帰宅したら、聖者だった(※本人は認めていない)
玄関の鍵を回したところで、
視界がぐらりと揺れた。
「……は?」
珍しく残業のなかった仕事帰り。
いつものスーツ。
いつもの革靴。
少し重くなった肩を回しながら、
鞄を――
――鞄?
掴んだはずの感触が、
なかった。
同時に、
足元が消える。
浮遊感。
耳鳴り。
目の奥を締め付けるような、
眩暈。
「ちょっ……!」
踏ん張る間もなく、
世界が反転した。
次に意識を取り戻したとき、
男は膝をついていた。
石の床。
冷たい感触が、
掌からじわりと伝わる。
顔を上げると、
見知らぬ空間が広がっていた。
高い天井。
円形の広間。
足元の床には、
光る複雑な紋様。
――幾何学的な、
魔法陣のようなもの。
周囲を囲むのは、
法衣を着た人間たちと、
鎧姿の兵士。
全員が、
こちらを見ている。
祈りのポーズの人もいる。
……まるで、
映画の世界だ。
ざわめき。
息を呑む音。
誰かが、
涙ぐんでいる気配すらあった。
「……えーと」
男は、
まず自分の身体を確認した。
スーツ。
ネクタイ。
腕時計。
――鞄は、
ない。
状況が飲み込めないでいると、
誰かが叫んだ。
「聖者さま……!」
その瞬間、
男の眉がぴくりと動いた。
「……何?」
声は低く、
警戒を含んでいた。
「聖者さま、
ようこそ……!
この世界をお救いくださる、
御子様……!」
深々と頭を下げる、
法衣の男たち。
奥には、
中世の騎士のような
甲冑姿の人間が、
膝をついている。
男は周囲を一巡見回し、
ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと待って」
両手を軽く上げる。
「まず確認させてくれ。
――ここ、どこ?」
法衣の男が答える。
「レガーレ国神殿でございます。
聖者召喚の儀は、
無事――」
「待て」
遮る。
「――あんたたち、
誰」
ざわめきが広がる。
だが男は、
構わず続けた。
「――俺、
なんでここにいる?」
沈黙。
数秒の空白のあと、
法衣の男が、
困ったように微笑んだ。
「聖者さま……
その、
我々をお救いいただくために――」
男の中で、
何かが繋がった。
玄関。
眩暈。
落下感。
そして、
この状況。
まさかとは思いたいが――
CMやアニメで見る、
異世界召喚……?
「……ああ」
理解した瞬間、
声の温度が、
一気に下がる。
「つまり」
一歩、前に出る。
「俺を、
勝手に連れてきたわけだ」
空気が、
張り詰めた。
「帰せ」
短く、
はっきりと。
「元の場所に、
今すぐ帰せ。
冗談でも比喩でもなく、
今すぐだ」
法衣の男たちが、
動揺する。
「聖者さま、それは……」
「帰せって言ってる」
「同意も説明もなく人を攫って、
“救え?”
“働け?”
“聖者だ”?」
男は、
笑った。
笑ってから、
声の温度を、
一気に落とした。
「――厚かましいにも程があるだろ」
「何が聖者だ!
やってることは、
ただの拉致と強制労働だ」
「帰せ」
短く、
命令の形で。
「元の世界に、
今すぐ帰せ。
出来ないなら――」
男は、
全員を順番に見た。
「滅びろ!」
「その程度の倫理観しか持てない文明なら、
いっそ全部、
終わった方がマシだ」
完全な沈黙。
騎士たちがざわつき、
剣に手をかける音がする。
この召喚は失敗なのでは……?
本物の聖者様ではない。
偽物だ。
そんな声が、
どこかで上がった。
だが、
誰も近寄ろうとしない。
ざわめきの中、
法衣の男が、
一歩前に出た。
年配で、
立ち居振る舞いだけは
やたらと洗練されている。
「聖者さま。
どうか――」
「帰せ」
即答だった。
「元の場所に戻すまで、
俺は一歩も動かない」
男は、
魔法陣の中心から
足を動かさず、
はっきりと言い切った。
「ここで何を言われようが、
何をされようが、
無駄だ。
戻せないなら、
ここで突っ立ってる」
法衣の男は一瞬、
言葉に詰まり、
困ったように息を吐く。
「……今すぐ戻すことは叶いません。
ですが、
突然のことでお疲れでしょう。
まずは――
お休みいただけるお部屋へ」
「動かない」
ぴしゃりと、
空気を断つ。
「“休める部屋”とか、
“落ち着いてから話そう”とか、
そういうのは全部、
同意があって
初めて成立する」
周囲がざわつく。
だが誰も、
強く出られない。
――触れない。
――触れられない。
信仰が、
彼らの身体を縛っていた。
法衣の男は一瞬、
視線を伏せ――
背後を振り返る。
「……聖者の騎士」
低く、
しかし明確な
命令の響き。
「御子様はお疲れです。
客間へ、
お連れしなさい」
男は初めて、
その“騎士”を
真正面から見た。
鎧姿。
自分より一回り大きい体格。
だが、
目だけは静かで、
焦りも押しつけもない。
騎士は一歩近づき、
深く頭を下げた。
「失礼いたします、
聖者さま」
「近寄るな!」
即座に噛みつく。
「許可してない。
動かないって
言ってるだろ」
騎士は剣に触れない。
声を荒げることもない。
「承知しております」
それでも、
距離を詰める。
「ですが、
ここはただの広間で、
聖者様がお休みになれる
場所ではありません」
「ふざけんな!
