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第四章:名なき道、策ありて通る

王の命で、ソンブは北辺の補給路視察に随行することになった。部隊は小規模で、兵の多くはかつて砦で共に過ごした者たちだった。


 ソンブが王都を発つ朝、集合場所にはすでに十数人の兵が整列していた。見覚えのある顔もあった。だが、誰も彼に声をかけなかった。


 「……よろしく頼む」


 ソンブが簡単に頭を下げると、数人が小さく会釈したが、それ以上の言葉はなかった。


 砦での一件の後、彼は“あの少年”として話題にはなったが、実際に何をしたのかを明確に知る者は少なかった。偶然、運、そういった言葉が兵の間でも交わされていたらしい。


 歩き出してからも、兵たちは彼の周囲に自然と距離をとった。視線は時おり向けられるが、すぐ逸らされた。


 道は湿っていて、靴の裏に土が貼りついた。風が吹くたび、誰かの肩掛けが小さくはためいた。


 昼過ぎ、川沿いの開けた場所で昼食をとった。


 携行した干し肉と黒パンを口にしながら、数人の兵が輪を作って座っていた。ソンブはその輪に入らず、やや離れて腰を下ろした。川の音が近い。


 火の番をしていた若い兵が、火種に水を落として煙を上げた。

 「もったいねえな」

 誰かが言った。


 ソンブは静かに立ち上がって、小さな木片を拾い、残り火の形を整えた。火は再び落ち着いて燃え始めた。


 それを見ていた一人の兵が、「……ああいうの、詳しいんすね」と呟いたが、それ以上は言わなかった。


 その夜、宿営地でわずかな騒ぎがあった。

 一人の兵が酔って口論を始めた。別の兵に絡みかけ、腰の小刀に手がかかる一瞬の間が生まれた。空気が張った。


 ソンブは、火のそばから立ち上がって間に入った。言葉は発さず、二人の間に立って、静かに片手を挙げただけだった。


 口論していた兵たちは、それだけで手を引いた。


 「……悪ぃ」


 「すまん」


 どちらからともなく言って、戻っていった。


 その場は、それだけで済んだ


夜が更けると、焚き火の回りに兵たちがまばらに集まり、毛布を肩にかけたり、革の水筒を傾けたりしていた。


 その場の空気は、昼間よりもいくらか柔らかくなっていた。火の光が顔を照らすと、みな年齢より幾分か若く見えた。いくつかの談笑は自然と生まれていた。


 ソンブは火から少し離れた岩に腰を下ろしていた。ひとりだけ輪から離れているようにも見えたが、そうしていることに誰も不自然さを覚えないような雰囲気があった。誰かが火のそばで咳をして、それに反応するように一人が立ち上がって水を手渡した。


