餓える迷子
雨脚が強まる街道で、
アルヴィスはまた手綱を引いた。
広域に魔力を這わせながら追跡する中で、
あの方の反応が、
まるで水面に沈むように
世界から消滅する事がある。
「……またか」
しばらくすると、再び微かな反応が戻る。
アルヴィスは安堵の息を吐くが、
すぐに奥歯を噛み締めた。
これは「異常」だ。
聖者の痕跡は、
素人が隠せるものではない。
足跡は消え、魔力残滓は拭い去られ、
あろうことか「存在」そのものまで
断続的に遮断されている。
(誰だ。誰があの方の側にいる?)
あの方を守るのは、私の役目だ。
だが、この手際の良さはどうだ。
完全に痕跡を消し、魔物を避け、
私の追跡さえも
紙一重でかわし続けるこの指揮能力。
自分以外の誰かが、あの方の側にいて、
あの方を守っている。
聖者の安全に安堵する気持ちと、
その「有能な誰か」が、
あの方の信頼を得ているかもしれない想像に、
アルヴィスの胸は嫉妬で焼けただれるようだった。
泥にまみれた馬を再び走らせる。
その目は、聖者を案じる慈愛の色から、
泥棒を追い詰める捕食者の色へと濁り始めていた。
雨に打たれ続ける宿場町。
アルヴィスは厩舎の壁に手をつき、
荒い息を吐いていた。
馬を替える必要があった。
ほとんど休ませていない
泥まみれの馬はもう限界だ。
新しい馬を手配する間の、わずか。
それが彼が自分に許した唯一の休息だった。
懐の「スーツ」を確かめる。
濡れないよう、
傷まないよう大事に抱えている。
その感触だけが、
焦げるような渇きを少しだけ癒やす。
馬を引き渡したその時、背後の空気が変わった。
蹄の音が轟き、
白銀の鎧を纏った一団が雪崩れ込んでくる。
神殿直属の聖騎士団だ。
「――ッ!
そこにいるのは、アルヴィス卿か!」
団長の男が馬から飛び降り、
アルヴィスの胸倉を掴み上げた。
敵意ではない。悲痛な焦燥だ。
「あの方は?!どこにおられる!」
アルヴィスは喉を引きつらせ返事をする
「神殿からの追跡の噂を聞いた
あの方に置いて行かれました」
「貴様、なぜあの方の側にいない!
最強の騎士がついていながら、なぜ!」
団長の悲鳴のような叫びが、
アルヴィスの鼓膜を叩く。
「……申し開きもできん」
団長は歯を噛みしめる。
「急げ。あの方は——」
一瞬、言葉を選び、
苦し気に吐き出す
「この世界に、長く留まれる状態ではない」
アルヴィスの思考が、止まった。
「……どういう、意味だ」
「『世界との不適合』だ」
「大神官様が仰った。
召喚の儀式のあと、
継承の儀式を完遂せぬまま外に出れば、
あの方の肉体はこの世界に馴染まず、
衰弱されて……」
団長はその単語すら聖者に並べたくないという風に
途中で言葉を失う。
「……な」
「魂が削れてしまう!
一刻も早く神殿の結界へお戻ししなければ、
取り返しがつかなくなる!」
——あの方が、
死ぬ?
アルヴィスの顔色から、
一気に血の気が引いた。
「死」がこんなにも目前に迫っているとは。
私がのんびりと痕跡を探している
この瞬間にも、
あの方の命の灯火が消えかけている?
「くそっ……!我々は先行する。
大神官様より賜った
『聖遺物の羅針盤』が南を指している」
団長はアルヴィスを突き放し、
馬へと飛び乗った。
彼らもまた、聖者を救いたい一心なのだ。
「アルヴィス!
貴様も騎士なら這ってでも追いつけ!
無能な護衛で終わるつもりか!」
怒号と共に、聖騎士団は風のように去っていった。
残されたアルヴィスは、呆然と雨の中に立ち尽くす。
恐怖で指先が震えた。
スーツを握りしめる。
(死なせない。絶対に)
覚悟を決め、馬へ手を伸ばそうとした時だった。
聖騎士団の後から到着した
――枢機卿派の私兵たちが、
下卑た笑いを浮かべて現れたのは。
「へっ、聞いたかよ。死にかけてるってよ」
「傑作だな。
神殿であんだけ偉そうにしてたのによ」
私兵の隊長が、地面に唾を吐く。
アルヴィスの背中が凍りついたように止まる。
「おい、騎士様よぉ。お前も聞いたろ?
『弱ってる』ってよ」
「あんたの強さは知ってるが、手を組んで楽な仕事にしないか?」
「枢機卿猊下の『生きてればいい』のお墨付きだ、
逃げられた鬱憤も晴らせるぜ?」
「抵抗するなら痛い目見せて、
分からせてやるのもいいしな!」
「なんせ、あのみてくれだからな!
楽しめるってもんだ!ギャハハ!」
厩舎に響く下品な笑い声。
それが、アルヴィスの中の
「何か」を完全に断ち切った。
――あの方が、
聖者が死ぬかもしれない。
その事実に対し、
このゴミ虫どもは
何と言った?
アルヴィスはゆっくりと振り返る。
その表情は、能面のように無だった。
怒りすら通り越した、絶対零度の虚無。
「汚い……声を出すな」
アルヴィスの全身から、
膨大な魔力が噴き出した。
剣技ではない。
ただの純粋な魔力の暴走に近い「放出」。
だがそれは、
この場にいる全員を挽肉に変えるには十分すぎた。
バチャン!!
水に何かを叩きつけるような音が響く。
私兵たちの体は、
悲鳴を上げる間もなく内側から爆ぜ、
赤い飛沫となって散らばった。
一瞬前まで人間だったものが、
もはや何の肉かもわからないただの肉塊となり、
雨水と混ざって足元を流れていく。
集団の後方にいたローブの男――
魔導卿派から監視役として
紛れ込んでいた魔術師だけが、
本能的な恐怖でギリギリに障壁を展開していた。
それでも障壁は吹き飛ばされ、這いつくばる。
アルヴィスの魔力が次に動く前に、
魔術師は緊急時にと用意していた、
転移スクロールを死に物狂いで引きちぎり、
光に包まれて消えた。
後には、静寂と死臭だけが残る。
馬を引き渡した、
厩舎の主は、恐慌状態だ。
アルヴィスは、
何事もなかったかのように新しい馬に跨る。
その瞳に、殺戮への高揚感も罪悪感もない。
あるのは、ただひたすらに、
死に瀕した主への焦燥だけ。
「……あの方のお耳を、
不快な騒音で汚してはいけない……」
彼はスーツを、
子供をあやすように優しく撫でる。
その表情は、先ほどの修羅から一転、
聖母を求めて彷徨う迷子のように、
痛々しいほど切実なものに戻っていた。
「待っていてください……」
聖者のためなら世界を敵に回す修羅の執念を纏い、
騎士は即、南へ向かって馬を放った。
噂と血を置き去りにして。




