第三章(後半)
春先の朝は、石の壁を透る光が遅く、宮廷の廊下はまだほの暗かった。
王は一人、椅子に凭れかかっていた。机の上には、手帳のような紙片と、二通の報告書。
一通目には、第三十七辺境駐屯地の名。いわゆる“オクラ砦”。
戦力評価C以下、補給難、指揮不全。誰の目から見ても、それは“捨てられた場所”だった。
だが、書面の文言はそれにそぐわぬ静けさを湛えていた。
「……山賊、退去。戦闘、無。損傷、軽微。構成兵、整列あり。統率に命令なし」
王はその文を繰り返し読んだ。
城の北棟にいる宰相ハン=ボルトを呼ばせたのは、それから数分後だった。
「……どう読む」
「……策かと存じます。わたくしには、そう見えました」
王は黙っていた。ハン=ボルトも、それ以上の説明は要らぬと察していた。
机の上には、あの“少年”の名。ソンブと名乗った異邦の子。
子どもにしては奇妙な目をしていた。まるで、あらゆる出来事を外側から眺めているような。
「戦わずして退けた……などという言葉は、紙の上では軽い。だが、実際にそれを成した者となると……話は別か」
王は少しだけ、背中を伸ばした。
正面の窓の先、庭に咲く白い梅が、風に揺れていた。
*
一方、城の議場では、異なる空気が漂っていた。
報告は全軍にも回されていたが、その真偽に疑いを抱く者も少なくなかった。
将軍アシュラッドは、開口一番に言った。
「誇張だな」
紙をひらひらと手に揺らし、視線を上げる。
「砦を立て直した? 戦わずに敵を退けた? 話が出来すぎている。何か裏がある」
その声には力があった。過去の戦功が言葉を支えていた。
若い軍務官のルディスは黙っていた。
指先で書面をなぞり、文中の一節に目を止めた。
「“物資の不足を通じ、自律を促す”……これは偶然の産物ではない」
口に出そうとして、やめた。
彼はそれを胸の中にとどめた。こういうとき、場の空気は言葉を拒む。
*
数日後、再び王の間に報告が入った。
「件の砦、補給経路の整備に支障なし。士気、安定。混乱なし。……あまりにも整いすぎております」
王は机に手を置いたまま、言った。
「……ならば次の場を与えよう。もっと広く、もっと不安定な地を」
宰相がわずかに目を上げた。
「補給路の視察。小規模の部隊と共に。――“戦場ではないが、乱れやすい場”」
王はうなずいた。
「見てみたいのだ。あの子が、“計算の届かぬ場”で何を為すかを」
*
そして、命が下った。
ソンブ。補給観察の任。小隊に随行し、北辺の峠を越えて、拠点までを往復す。
ただ、それだけの任であった。だが、王国のいくつかの目は、静かにそれを追い始めていた。