第七章:風よ、声なき者のもとへ
ラディア中央学園の正門は、静かに開いていた。
石畳の上を歩く音が、午前の光に細く響いた。ソンブはゆっくりと門をくぐった。背には荷鞍ひとつ。周囲の視線が、ただの好奇から変わるまでに、さほど時間はかからなかった。
(……見られているな)
制服に袖を通したばかりの少年が、庇護を剥がされた“王都の落ちこぼれ”としてこの地に現れたという噂は、既に学園内を巡っていた。彼が魔力を持たぬことも、規律違反を犯したという風聞も。
一部の生徒が、遠巻きに囁いた。
「……あれが噂の、“追放者”か」
「魔力なし? それでここに来たのか?」
「貴族でもないらしいぞ。変わった顔してる」
小さな声が、日差しの中で尾を引いた。ソンブはそれらに目もくれず、門番に名前を告げると、そのまま校舎へと足を進めた。
校内は静かだった。だが、その静けさは、学び舎のそれではない。何かを押し殺すような、音のない緊張が漂っていた。
角を曲がった先、中庭の片隅で、泥だらけの制服の少年が膝をついていた。周囲を囲む生徒たちは笑っていた。だが笑みには剣があり、見ていた教師は目を逸らした。
ソンブは足を止めた。
その瞬間、囲んでいた生徒のひとりと目が合った。笑っていた顔が、数秒だけ、硬直した。
ソンブは何も言わず、ただその場を通り過ぎた。
(なるほど)
言葉にならぬまま、彼の中で何かが輪郭を持ち始めた。
そのとき、遠くの廊下の先から、ひとりの少女がこちらを見ていた。瞳は強く、しかしどこか静かなものを湛えていた。
ルネ・アベルナ。
後にこの名を、ソンブは幾度となく思い出すことになる――。
ソンブは、案内された宿舎に荷を下ろした。部屋は質素だったが整っていた。窓からは中庭の隅が見える。そこに、先ほどの泥だらけの少年の姿はもうなかった。
(この学園は、“形”だけを保っている)
彼は椅子に腰を下ろし、手の中で小さな金属片を転がした。王宮で支給された学生章。表面には、王国の紋章が小さく刻まれている。学園の誰もがそれを身につけているが――そこに敬意を払う者がいるようには見えなかった。
夕方、初日の面談が行われた。学園の管理教官、カロスという男が書類を見ながら無表情に言った。
「王都の出身か。ここでは、出自は意味を持たん」
「心得ています」
「成績表には記録がない。魔力適性も“検出不能”……本当に入れるとはな」
ソンブは何も言わなかった。
「規律違反で庇護を外された、という噂もある。あくまで噂だがな。……ここでは問題を起こすな。それだけだ」
面談はそれだけで終わった。
学園に着いて三日目の午後、ソンブはひと気のない書架の影で、一人の少女と目が合った。
ルネ・アベルナは、毎日のようにこの図書館を訪れていた。教室のざわめきや、意味のない笑い声から逃れるように。古い地図の棚の奥、窓の近くの長椅子が、彼女の定位置だった。
その日も彼女は、辞書をめくりながら静かに何かを写していた。ふと顔を上げると、誰かがその前に立っていた。
「……ここ、使っていますか?」
声の主は、まだ見慣れぬ少年――転入生のソンブだった。
ルネは驚きつつも、小さく首を振った。
「いいえ。どうぞ」
少年は頷くと、隣に腰を下ろした。本を広げる様子もなく、ただ、窓の外を見ていた。
しばらくの沈黙のあと、ルネが口を開いた。
「……王都から、いらしたんですよね」
「そうだ」
「魔力は……無いそうですね」
ソンブは横目で彼女を見た。問いかけではない。ただの事実の確認。その声音には、侮蔑も興味もなかった。
「そうだ」と彼は答えた。
ルネは微かに息をついた。
「魔力がないと、ここでは……少し、生きづらいです。あの、変な意味じゃなくて」
「理解している」
「わたしも、似たようなものですから」
ソンブは視線を戻した。
「……魔力があるのに、隠しているような口ぶりだ」
「違います。ただ……父が“郵便官”をしていて、家は貴族じゃありません。遠い親戚が学園に通っていた縁で、推薦をもらいました」
「なるほど」
ソンブの言葉は短かったが、その響きに拒絶の色はなかった。
ルネは少しだけ表情を緩めた。
「図書室は、安心します。文字は、誰を見下したりしませんから」
「……そうだな」
窓の外では、夕陽が塔の影を引いていた。
その日から、ふたりは図書館で時おり同じ椅子に並ぶようになった。言葉は多くなかったが、ルネにとっては、それが「見下されない時間」であり、ソンブにとっては、「沈黙が意味を持つ空間」だった。
数日後、彼の机に水が撒かれた。翌日には教科書が破れていた。言葉はかけられなかったが、廊下の窓辺に、乾いた布がそっと置かれていた。花の刺繍が、小さく入っていた。
ルネの手によるものだと、ソンブはすぐに気づいた。
彼はその布を丁寧に畳み、荷の中にしまった。表情は変わらなかったが、何かを“記した”ように、動作に静かな決意があった。
その夜、ソンブは小さな紙片にこう書いた。
「風は、声なき者の上にも吹く。いずれ、その流れを変える」
紙片は火にくべられ、赤い火の粉が宙に舞った。
学園の昼休み、食堂の一角。陽光が差す窓際の卓に、五人の少年が腰を下ろしていた。衣の襟元には、それぞれ色違いの刺繍がある。これはこの学園における「私的な位階」のようなものであり、刺繍の有無だけで席次も変わる。
ジル・フルートはその中央にいた。背筋を伸ばし、白金色の髪を肩にかけ、指先でカップを転がしている。指は細く、だが鍛えられていた。装飾ではなく、「持つべき権力」を知っている指だった。
「……で、聞いたか? あの“庇護落ち”の噂」
向かいの席に座るカイ・オルセリオが笑うように言った。彼はジルの幼なじみであり、常に彼の機嫌を読むことに長けていた。
「魔力なし、平民寄りの素性、王宮で何かやらかしたってのが定説だな」
もう一人、ロディ・ザイラーが口を挟む。「見たぜ、図書館で女と並んでた。誰だったかな……郵便屋の娘とかいう地味な子だ」
ジルは笑わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
「落ちたやつが、何を学びに来るんだろうな」
低く、乾いた声だった。それだけで、卓の空気がわずかに冷えた。
「まさか、“また這い上がろう”なんて思ってるんじゃないよな?」
誰も冗談と取らなかった。
ジルは、静かにスプーンを置いた。
「調べろ。どこに住んでる、誰と話してる、何を見ている」
カイが頷き、ロディが立ち上がった。
「学園に“名も無き者”が紛れることは許されない。これは“教養”の場だからな」
ジルは返事をしなかった。
その目は遠くを見ていた。
廊下の先――無言で通り過ぎていった、あの少年の姿を思い出していた。