第六章:学園に潜る者(前半)
乱れた都市を正すには、まず学び舎を整えるべきか。
腐敗が静かに根を張る中枢都市ラディア――その心臓部にある学園は、今や沈黙と恐怖に覆われていた。
王は、ひとつの策を選ぶ。
それは“左遷”という仮面をかぶせ、ひとりの少年を沈みゆく場所へと送り込むことだった。
兵を率いた者が、今度は沈黙の中で秩序を読む。
戦わずして崩すために。
ラディア中央学園の門は荘厳で、外から見る限りは理想の学び舎を体現していた。白く塗られた壁、礼装に身を包んだ守衛、整列する季節の花々。しかし、門をくぐった先に広がるのは、外観とは似ても似つかぬ沈黙と腐蝕の匂いだった。
中庭では、十人ほどの生徒が囲むようにして、ひとりの少年に水をかけていた。少年は泥だらけの制服のまま、手を突いてじっと耐えていた。笑い声がする。だが、笑っているのは取り囲む側だけで、回廊に立つ教師の一人――フィス・ローデルは何も言わず、視線を逸らした。
「目を合わせるな、耳も貸すな。関われば、“次”はお前だ」
それが、教師間で暗黙の了解とされていた口癖だった。
フィスは元は王都の小学校に勤めていた。教え子の笑顔を見るのが好きだった。しかし、この学園に転任してから、彼の口元に笑みが宿ることはなくなった。ジル・フルート――領主の息子。彼が実質的に学園の“規律”を握ってから、秩序はねじ曲がった。
教師の誰も、彼に物申すことはできなかった。一人、それを試みた教務主任の女性がいたが、次の月には「退職願を提出した」とだけ伝えられ、姿を消した。あれは自主退職ではなかった――誰もがそう感じながら、誰も口には出さなかった。
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生徒のひとり、ルネ・アベルナは教室の隅に座っていた。静かで、目立たない少女だった。小さな町の出で、家族は代々、郵便官を務めている。王都に住む親戚を頼ってこの学園に入学してきたとき、母は彼女の肩を叩いてこう言った。
「大事なのは、誰にも見えないところで人にやさしくできることよ」
その言葉を、ルネは今でも毎朝、心の中で繰り返していた。
彼女の成績は常に上位だったが、ある日、ジル・フルートの取り巻きの一人が提出物を忘れ、それを庇わなかったことがあった。それが、はじまりだった。
それ以来、彼女の机には落書きがされるようになり、教科書のページは裂かれ、椅子に水がかけられていた。誰も止めない。誰も何も言わない。教師も――見て見ぬふりをした。
(大丈夫。私は、母上に心配をかけない)
そう思いながら、彼女は夜になるとこっそり日記をつけていた。
《母上、最近は朝の風がやわらかくなってきました。こちらの図書室にはたくさんの本があり、読むたびに世界が広がるようです。アリア(弟)には、草花のしおりを贈ります》
封筒の中にそっと挟んだのは、中庭の隅に咲く名も知らぬ小さな花だった。誰も気に留めぬその花だけが、彼女にとっての慰めだった。
ある日、彼女は偶然、寮の物陰でひとり泣いている一年生の男子を見つけた。声はかけなかった。代わりに、自分のハンカチをそっと近くに置いてその場を去った。少年は驚いたように振り向いたが、ルネの姿を見つけることはなかった。
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ジル・フルートは、決して無遠慮に暴力を振るうわけではなかった。彼は自らの手はほとんど汚さず、“空気”を支配していた。誰が誰を笑うか、無視するか、廊下でぶつかった際の言葉遣いにさえ、序列があった。
かつては教室で元気に声を上げていた少年たちが、今では目を伏せて廊下の端を歩いている。女学生の数名は、理由もなく自習を命じられ、そのまま三日間、教師の前に姿を見せなかった。
ある日の午後、教師室にて。
「今日の授業、エリオはまた来なかったそうだな」
「聞いたか? 寮で“うるさい”と注意されてから、ずっと声を出していないらしい」
「……あれも、ジル坊の機嫌を損ねたせいか」
重苦しい会話が交わされるが、誰も解決策を口にしなかった。誰もが知っていた。言えば、次は自分だ。
学園は沈黙していた。だが、その沈黙の奥底には、いつか決壊するであろう予兆がひっそりと漂っていた。