表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

第三章:荒野の砦、統べるは命ではなく理

兵とは、命令で動くものではない。

怒号で縛れば、いつかその鎖は音を立てて崩れる。


だが、風のように情報が流れ、火のように秩序が芽吹くとき、

軍は、名もなくとも“かたち”を持ちはじめる。


砦に集ったのは、軍人の皮を被った民であった。

酒と博打に暮れる者たちの中に、静かに一つの風が吹く。


これは、叫ばずして秩序を生む少年と、

まだ“兵”になりきれぬ者たちが交わした、

言葉なきはじまりの記録である。


風が変わった。


 正確に言えば、地理的な話である。

 王都を離れ、北へ五十里ほど。馬で三日はかかると言われたその道のりを、私は無言の馬車で揺られ続けた。


 「まこと、ここが“任地”で?」


 「はい。第三十七辺境駐屯地、通称“オクラ砦”でございます」


 「捨てられた砦ではないか」


 「ええ。ほとんどそうです。なにせここ五年、補給が滞っておりますゆえ……」


 荷馬車の御者は、苦笑しながらそう答えた。


 果たして着いたその砦は、風に吹かれるだけで音を立てて揺れる木柵、石の積み方が左右でまったく異なる城門、そして兵舎は……ない。

 あるのは、酒場と、鍛冶場と、博打小屋だった。


 兵たちは甲冑を着ていない。上裸で昼間から酒を飲んでいる者もいれば、剣を使って串焼きを焼いている者もいる。煙草をふかしながらサイコロを振っている者もいれば、眠ったまま小屋から転げ落ちている者もいる。


 要するに――


 **“軍隊の姿をした村”**である。


 私は静かに砦の中央に立ち、目を閉じて風を感じた。


 風は北から。砂を巻いて、若干の酸味を含む。

 (向こうには何か……腐敗した水源か、あるいは……)


 そこまで考えたところで、頭上から声が飛ぶ。


 「おいガキ、お前が新しい司令官だって?」


 現れたのは、斧を肩に担いだ大男だった。腕は丸太のようで、髭は剃っていない。

 その後ろから、若い兵がくすくす笑いながら囁いたのが聞こえた。


 「まさか子どもが将軍とか……王様も酔ってんじゃねえか?」


 「ハハハ、逆にこの砦に合ってんじゃね?」


 嘲笑。油断。怠慢。


 だが私は怒らなかった。むしろ、安堵すら覚えた。


 (敵が“侮っている”ならば、勝機は生まれる)


 数日後、私は一切の命令を下さなかった。演習もせず、行軍もせず、罰も与えず。

 ただ、夕方の火の扱いだけを注意深く見ていた。


 兵たちは最初は放置されたと思っていたようだが、次第に奇妙な“違和感”に気づき始めた。


 まず、博打のサイコロが一つずつ消えた。

 次に、酒の瓶が“全員分より一つ少ない数”に減った。

 鍛冶場の鉄が、ある日突然、釘と曲がった矢じりばかりに変わった。


 誰が盗んだわけではない。ただ、「足りない」という情報」が全員に等しく行き渡るようになっただけだ。


 そして数日後、何が起こったかというと――


 兵士たちが、自主的に“誰がどれだけ使ったか”を報告し始めたのだ。


 「……ったく、俺が飲みすぎたのかもしれねえ。悪い、次回少なめでいいぜ」


 「いや、俺も火薬使いすぎたかもな」


 そうして、自律が始まった。


 私は寝台に横たわりながら、夜の空気を吸った。


 風は変わらぬ北風。砦の上には、相変わらずぼんやりとした星。

 軍隊を動かすのに、怒鳴る必要はない。

 策とは、“足りぬ情報”を与えることによって“均衡”を作ること。


 (兵は統べるにあらず。自ずと秩序に向かわせる道筋を作るのが、わしの役目じゃ)