 そのうちの一人、ビーゴという兵が火にあたりながら、何とはなしに話し出した。


 「前にソンブ様がいた砦、あれ、なんだったんですかね」


 隣にいたラナが聞き返した。


 「何が?」


 「いや、ほら。山賊が攻めてきて、でも誰も戦わずに退けたって……あれ、どうやったんだろうなって」


 ラナは少し考えて、「知らないけど、静かだったよね、あの晩」と言った。


 「うん。静かだった。火もよく燃えてたし、なんか……怖くなかった」


 「でも、あの時、誰も命令しなかったろ? あれで山賊が逃げたの、よくわかんないんだ」


 「……俺も」


 ラナが視線を遠くに向ける。その先には黒くなりかけた森があるだけだった。火の粉が風に乗って飛んだ。


 ソンブは何も言わず、その会話を聞いていた。表情も変わらず、ただ薪を割る手を止めなかった。



三日目の夕方、峠の近くで休息を取ることになった。山道は細く、谷側の斜面が崩れやすい。途中、牛を使って補給品を運ぶ小商人の一行とすれ違った。

 彼らは険しい顔で、誰とも目を合わせなかった。


 兵の一人がつぶやいた。「今の連中、妙に急いでたな」


 誰も応えなかった。


その晩は風が強く、山肌を撫でる音が絶えなかった。焚き火の火が小さく揺れていた。



夜半過ぎ、谷側で物音がした。はじめは落石かと思われたが、すぐにそれが“人の歩く音”だと気づいた者がいた。


 「……人の足音です」

 焚き火のそばで眠りかけていたビーゴがそう言った。


 火の明かりが揺れた。兵たちは一斉に目を開けたが、誰も声を出さなかった。沈黙の中で、ソンブだけが既に立ち上がっていた。


火の傍にいた二人の兵に、ソンブは指先を伸ばした。口数は少なく、目の奥だけが強かった。


 「東の草の陰に伏せろ。夜目の利くお前たちがいい。十歩先、踏み跡の残るあたりだ。音は立てるな」


 少年の声だった。だが、その声を聞いた兵たちは一瞬迷っただけで、すぐに動き出した。


 年端もいかぬその姿に、最初は戸惑いもあった。だが目を見たとき、言葉以上の何かが伝わった。

 冗談でも、試しでもない。これは“命”であると、誰もが知った。


もう二人を指差す。


 「火を背にして三歩、構えずに立て。手は下ろしたままでいい」


 兵たちは素早く動いた。


 ソンブは火から燃えさしを取り、小枝で崩した。火花が細かく跳ねた。

 それを見て、草の陰に伏せていた兵がうなずいた。


 しばらくして風が止み、音も消えた。


 ソンブはそのまま火のそばに立ち続けた。

 静かに右手を挙げ、伏せていた兵たちに「そのまま動くな」と目で合図を送った。


 すぐには火を足さなかった。火の揺れが止まれば、影もはっきりする。

 その影はあらかじめ薪を積んで作ったものだった。人の背丈ほどに重ね、横幅もそれに似せた。火を背にした二人の兵が、まるで護衛のように立つ。


 夜目でそれを見れば、火の前に誰かが立っていると錯覚する。――しかも、左右には伏せた気配もある。


 これは、「見られている」と敵に思わせる罠だった。


 谷の下、暗がりの中で足を止めていた野党たちは、何も見えない中に“構えられた目”を感じ取った。

 こちらが完全に寝静まっていると思っていたはずだ。火がついていても、動く気配がないはずだった。


 だが、あの影――

 そして、わずかな火花の散り――

 それらすべてが、彼らに「こちらは備えている」という錯覚を与えた。


 引くしかなかった。敵に気づかれている夜襲ほど危険なものはない。

 逃げる音すら立てずに、野党たちは闇に紛れて戻っていった。


 火のそばに戻ってきた兵が、小さな声でソンブに言った。


 「……あれは……囮だったんですか」


 ソンブは頷いた。


 「気づかせるだけでいい。戦う必要はなかった」


 兵は黙って座り、火を見つめた。


 「……まるで、あっちが怖がってるみたいでした」


 ソンブはそれに返事をしなかった。


  翌朝、陽がまだ木の影を落とす頃、先行していた兵の一人が戻ってきた。


 「落石により、道が塞がれています」


 全員の足が止まった。谷道は一本しかない。戻るには一日を要し、進むにはその落石を越えるしかない。


