じ方も人によってばらばら。
もったいない、と思った。
素材は周囲の山にいくらでもある。足りないのは知識だけだ。
——前の人生で得た知識が、ここでは誰かの役に立つ。
それだけで十分だった。
それ以上のことは、もう望まない。
「師匠、おはようございます!」
戸口から飛び込んできたのは、赤毛を一つに結んだ少女だった。
リーゼル。
村の共同体で育った十五歳の孤児で、半年前から工房の手伝いをしている。
「おはよう、リーゼル。今日は早いわね」
「だって今日、トウキの根を掘りに行くって言ってたじゃないですか。あたし、場所もう覚えましたよ。北の斜面の、大きな樫の木の下でしょう」
得意げに胸を張るリーゼルに、私は小さく笑った。
この子は薬草の見分けに天性の勘を持っている。
教えたことはすぐに覚えるし、葉の色や匂いの微妙な違いを見逃さない。
「正解。でもその前に、昨日の乾燥具合を確認して。ヤナギソウの葉が縮れすぎていたら使えないから」
「はい!」
リーゼルが乾燥棚に駆け寄る。
私は鍋の湯加減を見ながら、今日の調合の手順を頭の中で組み立てた。
トウキは根を使う。
洗浄して薄く切り、日陰で三日乾燥させてから、低温でゆっくり煎じる。急いで高温にすると有効成分が壊れる。
こうした知識のすべてを、この世界の人間として身につけたわけではない。
ヴィオレッタ・ルーゼン。
かつてルーゼン公爵家の令嬢だった女。三年前に宮廷で断罪され、家から勘当された。
それが、この世界における私の経歴のすべてだ。
けれど私にはもう一つ、誰にも話していない記憶がある。
別の世界で、別の名前で、製薬の研究に没頭していた日々の記憶。
成分分析、抽出法、配合比率。
その知識が、この世界の薬草にも驚くほどよく当てはまる。
薬草と向き合っている時間だけは、どちらの人生の記憶も等しく私のものだった。
「師匠」
乾燥棚の前で、リーゼルが手を止めていた。
振り返った顔に、いつもの快活さがない。
「どうしたの」
「……あのね、聞いていいですか」
少し迷うような間があった。
「師匠は、本当にただの薬草好きなんですか」
指先が棚の瓶に触れたまま、リーゼルはこちらを見ていた。
「この瓶のラベル、全部師匠の字でしょう。すごく綺麗で、読みやすくて。あたし、村の誰の字ともぜんぜん違うなって、ずっと思ってた」
返す言葉を一瞬探した。
公爵家の令嬢は、幼少期から筆記教育を受ける。
文字の美しさは教養の証であり、身分の証でもある。
それを平民として暮らす今も、手が覚えている。
「……昔は別の場所にいたの」
それだけ答えた。
リーゼルは数秒、私の顔を見つめた。
何かを探るような目ではなかった。
ただ、どこまで踏み込んでいいかを測っているようだった。
「わかりました」
リーゼルはふっと表情を緩めた。
「あたし、聞きません。師匠が話したくなったら聞きます。それまでは聞きません」
「……ありがとう」
「そのかわり、トウキの根の見分け方、今日ちゃんと教えてくださいね。あたしまだ、三年ものと五年ものの区別があやしいので」
話題を切り替えたリーゼルの声は、いつもの調子に戻っていた。
私は小さく息を吐いた。
踏み込みすぎず、離れすぎない。
この子のその距離感に、何度救われたかわからない。
リーゼルが乾燥棚の確認に戻る。
私は鍋の蓋を持ち上げて、立ちのぼる湯気の匂いを確かめた。
ヤナギソウの青い香り。
この匂いがする場所が、今の私の居場所だ。
それだけで十分。
もう誰かに認められる必要はない。
もう誰かの期待に応える必要もない。
三年前に終わったのだ。
公爵令嬢としての人生も。
断罪された悪役令嬢としての物語も。
全部、終わった。
午後、トウキの採取を終えて村に戻ると、広場にトーマス村長の姿があった。
五十八歳の元帝国兵。
白髪交じりの髪を短く刈り、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ男だ。
杖をついているのは飾りではない。古傷のせいで右膝が悪い。
「ヴィオレッタさん、ちょうどよかった」
村長は片手を上げて私を呼び止めた。
「こんにちは、村長。何かありましたか」
「うむ。大したことではないんじゃが……いや、大したことかもしれん」
歯切れが悪い。この人にしては珍しかった。
「帝都から役人が来るらしい」
足が止まった。
「……役人、ですか」
「辺境の税収調査とかで、近隣の村をいくつか回るそうじゃ。ラーゼンにも寄ると、昨日伝令が来た」
税収調査。
この村の税収は、三年前と比べて確かに変わっている。
住民の健康状態が改善したことで農作業の効率が上がり、収穫量が増えた。
翠風堂の茶を近隣の村に卸し始めたことで、わずかながら商業収入も生まれている。
数字だけを見れば、辺境の小村としては不自然な上昇かもしれない。
「いつ頃ですか」
「十日ほど先だそうじゃ。馬での移動じゃから、天候次第では前後するかもしれんが」
「わかりました」
平静を装ったが、胸の奥が冷えるのを感じた。
帝都からの目。
それは三年間、私が最も避けてきたものだ。
ルーゼン公爵家の勘当令嬢。
宮廷で断罪された元悪役令嬢。
魔力ゼロの無能力者。
その経歴が知られれば、この村にいられなくなるかもしれない。
「あまり気にせんでええ。役人なんぞ、帳簿を見て飯を食って帰るだけじゃ」
村長がぽんと私の肩に手を置いた。
「……ありがとうございます、村長」
トーマス村長は、私の過去を詮索したことがない。
三年前、行き倒れ同然でこの村に辿り着いた私を、身元も聞かずに受け入れてくれた人だ。
薬草茶で村長の関節痛が和らいだ日、「あんたはこの村の恩人じゃ」と言ってくれた。
あの言葉があったから、ここに根を下ろそうと思えた。
けれど——帝都の目が届く場所に、いつまでもいられるとは思っていない。
私は籠に入れたトウキの根を抱え直して、翠風堂への道を歩き始めた。
背中に、リーゼルの足音がついてくる。
「師匠、さっきの話、聞こえちゃいました。帝都から人が来るんですね」
「ええ」
「師匠、顔が怖いです」
「……そう?」
「うん。でも大丈夫ですよ。師匠の茶を飲んだら、どんなお役人だってニコニコになりますって」
リーゼルが隣に並んで、籠の端を持った。
その手の温かさが、冷えた胸にじんわりと沁みた。
大丈夫。
ここは私の工房で、私の居場所で、私が選んだ場所だ。
たとえ帝都から誰が来ようと、翠風堂の竈の火は私が守る。
工房の扉を開けると、乾燥棚の薬草がまた風に揺れた。
朝と同じ、山あいの谷を抜けてきた風だった。




