騎士、奪われるという恐怖を知る
その夜、神殿は
「静かになりきれていなかった」
昼間の騒動。
聖者の怒号。
大神官の動揺。
人の配置は乱れ、
指示系統は歪み、
いつもなら張り付いている警備が、
微妙に薄くなっている。
誰もが、
「聖者は安全だ」
と思っていたからだ。
豪奢な客間。
扉の外には聖者の騎士。
神殿の奥深く。
――ここまで来れるはずがない。
その“思い込み”が、
いくつもの偶然を呼び込んだ。
客間の窓は、高く、広かった。
19世紀様式の長いアーチ。
分厚い石壁に嵌め込まれたガラスは、
外から中の光を、はっきりと映す。
夜でも、分かる。
中に誰かがいること。
――目印として、
あまりにも優秀だった。
聖者は、窓辺に立っていた。
豪華な部屋が気に食わず、
片づけない食事の匂いにイラついて、
夜の空気を入れたくて、
窓を開けた。
ただ、それだけだった。
重い硝子を押しあけた瞬間、
外気と一緒に
――人の気配が流れ込んできた。
「……あ?」
次の瞬間、
細い腕が、
ためらいがちに伸びてくる。
「せ、聖者さま……!」
複数の声。
焦りと、恐怖と、
必死さが混ざった声。
聖者は反射的に
振り払おうとした。
「……っ、またか!!」
怒鳴り、肘を振る。
「いい加減にしろ!
人を攫うのが趣味なのか、
お前ら!!」
だが――
掴んできた腕が、やけに細い。
武器もない。
骨ばった指。
力を込めきれない手。
「す、すみません……!
すみません、
聖者さま……!」
男たちは、
頭を下げながら必死に謝っていた。
「どうか……
どうか、お力を……」
平身低頭。
誘拐の最中だというのに、
誰一人、
威圧するでも、
怒鳴るでもない。
聖者の動きが、止まる。
(……弱い)
咄嗟に、そう思った。
力も、装備も、態度も、
神殿の連中とはまるで違う。
怒りはある。
だが同時に、
別の感情が湧いた。
(どうせここにいても、
ムカつくだけだしな……)
聖者は、肩の力を抜いた。
「……分かった」
賊が、はっと顔を上げる。
「抵抗しない。
だから、引っ張るな」
一人が恐る恐る聞いた。
「……ご、一緒に……?」
「行くって言ってんだろ」
「ここにいても話通じないし、
連れてくつもりなんだろ」
男たちは顔を見合わせ、
深く、
深く頭を下げた。
「……ありがとうございます……!」
その瞬間――
窓が、内側から開いた。
聖者の騎士が、
踏み込んでくる。
長い髪が揺れ、
視線が一瞬で状況を把握する。
――聖者が、奪われようとしている。
賊の一人が、
聖者の腕を取っている。
触れ方は遠慮がちで、
力も入っていない。
それでも――
“連れて行かれている”
という事実だけは、
動かない。
騎士の中で、何かが弾けた。
考えるより先に、身体が動く。
「――離れろ」
一歩で距離を詰め、
聖者の腕に手を伸ばす。
奪い返す。
ただ、
それだけのつもりだった。
だが。
「触るな!!」
鋭い声。
聖者が、はっきりと叫んだ。
その声は、
怒鳴り声ではない。
拒絶だ。
騎士の手が、空中で止まる。
「……」
聖者は、振り返って睨みつける。
短く、断定的に。
「俺は、
自分で
行くって言ってる」
騎士は、言葉を失った。
賊の男たちは、怯えながらも、
聖者の顔色を窺っている。
だが、拒否されていない。
触れられている。
自分は――
拒まれた。
胸の奥に、
鈍い衝撃が走る。
(……私は)
(ダメ、なのか)
一瞬前まで、
確かに腕の中にあった存在。
抱き上げた重さ。
体温。
荒い息遣い。
それが、
あまりにも簡単に、
手の届かない場所へ
行こうとしている。
しかも――
自分の意思で。
騎士は、
ゆっくりと手を下ろした。
ただ、
喉の奥が、
ひどく渇いた。
(……奪われる)
ダメだ。
(……置いていかれる)
その可能性が、
初めて、
はっきりと形を持つ。
聖者は、
もう騎士を見ていなかった。
賊に向き直り、
淡々と言う。
「行くなら、さっさと行こう。
ここ、気持ち悪い」
男たちは、深く頭を下げる。
「……あ、ありがとうございます、
聖者さま」
その言葉が、
騎士の胸を、さらに抉った。
――誘拐犯に、感謝される。
――自分は、拒まれる。
圧倒的な差。
騎士は、
初めて理解した。
自分は聖者にとって
安全な存在ではないのだと。
少なくとも、今は。
騎士は、一歩前に出た。
「――聖者さまに触れるな」
低く、
だがはっきりとした声。
賊が、びくりと身をすくめる。
「その方に、
これ以上、触れるな」
剣に手をかける。
まだ抜かない。
「選べ」
視線が、全員を射抜く。
「今ここで、
全員皆殺しにされるか」
一拍。
「俺も連れて行くか」
空気が、張り詰める。
賊は完全に怯え切り、
聖者を仰ぐ。
――どうする?
――殺される?
聖者は、その視線を受け止めて、
一瞬だけ考え――
「……ま、いーんじゃない」
軽く言った。
(力は強かったけど、
髪長いし、
前線でガチガチに
戦うタイプじゃないかも。
ーなら
いざとなりゃ撒けるだろ)
完全な勘違いだった。
「ついてきたきゃ、
勝手にしろ」
騎士の目が、わずかに見開かれる。
だが、何も言わない。
賊は、
深く、
深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!
ありがとうございます……!」
こうして、
聖者と騎士は、
並んで神殿を出た。
聖者は、
誰にも引きずられない。
自分の足で歩く。
賊の男たちは、
一定の距離を保ち、
聖者に触れない。
騎士は、
一歩後ろを歩きながら、
視線を離さない。
――奪い返すべきだ。
――今すぐ、全員斬って。
そう思うのに、
身体が動かない。
聖者は、
“奪われている”のに、
抵抗していない。
その事実が、
胸の奥を締め付けた。
(……失う)
初めて、はっきりとした恐怖が湧く。
(このまま、
どこかへ連れて行かれて、
二度と、
戻らないかもしれない)
さきほどまで、
至上で、絶対で、
守るべき存在だったもの。
それが今、
自分の手の届かない場所に
行こうとしている。
――奪われる。
騎士は、
剣の柄を、強く握りしめた。
この恐怖の正体を、
まだ知らないまま。