 ソンブは黙って地図を開いた。峠の地形は記憶していた。崩れた地点の前後には狭い尾根と、片側に低い林が続いている。


 「……野党が戻っているかもしれないな」


 言葉は静かだった。兵の数人が顔を見合わせた。


 「そういえば、昨晩の奴ら……この落石を狙っていたのか?」


 「道を封じて、ここで待つつもりだったんだな」


 緊張が広がった。


 ソンブは地図を折り畳み、指示を出し始めた。声は低く、はっきりしていた。


 兵のひとりが剣に手をかけたそのとき、ソンブが前に出た。


 「全隊、荷車を谷へ寄せろ。弓手を左の崖に回せ。馬は岩陰に移す。敵を挑発するな――気づかれていると知らせるだけでいい」


 静かな声だったが、その指示に兵の動きが止まった。


 「おい、誰に命令してる」


 ビーゴが声を上げた。隊の中でも年嵩の兵士だった。腕に傷がある古参だ。


 「俺たちは隊長の指示を待つ。……“子ども”に従うつもりはねえよ」


 何人かが頷いた。空気が硬くなる。


 ソンブは黙っていた。


 やがて、隊長――シェンが口を開こうとしたその刹那、ソンブが一歩、前へ出た。


 「ならば、死ぬな」


 その一言に、兵たちの目が動いた。


 「敵は見ている。“混乱している”と知れば、撃ってくる。動かねば、ここは的だ」


 ビーゴが言い返そうとしたが、ソンブは間を与えず言った。


 「命令ではない。だが、今この場で“考える”時間があるなら、動け。遅れれば、誰かが死ぬ。それだけだ」


 風が吹いた。岩壁の上の影が、ゆらりと動いた。


 ――最初に動いたのは、ラナだった。


 彼女は無言で馬の手綱を引き、岩陰に寄せた。続いて、もう一人、弓を構えた男が崖に駆けた。


 ビーゴはしばらくソンブを睨んでいたが、舌打ちして肩を振った。


 「……あんたの言う通りにならなきゃ、俺があんたを谷に突き落とす」


 それだけ言うと、荷車の脇に向かって動き出した。



「――尾根の右を回れるか?」


「……距離はありますが、不可能ではありません。ただ、崖下からは姿を隠せます」


「ならば、三人。静かに登れ。姿を見せず、尾根の影から、弓を構えよ。……構えるだけでいい。決して放つな」


命を受けた兵たちは、合図もせず動いた。


ソンブはそれを見送りながら、火打ち石で枯れ草に火を点けた。風は緩やかに吹いていた。立ち上がる煙が尾根の方角へと流れていく。


やがて。


崖の上で、影が揺れた。


敵のひとりが腰をかがめ、何かを叫んだ。


尾根の右、木立のあたりから、矢の影が覗いた――ように、敵の目には映ったはずだった。


彼らは応えなかった。


ただ、二、三歩、退いた。そして、それきり姿を見せなかった。


ビーゴが小さく口を鳴らした。


「……まさか、引いたか」


ラナが崖を仰いで確認する。


「……いない。音もしない」


ソンブは火を踏み消し、短く言った。


「伏兵がいると思わせた。ただ、それだけだ」


「……放たない矢に、意味があるとはな」


ラナの声には、わずかな驚きがあった。


ビーゴは少しだけ沈黙した後、「――ガキに見えねえな」と呟いた。


 道の塞がれた補給路は、兵たちが手作業で崩し、半日かけて通れる幅に整えた。傷ついた者はなく、物資もそのままだった。


 「敵が本命を見て動けば、それでいい。姿を現すか、構えを変える」


 続いて、別の三人を尾根へ送る指示をした。


 「煙を上げ、掛け声を使え。“伏兵が来た”と見せればよい。火を使う必要はない、乾いた藁で十分だ」


 兵たちは命令の意味を理解し始めていた。


 「……敵の背に回っていると、思わせるんですね」


 ソンブは頷いた。


 「我らが攻める形に見えれば、奴らは囲まれるのを恐れる。戦は力ではなく、心で決まる」


荷車は再び動き出した。補給路は塞がれたままだったが、岩の端を削って通せる隙間が残っていた。隊は時間をかけてそれを整え、峠の向こうへ進んだ。


後に続いた兵たちは、誰も、ソンブに命令を求めはしなかった。


だが、その歩幅は、自然と彼に揃い始めていた。


 通路が確保され、荷を滑降させる準備が進んだ。

ソンブは木を並べ、滑り台のように斜面を整えさせた。

