1の6 奥州の荒獅子
京の都は、秀吉襲撃事件で大騒ぎとなった。
軍勢も大勢出て、洛中と洛外を分ける御土居を中心に固められ、これを京都所司代の前田玄以が中心となって指揮した。
前田は、疑わしきは斬れと、多くの浪人者を捕らえて川原で処刑した。
「関白さまは死にそうらしい」
「狙ったのは、徳川家康だ」
「いや、関東の忍、風魔党だ」
「草津で山賊が暴れているらしい」
噂が噂を呼び、捜査をかく乱させた。
南蛮寺に逃れた成実らは、キリシタン信者の服を借りて変装し、寺からは一歩も出なかった。
秀吉に恨みのある人間はごまんといる。
それでなくても天下を狙う徳川家康などは、豊臣政権の混乱ぶりを喜んで見ているだろう。
ひと月も経つと秀吉は、悪い噂を消すためだろう。天下の大茶会を催し、それに合わせて京都を通常警備に戻した。
成実らは、我慢比べに勝った。
南蛮寺の皆は、本当に大事に匿ってくれた。いつかこの御恩を返したいものだ。
「伴天連追放令」が出てから数年、全国のキリシタン(信者)と豊臣政権とは、水面下で激しく対立していた。布教は許さぬ。だが、南蛮渡りの硝石は欲しい。この秀吉のかかえている矛盾が、キリシタンの結束を強くさせていた。
この寺には、伊東の仲間の千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの三人と、南蛮人高僧のバリニャーノ、フロイス、オルガンティーノ、ロドリゲスらが滞在していた。
聞く所によると去る閏一月八日に、伊東らはインド副王メネーゼスからの使節として、聚楽第で関白豊臣秀吉に謁見したそうだ。
だから偶然にも、この南蛮寺には、日本におけるキリシタンの最高首脳陣が居合わせていた。
他の伴天連は追放あるいは処刑されて日本には居ないことになっている。
伊東の仲間三人は食事を用意してくれて親切だったが、しばらくして窮屈な京都から信仰の自由な九州の加津佐へと旅立って行った。
伊東の治療により、遊佐は、右腕に不自由は残るものの歩き回れるようになった。
秀吉の鉄砲傷は思いのほか浅手だったらしく、変わらず忙しなく動き回っていた。まさか影武者という事はないだろう。
聞くところによると、家臣の次男三男など活きのいい漢を次々と馬廻りに加えて、数百人規模の馬廻り衆を作ったらしい。今度の襲撃事件で、先の天下人、織田信長の二の舞になるのを恐れたのであろう。
成実は、防御を固めてしまった秀吉の襲撃は困難だと見ていた。それよりも太刀すらも抜かずに逃げた秀吉は殺す価値もないと見下した。
最近の成実は、南蛮に夢中であった。
筒袖や細袴は、最初は窮屈に感じたが、乗馬では身体の線が美しく見えるし、急所の手首の裏や足首の腱なども隠せていいと思う。
帽子も茶や黒といった、数種類を揃えた。
ただし、ヒダヒダの襟巻きは美しくないので捨てた。南蛮人の美意識というものを疑う。
これらの衣装に脇差を差し、新しく手に入れた幅広の太刀と南蛮製短剣を革帯で両腰に下げた。
成実は、南蛮寺に住居するこの機会に異国の知識を学ぶように心がけた。
簡単な質問には伊東自身が、難しい質問はラテン語に通訳してもらって、バリニャーノに答えて貰った。しかし、まったくもって難解である。
そもそもキリスト教とは、1600年近くの歴史があり、天地創造の神デウスが使わした神の子、救世主イエスの教えによって始まった。日本へ伝播したのは、その宗門の一つのイエズス会で、イエズス会は、西暦1540年にローマ教皇によって認められた最大の男子修道会である。ちなみに今年はグレゴリオ暦1591年だそうで、創立五十一年目に当たるそうだ。
