2. 優しい日常
第2話をお読みいただきありがとうございます。
平和なパン屋でのひととき。リリアが大切にしている「日常」を、もう少しだけお楽しみください。
「――っ、もう朝なのね・・」
鼻腔をくすぐったのは、香ばしい小麦とイーストの香りだった。
窓から差し込む朝日は眩しく、夢の中の不快な少年の声は、遠くへ霧散していく。
「また、あの夢……。よっぽど腹が立ってたのね、私」
額の汗を拭い、私は手早く身支度を整えた。
一階へ降りると、そこにはいつもの、愛すべき「我が家」の光景が広がっている。
「おはよう、リリア。今日もいい焼き上がりだぞ」
カウンターの奥で、大きな岩のような男――父様が、焼き立てパンのトレイを並べていた。
身長は二メートル近くあり、丸太のような腕には筋肉が躍っている。かつて戦場で負ったという右目の大きな傷跡は、今も深い。一見すれば誰もが震え上がる強面だが、その瞳は驚くほど穏やかだ。
「おはよう、父様! クミンを効かせたライ麦パンね!すごく美味しそう!」
「ああ。お前が昨日仕込んでくれた生地が最高だったからな」
父様は大きな手で私の頭を優しく撫でる。
この手は、赤ん坊だった私を敵兵から守り、今は街の人々を笑顔にするパンを焼いている。
「ちょっとあなたたち、お喋りしてないで! もうすぐ開店よ。リリア、その寝癖を直しなさい。いつ誰に見られても恥ずかしくないようにって、いつも言っているでしょう?」
店の入り口でテキパキと開店準備を整えているのは、母様だ。
社交的で、凛とした立ち振る舞いの母様は、元侍女というだけあって礼儀作法にはとても厳しい。
パン屋の女将さんにしては気品がありすぎる気もするけれど、怒ると父様より怖い。
「わかってるわよ、お母様。ちゃんと結び直すから」
私がエプロンを締め直していると、カランカランと威勢よくドアが開いた。
「おはよー! 朝から景気のいい匂いねえ!」
大きな籠を抱えて入ってきたのは、隣の牛乳屋のおばさんだ。
「リリアちゃん、今日も可愛いわね! ほら、今朝絞ったばかりの新鮮なミルクだよ。これでお肌もツヤツヤにしなさい。あんたは将来、きっといいお家に嫁ぐんだから!」
「もう、おばさんたら。私は一生、この店でパンを焼くんだからね」
「あら、勿体ない! こんなに器量よしで、おまけにこの厳しい奥さんに仕込まれたマナーまであるんだから。どこぞの貴族様が見初めに来てもおかしくないわよ?」
おばさんはガハガハと笑いながら、父様にミルクの瓶を渡す。
そんな冗談を笑って流しながらも、ふと、今朝の夢を思い出した。
(貴族様なんて真っ平。私はこの温かい商店街で、お父様とお母様と一緒に、美味しいパンを焼いて生きていくんだから)
この時の私は、まだ知らなかった。
平和な下町に、かつての「天敵」と、私をずっと探し続けていた「本当の両親」の影が、すぐそこまで迫っていることを――。
幸せであればあるほど、失われるときが怖い……そんなパン屋の朝でした。
リリアを見つめる視線は、すぐそこまで迫っています。
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