聖者、やっと息ができる
街の門を抜けて半日。
街道は穏やかだった。
空はどこまでも高く、青い。
追っ手の気配がないことに、
聖者——は、
異世界に来て初めて、
肺の底まで空気を吸い込んだ気がした。
御者台で手綱を握る大男・ヴァンが、
隣で黙り込んでいるフードの男に
少し愉快そうに声をかける。
「さて。『名無しさん』?
それとも『フードさん』とお呼びすれば?」
男はフードの下で小さく溜息をつくと、
観念したように口を開いた。
「……慧です」
「長岡 慧。
ナガオカが家名で、ケイが名前」
「火傷の跡が酷いから、
失礼だけどフードは取りたくない」
大男は
「私はヴァン・エル=ハルトです」
と改めて名乗り、
フードについて揶揄ってしまった事を詫び、
失礼でも何でもないので
気にせず過ごしてほしいと告げる。
「ありがとう…」と
少し肩の力を抜けた慧の様子をみて
ヴァンはほっとする。
かなり街から離れ、
街道から脇に逸れた場所の、
澄んだ小川が流れる木陰。
馬を休ませるために停車し、
ヴァンは慧に声をかける
「川があるから、
少し涼むといいですよ」
慧は川辺へ降りた。
無造作にフードを脱ぎ捨て、
冷たい水に顔を浸し、バシャバシャと洗う。
ブーツを脱ぎ、川に足を浸すと、
そのまま岸辺の草に背中を預け、
うとうとと瞼を閉じてしまった。
「……そろそろ出ますが、」
荷台の点検と馬の世話を終えたヴァンが、
声を掛けようとして
——絶句した。
木漏れ日の中、青草の上に広がるのは、
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。
そして、
無防備にさらされたその顔立ちは、
陶磁器のように白く、
整いすぎていた。
この世界には存在しない色彩。
神殿が血眼になって探す
「生ける奇跡」
(……マジかよ)
元将軍であるヴァンは、
即座に理解した。
自分が拾った、
訳アリっぽいフードの賢者は
「聖者」その人であることを。
火傷の跡など、どこにもない。
あるのは、見る者を魅了する、
異界の美貌だけだ。
ヴァンが近づく気配に、
慧が身じろぎし、
ゆっくりと瞼を開ける。
そこにある瞳もまた、
吸い込まれるような
黒曜石の色だった。
「……ん、
あ……おはよう、バン」
寝ぼけた声。
完全に無警戒なその姿に、
ヴァンは呆れると同時に、
妙な安堵を覚えた。
「おはよう。ケイ。
……火傷、ないんだな」
「……あ」
慧は自分の頬に触れ、
バツが悪そうに視線を泳がせた。
「……怒ってるか?」
「まさか。
火傷の薬を用意しなきゃと思ってたが、
その必要がなくなって安心した」
ヴァンは苦笑して、
その場にしゃがみこんだ。
「まさか聖者様だったとはな…」
「……聖者じゃない!」
慧は身を起こして、不機嫌そうに言い返す
「俺は何もできない。
魔法も使えないし、
勝手に連れてこられただけだ!」
「街で噂になってた
”攫われた神官”はお前の事か…」
「誘拐された上に強制労働なんて
納得できないって、
ブチ切れて逃げてきたから
そうだろうな。
……通報するか?」
慧はヴァンの本音を見逃さないように
ただじっと黒い瞳で見つめてくる。
「……そうだな」
ヴァンがぽつりと同意する。
「お前の言う通りだ。
自分たちの世界の問題を、
異国から無理やり連れてきた
人間に押し付けるなんて、
恥知らずにも程がある」
慧の頭に、
大きな手がポン、と置かれる。
「俺たちの問題は、
俺たちでどうにかするべきだ。
……逃げて正解だよ、ケイ」
その言葉に、
慧の胸のつかえが少しだけ取れた気がした。
ヴァンは、聖者に対して
跪くことも祈ることもせず、
ただ
「手のかかる連れ」
として手を貸した。
その温度が、慧には心地よかった。