 その夜、風が南へと流れ始めた。


 いつもなら北風で砂を運んでくるのに、今夜は温い空気が草を撫でている。

 それはつまり、外から“何か”が近づいている証だった。


 私は部屋の灯火を消し、暗がりの中で耳を澄ませた。


 ――馬の蹄。十、否、十五。


 それに混じって、車輪の軋み。荷車か。鉄の刃物が揺れる音。笑い声。あきらかに軍ではない。あれは――


 「山賊か、もしくは“ならず者の私兵団”か」


 砦の兵たちは、まだ眠っていた。


 私は起こさなかった。何一つ、命じなかった。


 かわりに私は、砦の出入り口をそっと半開きのままにした。

 閉めもせず、開けもせず。まるで「警備など存在しない」と言わんばかりに。


 そして、焚き火の薪を多めに積み、煙が高く上がるように細工した。

 目立つ。遠目にも、「こちらに人がいる」とわかる。


 しかし、それでいて――反応がない。


 私は砦の中で、静かに酒場の椅子に腰を下ろしていた。

 手には、囲碁の石。意味はない。だが“意味があるように見える”ものほど、敵は警戒する。


 やがて、ならず者たちは砦の前に立った。


 総勢二十。山肌を越えてきた彼らは、かぎ裂きのマントに手斧、槍、短剣。服はほつれ、目はぎらついている。

 砦の門が開きっぱなしなのを見て、一人が笑った。


 「よお、こりゃひでえな。兵もいねえ。歓迎ってことか?」


 「城主でも襲って酒を取るか」


 そう言って、三人が中へ足を踏み入れた――その瞬間。


 ――バキッ!


 足元の板が割れた。抜けたわけではない。ただ、“割れるように設計されていた”のだ。


 驚いた彼らは引き返そうとするが、その背後で焚き火の火が一気に爆ぜ、火の粉が風に舞った。


 「っの、なんだ……!?」


 そのとき、ようやく砦の兵たちが起き出してくる。だが、彼らは武器を持っていない。手ぶらだ。


 「なんか騒がしいな……火か?」


 「いや、外に誰かいる……?」


 その自然な“声”が、逆に恐怖を生んだ。

 「油断していたのではない」――「油断しているように“振る舞っていた”」のだと、敵は気づく。


 ここで私が一言だけ声を放った。


 「――この砦には、すでに“狩りの用意”がしてある。試すか? 逃げるか?」


 言葉には魔力も迫力もない。ただ静かに、落ち着いた声で言った。


 しかし、それが返って不気味だったのだろう。


 ならず者たちは顔を見合わせた。誰も動かない。三歩後退。さらに二歩。


 その場に血は流れなかった。


 全員が逃げた。


 翌朝、焚き火の灰の前に、一本の折れた槍が残されていた。


 私はそれを拾い、何も言わずに土へ埋めた。


 「これでようやく、“兵”が息をし始める」


 この砦の男たちは、まだ軍隊ではない。だが、彼らはすでに自分たちの中に“軸”を見出しつつある。

 命令ではなく、自覚として。


 戦わずして勝つとは、こういうことだ。

なぜ風の変化で敵の接近を察知できたのか?

1.通常との違い(異常気象ではない)に即応した観察

 - 砦の地形では、夜間に冷たい北風が吹き、砂を巻き込むのが常だった。

 - それが「急に温い南風に変わった」=通常の自然循環から逸脱している。

2.敵の接近がもたらす「局所的風圧・地熱変化」

 - 集団の人間(馬・荷車・松明など)が近づくと、空気の流れにわずかな「逆流」が生まれる。

 - とくに夜は冷気が下りるが、人の体温・呼気・火気・馬の臭気などが熱源・撹乱源になる。

3.音ではなく「匂い」と「湿度」の変化

 - ソンブは風に「若干の湿り気と草の動き方の変化」を感じた。風の“肌触り”が違った。

 - 敵の体臭、汗、鉄の匂いなどが風に乗ることもある。

4.経験的な勘と結びついた情報処理

 - 軍を率いた者は、風の「質の変化」=「空間に別の存在が入った兆候」として理解している。

 - これは**兵法における“未兆を見る”**という感覚の一部(未発の敵意や動きの察知)。



つまり、あの描写は「ソンブが“風の質の変化”を通して、敵の接近という“現象の前触れ”を察知した」瞬間です。

これは単なる神秘的表現ではなく、観察・経験・兵法的直感の複合によって導かれた合理的な判断なのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