騎士、立つ
聖者様の残されたお召し物に、
顔を埋め、息を吸う。
あの方の匂いはもう薄い。
それでも、残り香のようなものが胸を刺す。
唇が、再度、布へ触れる。
拒まれはしない。
だが——
「……?」
違和感。
触れているのに、返ってこない。
魔力が、布の向こうに流れ込まない。
アルヴィスは、ゆっくりと魔力を乗せる。
強くはしない。
布を壊さぬよう、慎重に。
——弾かれない。
——だが、吸われもしない。
「……遮断、いや……」
彼は息を整え、理解に至る。
「無効化、か」
魔力を防ぐのではない。
存在しないものとして扱う。
アルヴィスは立ち上がり、
スーツを抱えたまま外へ出る。
宿の外気に触れた瞬間、魔力を解放した。
本来は戦場で敵の布陣を「吹き飛ばす」ための
広域殲滅魔法の補助技術だが、
彼はそれを知覚の網として使う事を思いつく。
無機質な魔力の風が、人々の間を抜け、
馬車を抜け、城門を越えて拡散していく。
世界になじんだ物質なら、
風はそのまま透過する。
だが、「異界の物質」に
極微量の魔力を通し、
それを基準に周囲へ魔力を飛ばせば、
同じ波長を持つ「聖者」に触れれば、
そこだけ風が吸い込まれ、
あるいは弾かれ、
「空白」ができるはずだ。
アルヴィスは瞼を閉じ、呼吸を止める。
体内で渦巻く膨大な魔力を、薄く、細く、
針の穴を通すような繊細さで練り上げる。
得意とするのは破壊の魔法だ。
だが今、彼はそれを殺傷力のない極薄の「風」に変え、
広場全体、
そして城壁の外へと一気に解き放った。
アルヴィスは宿から一番近い門へ向かう。
雑多な喧騒が、満ちていた。
南門周辺は、出立前の行商人の馬車や、荷役、
護衛の傭兵たちでごった返している。
(……どこだ。どこにおられる)
北、東、西……風は淀みなく流れる。
だが、南。南門から続く街道の遥か先で、
放った魔力がふつりと「消失」した感覚があった。
「————これだ!」
聖者の影をとらえることができた喜びに総毛だつ。
(……南か)
方角は掴んだ。だが、遠い。
徒歩か?
いや、あの方の足でこれほど距離が稼げるはずがない。
ならば、何らかの手段で連れ去られたのか?。
アルヴィスが殺気立ちそうになるのを抑え、
目を開いた時だった。
すぐ隣で、荷積みを待つ商人たちの
話し声が耳を打った。
どうやら商人間では、
雑談でかなりの量の情報が交換されている。
「……北の谷、瘴気が急に濃くなったらしい」
「南街道で魔獣が出たってよ」
「護衛増やさねぇと、死人が出るぞ」
「おい、聞いたか?
西の森でまた『腐り狼』が出たらしいぞ」
「最近、瘴気の濃度が上がってねぇか?
神殿は何やってんだ」
不穏な単語に、アルヴィスの胃が冷たく縮み上がる。
瘴気が濃くなっている。
そんな外の世界に、
浄化の制御もままならないあの方が、
身一つで放り出されているとしたら…。
「……早く、見つけないと」
独り言のように、零れた。
焦燥感に駆られ、
足を南の街道へ向けようとしたその時、
別の男たちの笑い声が聞こえた。
「それよりお前、『鉄壁のヴァン』の噂聞いたか?」
「ああ、でたらめに強いあの?」
「そうそう。あいつ、
ギルドの仲買人に難癖つけられてたんだけどよ。
なんでも、新しく雇った連れがとんでもない
『凄腕』だったらしくてな」
「用心棒か?」
「いや、それが『会計士』だってよ。
仲買人がふっかけた矛盾を、
その場で全部計算して脅してみせたんだと!」
「ははっ!あの業突く張りの仲買人が?
そりゃ痛快だな!」
「あれ以降、あの業突く張り、
みてた奴らにやり返されてるってさ」
ギャハハ、と笑う商人たち。
アルヴィスは興味を失い、
ふいと視線を外した。
聖者は、戦えない。
奇跡はあっても、それは武器じゃない。
再度、広域に魔力を這わせる。
やはり南で、ふつりと途切れ、
先ほどよりも遠くなった消失点に
聖者と繋がれる希望で目の前が滲む。
「早く」
アルヴィスは、忍ばせたスーツを抱く腕に力を込める。
指先に伝わるのは、聖者が残した衣服の冷たい感触。
その服を通して
まだ繋がれていると思える事実に、
胸の奥がわずかに緩む。
「すぐにお側に」
騎士は、正確に聖者のいる南を見据え、馬を駆る。




