第五章 静かなる備え
戦の音はなかった。だが、変化は静かに始まっていた。
ひとつの砦、ひとつの任務、それだけのことだった。剣も槍も抜かれず、血も流れなかった。だが、報せを受け取った者たちは、どこかに小さな針が刺さったような、そんな異変を覚えた。
王国は今、まだ均衡の中にある。北の帝国は膠着を保ち、東の商国も表向きは交易を続けている。だが、その均衡は薄氷の上に築かれたものに過ぎない。誰もが、それを口には出さぬが、内心では知っていた。
その最中に現れたひとりの少年――孫武。
彼が何者であるか、まだ誰も知らぬ。本人さえ、それを定めていない。ただ、その歩みと静かな策が、ゆるやかに人と場を動かしつつある。
この章では、まだ名もない変化が、いかにして王の胸に兆しとして灯り、また少年の中で“選ぶべき道”として輪郭を帯びはじめるのか――その過程を追っていくことになる。
剣ではなく、声高な号令でもない。静かな備えの、その先へ。
補給の一行が王都へ戻ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。
陽の角度はまだ低く、石畳の影を長く引いていた。南門から入った隊列は、騒ぐことなく、中央の広場を抜けていった。
隊は変わっていた。誰の号令もないのに足の運びが揃い、眼差しに曇りがなかった。
兵のひとり、ラナは歩きながら、前をゆく小さな背中を見ていた。ソンブ――あの少年の、揺るがぬ歩幅。
報告はその日のうちに玉座へ届いた。
国王アルミナス三世はそれを受け取ると、しばらく封を切らずに手元に置いていた。やがて開き、筆跡の端正な報告を読み下ろした。
落石、野党の気配、争いなし、物資全着――それだけならば、ただの成功例だ。
だが、文中の一節が、王の目にとどまった。
「兵の構えを要せずして威を示し、声を荒げずして統を保つ」
そこには、報告書を書く者自身すら気づかぬうちに染み出した敬意があった。
王はゆっくりと息を吐いた。
「……兵を一人も傷つけず、全てを治めたと。しかも、何も求めぬ」
そう呟いた王は、後日、城の南庭を歩いた。静かな庭だった。水音が小さく響き、陽が差していた。
宰相ハン=ボルトがそばにいた。
「不思議な子だな」と王は言った。「どこか浮いている。だが、心の奥に引っかかる」
「彼の目には、いつも戦場が見えているようでございます」と、ハン=ボルトは応じた。
王は立ち止まり、水面に映る自らの顔を見た。そこに重なったのは、かつての父王の面影だった。
かつて追いかけた理想、そして今、自らが抱く理想。
「……あの子の心が、王国に向いているとは思えぬな」
「はい。忠はまだございません。されど、自らの道が王国の行く先と交わる可能性はあります」
王は頷いた。
「この国はいずれ、戦乱に巻き込まれる。帝国も、商国も、ただでは済まぬ。備えねばならぬ」
王の声は低かったが、確かな意志があった。
「そのとき、あの子が剣となるかどうか――それを、見極めたい」
小さな変化だった。だが、王国の水面は、静かに揺れはじめていた。
報告を終えた翌朝、ソンブは王宮の裏庭にいた。
人の気配は薄く、足音は芝に吸われるようにして消えていく。垣根の向こうで水鳥が一声鳴いた。
石の縁に腰を下ろし、ソンブは掌の中に丸い小石を転がしていた。
手のひらの温度が、じわじわと石に移っていく。
「……変わったのは、あちらか。あるいは、こちらか」
小さく呟いた声に、答える者はいなかった。
兵たちは帰営し、すべては、なにもなかったように静かに過ぎていく。
この国をどうするか――いまのところ、答えはなかった。
ソンブに忠誠心はなかった。あるのは、己の在り方だけだった。
(我は兵を知り、策を持ち、戦を避ける道を選ぶ。それがどこへ続くかは、まだ定まってはおらぬ)
ただ、王――アルミナス三世という男には、理があった。
排除せず、問わず、ただ見る。そういう姿勢は、乱世においては珍しい。
(ならば、使われてみるもよいか)
そう思うのは、下るためではない。
使われた先に、己の立つ場所が見えるかもしれぬという、ごくわずかな好奇にすぎなかった。
(だが、いずれ……)
指先で小石を弾いた。地を跳ね、砂をかすめて止まる。
(この王が、もし天下を望む者ならば――)
そのときは、我が術を振るう意味もあるだろう。
守るためでなく、勝つために。ひとつの国を、乱世の只中に通すために。
風が一度だけ吹いた。芝がそよぎ、陽が少しだけ傾いた。
ソンブは立ち上がった。小石は、そこに残ったままだった。