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第六章:学園に潜る者(後半)

王都の北東、中枢都市ラディアは、表向きこそ交易と技術の集積地として栄えていたが、その内部では腐蝕の兆しが静かに広がっていた。


とりわけ深刻なのは、都市の領主ダラン・フルートの政治姿勢であった。歳若い領主は先王の縁者ということで地位を得たが、統治に対する意識は薄く、代わりに利権の温床と化した都市政を、身内と側近たちに任せていた。その影響は街全体に及び、官吏の賄賂は日常化し、監察が入れば帳簿は書き換えられ、民の声は城壁の内に届かぬものとなっていた。


そしてもうひとつ――腐敗の根が深く張り始めていた場所があった。


ラディア中央学園。


王国の将来を担う士族・貴族の子女を教育する場として設立されたこの学園は、形式上こそ厳格な学問と礼節の場であった。しかし、領主ダランの息子、ジル・フルートがその筆頭生徒として振る舞うようになってから、学園は変わった。


規律は乱れ、規則は特権にねじ曲げられ、反発する者は“事故”として退学に追いやられた。


そして今、学園内では「弱き者は沈黙せよ」という空気が支配していた。


この状況に、王アルミナス三世は苦い沈黙を保っていた。


宰相ハン=ボルトの報告に、王は静かに問い返した。


「……都市を正すには、まずは学園から、ということか」


「左様にございます。学園は中枢都市の縮図にございます。そこが歪みを正せば、やがて民政にも波及いたします」


「しかし、誰を送る」


宰相は一瞬口をつぐみ、それから低く言った。


「……ソンブ殿にございます」


王は目を細めた。


「その名は、口に出すのが早すぎはせぬか。彼を監察官として送るなどと知られれば、腐った権勢は身構えるだろう」


「ゆえに、“生徒”として潜らせるのです」


「……彼がそれを承知するか?」


王は庭を歩いたあと、呼び出したソンブに直接問いかけた。


「――この任、受けるか。だが、ただの命令では済まぬ。お前がどう考えるか、聞いておきたかった」


ソンブは静かに、首を横に振った。


「生徒として潜り込む。それだけでは、学内に波紋が起きます」


「では、どうする?」


「……私が“失脚した”と見せてください。規律違反、越権行為、その罪で、王宮を追われる形に」


王は目を見開いたが、すぐにその意味を理解した。


「……そうすれば、周囲は安心し、こちらの動きを封じたと油断する、か」


「はい。敵が私を“見下す”ことが、策の入口になります」

「それにちょうど、私を快く思っていない者もいる様子、その者から進言させましょう」




王と宰相はしばし黙し、やがて、王は「面白い」と呟いた。



王宮の一角。石の床に光が差し、文官たちの足音が控えめに響いていた。


孫武は、ある一枚の書面を机の上に置いた。補給任務で使用した記録票の写しだった。

そこには、補給地での配分変更を記した注記が、端正な筆致で残されていた。


「……越権行為と見られても、おかしくはないか」


呟いたその声は、周囲に聞こえるような声量ではなかった。だが、その日のうちに――


噂は、王宮の廊下に流れた。


「補給地の配分を、現場判断で改めたらしい」「王命なしに帳簿へ印を残したと聞く」

「規律違反では?」


噂は慎重に、しかし確実に、“聞いてほしい相手”の耳へと届いていった。


カザル・リューンは、いつも通り静かな態度でその噂を受け取った。


(ほう……なるほど。案外、図に乗りやすい若造だったか)


それは都合が良いことだった。


カザルは、すぐに動いた。


その日の夕刻、王への上申の機会を得ると、手にした文書を差し出した。


「ご覧ください、陛下。補給任務において用いられた記録の一部でございます。内容自体には問題はないのですが――」


王は目を通し、眉を寄せた。


「……現場判断で記録を修正し、印を……」


「はい。指示なしに順序を是正した痕跡がございます。規律の観点からは、見過ごせぬ部分かと存じます」


「……事前の報告は?」


「ございませんでした」


「……なるほど」


王は書面から目を上げ、長く静かに息を吐いた。


「処分を下すか」


「本来ならば重大な規律違反と見做されても致し方ないかと存じますが、本人は若く、将来ある者でもございます。


小官といたしましては、ただちに処罰を下すよりも、

一度中央から離れた地で“再教育”の機会を与えることが賢明かと考えるものでございます。」


表向きは再教育。だが、実際には「規律違反で学園送りとなった若造」として、孫武を王宮から引き離し、名を薄め、次の任への足場を崩す。それがカザルの狙いだった。



「……どこを想定している」


「中枢都市・ラディアの学園はいかがでしょう」


王は黙考した。


カザルはこの王と宰相が彼の少年を見極めんとすることを知っていた。

しかし、腐敗しきった学園へ送れば、若造など容易く潰れると考えた。

特にジル・フルートの存在を知っており、「あの場所に送れば、誰がどうなろうと自業自得」という冷笑的な意識があった。


王は沈黙したまま書面を見ていたが、やがて視線を宰相ハン=ボルトへと向けた。

 ハン=ボルトは、ごくわずかに頷いた。


 (――なるほど。貶めようとしているか。しかし……こちらにとっても、好都合か)


 カザルの思惑は見えていた。だが、王も宰相もあえて乗った。

 ソンブがこの先、王国のために立ち得る者かどうか――見極めるには、密室では足りぬ。

 ならば、腐った空気の渦中に、あえて送り込むべきだった。


そして――

「よかろう。手配せよ」


命は静かに下された。


翌日、孫武のもとに文書が届いた。宰相ハン=ボルトの筆であった。


【ソンブ殿に通達す。

補給任務における一部行動について、王国軍規律に則り是正処置を執る。

これを処分の一環とし、中枢都市ラディア中央学園にて記録整備補助および学務支援に従事することを命ず。

在籍期間中は、学園制度に基づく“生徒身分”を付与する。

これは将来に向けた更なる修練の機会とするものである。】


ソンブは文面を読んで、目を細めた。


風が、窓の外から吹き込んだ。


(これでよい)


目障りな芽を摘んだと信じる者たちが、油断する。

そして、自分はその中に沈み込み、腐敗の芯に近づく。


そのための左遷劇だった。


(我は、“学ぶ者”として赴く。されど、学ぶものは学問にあらず。人の動き、秩序の崩れ……そこに手を入れる)


窓辺の影が、少しだけ伸びた。



 「……思い通りになったな、ソンブ」

王は誰に言うでもなく、そう呟いた。


(やはりただの“策士”ではない。己の意志で道を定め、その歩みを王に委ねぬ)


 言葉にはせずとも、王の胸には確かな感触が残っていた。

 “この者の名は、いずれ王国の空気を変える”――

 そんな予感が、微かな確信へと変わりつつあった。




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