2の5 伊達海軍を創る
天正十九年(1591)九月二十五日。
政宗に子が生まれた。政宗と同じ二十五歳の側室、飯坂局が生んだ長子は、兵五郎と名付けられた。
成実は祝いの品を送った。京や堺、カピタンの原田から入手した、珍しい羽飾りの付いたビロードの帽子と毛織物の猩々緋、それに南蛮製短剣である。
成実は今、新領地の気仙沼で忙しなく働いていた。
まず、気仙沼港のすぐ西の丘「笹が陣」に城を普請すべく縄張りをした。丘の上部を平坦に均し、城門や虎口、横矢掛けなど、随所に敵を防ぐ仕掛けをほどこす。
尾根の繋がる西側は、深い堀で切割って東西に分け、堀底は道として城下町の南北を連帯させるようにする。
造船に力を入れたいので、城は、本丸、二の丸、三の丸と分けずに、総本丸のみで、多くの土蔵を巧みに配置して領域を仕切る。石垣も要所のみで、金と時間のかかる天守は造らない。
港は、堺で見た突堤を真似して、木の杭を打ち込んだ護岸とし、船が横付け出来るように工夫した。
三陸地方は、湾奥に行くほど幅が狭く浅くなる為、津波が非常に高くなる。
この土地の者は、津波を「よだ」と呼ぶが、最近では、天正十三年(1585)の五月十四日と十一月二十九日に津波が来襲し、溺死者が多数であった。
十一月二十九日の津波の記録は本吉郡戸倉村口碑に残っていた。
浜の人間は津波で瓦礫に埋まり、あるいは流されて溺死してしまったので、海辺には、津波以降に住み着いた者が多い。
生き残った人たちは、その恐怖から高台に上がってしまった。
成実は、これら散在している漁師たちを気仙沼港に集めさせるように命じた。いずれこの漁民たちを、四海を制覇するような伊達海軍に昇格させるのだ。
まずは、何をおいても軍資金が必要だ。
二本松の百姓には稲刈りを急がせ、武士は馬を集めて、気仙沼に荷を運ばせている。
日本初となる水に浮く箱型の馬車も作らせた。普段は馬で引き、川があれば、箱船として対岸から綱で引っ張って川を渡らせる。
金山も探らせている。古の奥州藤原氏の時代、平泉金色堂は、ここ本吉郡の産金で賄われたそうだ。それが砂金か山金かは不明だが、金が存在するのは間違いない。
山間地ばかりで田畑は少ないが、山と海を最大限活かすように気を配った。
京都から同道した伊東マンショ祐益には、気仙沼大島を預けて病院や学校、教会や港等を作らせている。大島は積雪少なく、椿の花咲く常春の島だ。最高所の亀山(標高235メートル)からの展望は美しく、気仙沼湾の全景が眺められる。
伊東いわく、大島はマカオ半島の約四倍の大きさ(9平方キロメートル)だそうだ。
二人で協議の結果、聖母マリアさまの住んでいた町「ナザレ」から取って、大島を「那坐礼」と名付けた。将来は堺を越える貿易港にするつもりだ。
原田孫七郎は今、呂宋島のマニラから堺、そして気仙沼への航路を計画中だ。
成実は、原田を蔵米一〇〇〇俵(一俵は三斗五升で所領一石に相当する)の軍師格で迎え入れ、造船の指導とイスパニア製の大砲を発注した。
そんな中、十月三日に成実の母が亡くなった。夫の死後、尼僧となって寺で隠遁していたが、突然の死であった。成実はこれで両親とも失ってしまった。
二本松で母は鏡清院殿円心妙鑑大姉と諡した。
成実は葬儀の後に寺の僧正から一本の太刀を渡された。
「鏡清院さまが兵部大夫殿から預かっていたものにて、どうぞ御持ち下されよ」
太刀には手紙が添えてあった。成実はそれを読む。
「この太刀は『宇佐美長光』である。寛正三年(1462)、河内国で目覚しい働きをした越後国の宇佐美左衛門尉政豊が、将軍足利義政殿から拝領した『備前長光』だ。
それから四代後の宇佐美越中守孝忠が、武蔵国川越に遠征したとき、敵の物見に出くわしたが、この物見を一太刀で切り捨て、反す刀で槍持ちを払ったところ、受けた槍の心鉄を両断し、兜を割って顎まで切り下げた。
刃こぼれ一つ無く、度々この様な切れ味を示した太刀である。いつかお前をこの太刀が助けてくれよう。
成実の武運を心より願う。伊達実元 花押」
「父上かたじけない」
胸が熱くなり、しっかりと宇佐美長光を取った。