重心の配分、布の摩擦、止め板の角度――すべてが無言のうちに整えられていった。


兵たちは、見ていた。


これまで言葉にしていなかったものが、そこにあった。

戦わずして、場を制する方法。誰も傷つかず、状況だけが変わる。


荷がすべて滑り降り、部隊が谷を抜けた頃には、日が高くなっていた。風は弱く、斜面を越えてくる陽が土を乾かしはじめていた。


 隊は小さな林の縁で休んだ。音のしない場所だった。焚き火は上げず、木陰に腰を下ろす者が多かった。


 「……さっきの、全部計算してたんでしょうか」


 ラナが言った。誰にというわけではなかった。


 「滑り台の角度とか、敵の逃げる方向とか……」


 「計算っていうか、見えてるんじゃねえか。ああすれば、ああなるって」


 ビーゴが寝転がったまま答えた。

 「……俺だったら、あの場で思考止まってたな」


 しばらく誰も口を開かなかった。


 「ソンブ様って、何なんでしょうね」


 ぽつりと、別の若い兵が言った。


 「子どもだと思ってたけど、何か違うよな」


 「けど、従いたくなる。不思議だな」


 誰かが短く笑った。


 再び歩き出す頃、誰ともなく背筋が伸びていた。列は自然に整っていた。

 声を上げて指示する者もいなかったが、誰も遅れなかった。


 


 翌朝、予定より遅れて補給拠点に到着した。詰所では物資の積み替えが滞っていて、兵士たちが倉庫の前で揉めていた。どうやら順番の行き違いが原因らしかったが、怒鳴り声が飛び、雰囲気は悪くなっていた。


 ソンブは隊の数名とともに様子を見に行った。現場は荒れていた。木箱が倒れ、中身の一部が雪のように散らばっていた。麹の粉だった。


 現場にいた兵の一人が言った。


 「そっちが先って話だったろ!」


 「聞いてねえよ!」


 ソンブは倉庫の入口に立ち、二人の間を見た。


 「粉が濡れると、あとが厄介になる」


 誰に言ったともなく、そう言った。争っていた兵たちが、ソンブの存在に気づく。


 「もう一度、順番を確認しよう」


 それだけ言って、拠点側の書き付けを手に取った。兵たちは黙って見ていた。


 記録の順を指で示し、物資がどこから来て、どこに行くべきかを一つひとつ声に出して確認した。誰も反論しなかった。数字の並びに曖昧なところがあり、ソンブはそこに小さく印をつけて、倉庫番に手渡した。


 争いはそれだけで収まった。兵たちは目を合わせずに物資を運び始めた。


 その日の移動の途中、道をそれた小川のほとりで水を汲んだ。休憩のあいだ、ラナがそっと声をかけてきた。


 「ソンブ様、さっきの拠点での対応、すごかったです」


 「何もしていない。順を見ただけだ」


 ソンブはそう返した。ラナは笑った。


 「でも、あの場にいる誰も、あんなふうに間に入る人はいませんでした」


 ソンブは黙っていた。少しして、川面を眺めながら言った。


 「人の気は、混乱すると波になる。流れを整えるだけで落ち着く」


 ラナは何かを言おうとしたが、やめた。代わりに、ソンブの隣に腰を下ろした。


 旅の終わりが近づくころ、夜営の火のそばで、兵の一人が言った。


 「俺、もし次もあったら、またこの隊がいいです」


 そう言って、周囲を見回した。誰も否定しなかった。


 ラナがそれに続けた。


 「……私も。王都に戻ると、どうも落ち着かない。ここでのほうが、人と話しやすい気がします」


 ソンブはそれを否定しなかった。ただ頷いた。


 「そう思うなら、また来ればよい」


 数人が顔を見合わせ、少し笑った。


 旅の終わり、王都の門が見えたころ、風が吹いた。草が揺れた。歩いていた隊が、一斉に顔を上げた。


 ただの小隊だった。任務は補給視察。戦ったわけではない。

 だが、歩く者たちの目つきは出発の日よりも凛々しく、静かだった


 何かが変わったと、皆が思っていた。

 それが何か、誰もまだ言葉にできなかったが 




黙って歩きながら、ソンブの歩幅に自然と合わせるようになっていた。


 兵はまだ名を持たない。だが、信は名よりも先に生まれるものだった。


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