ローマ教皇とは、キリスト教の唯一最高の司祭であり、その下に枢機卿やパードレと呼ばれる司祭と、イルマンと呼ばれる修道士の身分がある。
現在、日本に潜むパードレは五〇人。イルマンは九二人で、これにキリシタンと呼ばれる信者が、日本全国に約七〇万人もいるそうだ。
伊東らは、天正十年の1582年に日本を出発し、インド、アフリカを経てヨーロッパへと旅をした。
旅は、正使の伊東マンショと千々石ミゲル。副使の原マルチノと中浦ジュリアン。下働きの少年でコンスタンチーノ・ドラードとアグスチーノ。イルマンのジョルジェ・ロヨラを加えた日本人七人に、引率の東インド巡察師のアレシャンドロ・バリニャーノと、パードレのメスキータ師。
インドのゴアからは、バリニャーノに代わって、ヌーノ・ロドリーゲスが引率した。
ポルトガルでは、国王代理のアウストリア枢機卿や、ブラガンサ大司教の歓待を受け、「日の沈まぬ帝国」のイスパニア(スペイン)では、皇帝フェリペ二世に迎えられ、北イタリアでは、トスカーナ大公のフランチェスコ一世に大変な歓迎を受けた。
ローマでは、バチカンの「帝王の間」にて教皇のグレゴリウス十三世による盛大な引見式が行なわれた。老齢の教皇は、まもなく病死なされたが、新教皇のシスト五世にも手厚いもてなしを受けた。
ベネチア共和国では九十五歳の老元首、ニコロ・ダ・ポンテ大統領に歓迎された。
そうして日本に帰国したのは、昨年の天正十八年(1590)六月であった。
八年もの長旅で伊東は思う所があり、ラテン語と医術を身に付けた。
そう説明する伊東は、王の名や貴族名、地名、世界地図などを紙に書いてくれた。
成実らは、初めて聞く世界に興味が尽きなかった。
驚いたのは、この世は真ん丸の球形らしい。そして自分達はその玉の上にいる。
異国にも多くの王族がいて、贅沢な暮らしをしている。
異国の食事、建物の壮大さ、船の大砲、新式鉄砲などについて熱心に話してくれた。
「これから後、伊東殿は出家するのか、それとも医師になるのか?」
「正直、迷っております」
成実のふとした一言に、伊東はそう答えた。
「ともに旅をした他の三人は、九州で信仰に生きるそうです。私は治療の為に京に残りましたが、医術と言っても未熟ですし、先のことは判りません」
「何を言う。俺より二つも若いのだ。生き方はそのうち見つかるさ。もし、神様のお導きを信じるなら、俺たちと一緒に奥州に来て助けてくれないか?」
成実は、伊東の素直さを高く買っていた。
「でも、伴天連殿に恩義がありますので」
「ならば直接、バリニャーノ殿に頼んでみよう」
すぐに成実は、礼拝堂に飛んでいった。
成実は懸命に説いた。伊東マンショを医師として奥州に迎えたいこと。異国の話をしてもらいたいこと。神の教えを説いてほしいこと。
日も落ち、夕方から二刻(4時間)も粘る成実の情熱に、五十三歳のバリニャーノは感銘したのか、あるいは根負けしたようだ。
「いいでしょう。医術も大切な救済の道です」
「おお、良いのか。武士に二言は無いな?」
バリニャーノは武士ではないのだが、成実は間違えるくらいに喜んだ。
「あわせて指導司祭として、パードレの岐部ペドロも同行させましょう」
なんと、大判振る舞いではないか。南蛮坊主も信者獲得には熱心なようだ。
もし、奥州にキリシタン信者が増えれば、一揆や反乱のような事態になるかとも一瞬思ったが、とりあえず利用できるものは何でも利用するのが、戦国の習いである。
成実は、枯れた声で「大歓迎である」と伝え、伊東と岐部を仲間とした。