すらりと鞘を抜き放つと、澄み切った白鋼の刃紋が成実の顔を映した。
風が吹いて木陰が揺れ「民もお前の家族ですよ」と、母の優しい声が聞こえた。
成実は、母の遺骨を気仙沼城内の名刹天台宗・観音寺に葬った。父実元の遺骨も持ち帰り、並んで墓を建てて供養した。
二本松からは、大工や鍛治、さまざまな民を引き連れて気仙沼に戻った。
二本松の町人は、およそ一三〇〇人。武家は女子供を合わせると一万二〇〇〇人。
これに船大工などを加えて、気仙沼の城下を創る。
城下の町割り(都市計画)は、鉄砲鍛治や職人を城南の幸町、仲町、弁天町に配し、漁師を城東の港町、南町、魚町に、商人の市を城北の八日町、四日町、新町に、造船所や船大工住居は気仙沼港の最奥部の浜町、本浜町、新浜町、錦町に差配した。
武士は、城の周囲と領内津々浦々に代官所として配備する。
一方で、北に領地を接する南部家大槌城主、大槌孫八郎政貞を伊達家に寝返らせた。
それまで大槌は禄高八〇〇石で仕えていたが、南部家内の抗争に見切りをつけて伊達家に接近した様子で、成実はこれに知行一〇〇〇石を与えて傘下に組み込んだ。
これで成実の領地は、東は太平洋、西は二股川(現北上川)から三峰山、大峰山、室根山、物見山の稜線、南は柳津(登米市津山)、北は豊間根(下閉伊郡山田町)と本州最東端の魹ヶ崎を含む四万石と広がった。
古くからの言い伝えや、山師の探索で鉱脈も沢山見つかった。
金山は、入谷金山、折立金山(本吉郡南三陸町)、津谷川金山(西磐井郡藤沢町)、鹿折金山、大谷金山(気仙沼市)、世田米金山(気仙郡住田町)、雪沢金山、横沢金山、玉山金山(陸前高田市)、橋野金山、笹平金山、大橋金山(釜石市)、霧峰金山、鷹野巣金山、金沢金山(上閉伊郡大槌町)。
銀山は、黒森銀山(陸前高田市)、小川銀山、焼倉銀山(釜石市)。
それに世田米水銀山(気仙郡住田町)。
海岸線や川底、山からは「砂鉄」が取れるし、釜石周辺には「餅鉄」という丸石が転がっており、これは割れ易く鉄の純度が七割もある良質の鉄鉱石である。
製鉄については、永禄年間(1558~70)に葛西氏家臣の千葉土佐が、千松大八郎、小八郎兄弟を備中から招聘し、南蛮流製鉄をこの地に普及させた。
この千松兄弟はキリシタンであった為、周囲にもキリシタンが広まり、調べてみると、馬籠(まごめ・気仙沼市)から大籠(おおかご・西磐井郡藤沢町)、米川(よねかわ・登米市)までの三地域に、約三万人ものキリシタンが住んでいた。
(寛永十八年(1641)の検地以前は、三地域とも本吉郡内である)
成実は、これらのキリシタンを全員、那坐礼に転居させて、病院や港の建設等の労役に付かせた。
那坐礼には、今のところ米の配給を行なっているが、後には、海洋交易の売上げだけで食って行けるような商業都市にしたい。
旧キリシタンの空き農地には、二本松からの移住者に屯田させ、多角的農業の先駆けとさせる。つまり、稲作はもちろん、養蚕の桑、漆器の漆、蝋燭の櫨、和紙の楮や三椏、煙草などの商品作物を育て、加工して高く売るのだ。
売るのは那坐礼でも石巻でも良いし、海運に乗せて堺や大坂でも良いだろう。
そして米を買う。
古来、耕地の少ない三陸海岸では、干し魚や海草などを内陸部で行商して、一家が食べる米を得ていた。
その分だけ海産物は豊かだ。しらす、鰯、秋刀魚、鰹、はも(穴子)、ねう(あいなめ)、どんこ(蝦夷磯あいなめ)、したかずか(はぜ)、たら、鮫、まんぼう、烏賊、蛸、鮑、ほや、がぜ(うに)、わかめ、昆布、ひじき、ふのり、鮭、鯨、トド、ラッコなど。
中でも鮭の腹子(「いくら」はロシア語)は、一級品だ。
また、漁をするにも船の帆布や綱、網には、大量の麻や木綿の糸が必要だ。麻は山や川原で育った物を刈り取っても得られるが、高温を好む木綿は、栽培や土作りに手間が掛かり、北国では実入りが少ない。
鉄砲の火縄にも木綿を使うので、何とか工面したい。
木綿の主な産地は、大和、山城、河内、摂津、備前、備中、備後などで、やはり西国との交易船が必要だと思う。
造船を急がせ、次に原田のリベルタ号が入港した時に木綿を求めよう。