お前らが勝手に
連れてきたんだ。
休める場所なんて――」
「――許可なく
御身に触れる不敬を、
お許しください」
次の瞬間、
視界が持ち上がった。
「……っ!?」
抱き上げられている。
鎧越しに伝わる、
確かな腕。
乱暴さはない。
だが、
揺るぎもない。
「放せ!!」
反射的に、
拳で顔を殴りつける。
――ごん。
「……っ、
いって!」
殴った手が、
じんと痺れた。
騎士は眉一つ動かさず、
静かに言った。
「……お手が痛みます」
そう言って、
殴った方の腕を、
そっと押さえる。
掴むのではない。
抑え込むのでもない。
まるで、
壊れ物に触れるような手つき。
だが、
腕は動かせない。
「触るな……!」
男は全力で暴れた。
だが、
落とされることもなく、
抑えられた腕も
振りほどけない。
騎士は一切、
咎めない。
「慣れない場所に来られて、
気が立っておられるのは
当然です」
声は低く、
穏やかで、
徹底的に、
丁寧。
「どうか、
ひとまずここよりも
落ち着ける場所へ」
歩き出す。
男はなおも抵抗した。
だが、
怒りに任せて暴れても、
びくともしない。
フィジカルで
敵わないことは、
もう理解していた。
通されたのは――
客間だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、
男は思わず、
眉をひそめた。
広い。
天井が、
異様に高い。
白を基調にした
漆喰の壁。
単なる平面ではなく、
緩やかな曲線と
装飾的な縁取りで
区切られている。
柱は細身だが、
天井へ向かって
優雅に伸び、
その接合部には、
植物文様のレリーフが
彫り込まれている。
――手間が、
異常だ。
床は濃い色の木張り。
艶が出るほど、
磨き込まれている。
靴音が、
やけにくっきりと
反響した。
壁際には、
背の高い飾り棚。
中には、
用途の分からない装飾品や、
革装丁の
分厚い本が
並んでいる。
寝台は、
ほとんど舞台装置だった。
四本柱の
天蓋付き。
柱には金色の細工。
淡い色の布が、
ゆるく垂れ下がっている。
掛け布は重く、
縫い目一つ一つが
揃っているのが
分かる。
――絶対に、
一人で整えたものじゃない。
部屋の奥には、
大きな窓。
縦に長い、
アーチ状の窓枠。
厚みのあるガラス越しに、
外光が柔らかく
差し込んでいる。
窓辺には、
磨かれた木製の小卓と、
背もたれの高い椅子。
どれもこれも、
「もてなすために、
長い時間をかけて
作られた」
ものだった。
男は、
ゆっくりと
息を吐いた。
「……趣味悪いな」
豪華すぎる。
無駄が多い。
だが同時に、
隙がない。
掃除は行き届き、
埃一つ落ちていない。
香りも、
強すぎず、
弱すぎず――
「聖者が不快にならない」
よう、
計算され尽くしている。
――金と人手と時間を、
惜しみなく
注ぎ込んだ部屋。
騎士は、
男を寝台へ下ろすと、
再び一礼した。
「こちらで
お休みください」
男は部屋を一巡見回し、
窓の位置。
扉との距離。
外へ続く動線を、
頭に入れてから、
鼻で笑った。
「……客間、ね。
ずいぶん気を使ってる、
体・《てい》じゃないか」
もてなしの顔をした檻。
逃げられそうで、
逃げられない。
騎士は頭をさげ、
扉の外へ下がる前に、
静かに言った。
「わたくしは、
ここにおります。
何かございましたら、
どうかお声がけください」
扉が閉まる。
一拍。
男は、
再び部屋を見渡し、
完璧な調度品に向かって、
吐き捨てた。
「――だから
軟禁って言うんだよ!
これは!」
怒声が、
磨き上げられた壁と
高い天井に
吸い込まれていった。
男は寝台に
仰向けに倒れ、
荒く息を吐く。
「……最悪」
だが、
目は冴えている。
ここが客間である理由。
窓の位置。
騎士の立ち位置。
「……考えるか」
この世界で、
どうやって
主導権を取り返すかを。




