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第二章:静寂より出でて、無手にて刃を折る

この物語は、一人の少年が“兵を知らぬ世界”に落ち、

やがて“兵を知る者”として立ち上がる過程を描いたものである。


少年の名はソンブ。

彼は、かつて「戦わずして勝つ」ことを説いた者――

そう、人は彼を「孫武」と呼ぶ。


この世界では、魔術が存在し、剣が人を斬り、王が民を率いる。

だが、戦そのものは混沌としており、

「数」や「力」がものをいう未熟な時代であった。


彼は、剣を持たぬ。

魔法も使わぬ。

ただ、“策”を持っていた。


混乱の只中に生まれ落ちた彼の姿は、少年のそれであり、

誰もが最初は、彼を「ただの子ども」と見た。


だが、兵とは風と同じである。

姿を見せぬまま、流れを変える。

ソンブは、ただ歩きながら、風のように、王国の形を変えていく。


これは、まだ名を持たぬ少年が、

“兵”という無形の力で、やがて一つの国と、

ひいては世界の秩序を変えてゆくまでの、静かなる物語である。

風が、少しだけ重たくなった。


 異変は、音ではない。気配というには曖昧すぎる。だが確かに、何かが“空間に入り込んだ”のを、私は感じた。かすかに、いやごく微かに、空気が一度だけうねったのだ。


 兵とは、風と同じである。見えず、名を持たず、姿を変える。

 ならば、その気配もまた――風の歪みとして現れる。


 私は、香炉の灰をまいた地点より少し離れた場所に、静かに腰を下ろす。腰というより、“膝”を折ったほうが近い。獲物が罠にかかる瞬間を見る狩人の姿勢である。


 それから、長い静寂が訪れた。


 時間は計っていない。だが、私の呼吸は四十六回を数えていた。


 ――カツ。


 一歩。音。


 それが、廊下の遠くで、ほんの一瞬、響いた。すぐに消えた。

 私がわざと残しておいた装飾柱の踏石が、ほんの少し浮いている。そこを踏んだのだ。沈み、返る音。


 正面から来たのではない。外壁を回り込み、通風窓を破って忍び込んだか。なかなかどうして、よく訓練されている。


 ――二歩。滑るような足取り。三歩。止まる。


 視界に黒がよぎる。闇よりも黒い、刃を隠すための装束。


 (隣国か。帝国の手先。狙いは……この上ない愚かなる暗殺か)


 王の私室が、静かに扉を開けている。もともとこの国の扉は、あまり鍵をかけぬ。


 黒衣の影は、気配を殺してすり足で進む。


 私は見ていた。何もせず、ただ見ていた。


 影が香炉の灰を通る。気づかず通る。靴には灰が付着する。だがその先で――


 バサッ。


 滑った。音を立てずに滑ったが、姿勢を崩した。


 (見えない“躓き”を設ける。躓いたとき、人は“自らの動きを正す”より先に、“周囲を疑う”のが常である)


 案の定、影はすぐに背後を振り返った。後方に“気配”を感じたのだろう。


 そこに、私はいない。だが“履き物だけ”が置いてある。


 まるで、逃げ出した小者のように。


 影の注意がそこへ向いた瞬間――私は小瓶を手の中で回転させ、投げた。


 カシャッ。

 小瓶が床に割れ、粉末が舞い、煙が立ちこめる。


 炭粉、干し草、香の末端を混ぜた煙。目に刺激があり、喉がざらつく。


 「ッ……!」


 影が咳き込む。姿が揺れる。

 その隙に、私は糸を投げた。


 それは武器でも道具でもない。

 ただ、宮殿内に干されていた洗濯用の麻紐だ。


 私はあらかじめ手の中で輪を作っていた。それを床に投げ、反動で柱に絡ませ、引いた。

 影の足に絡まり、引かれた瞬間、彼の体は再びバランスを失う。


 「――っ!」


 叫ぶ前に、倒れる。刃がカランと音を立てて転がる。


 そこで、ようやく衛兵の走る足音が聞こえた。


 誰かが駆けてきた。誰かが、叫んだ。誰かが、光を灯した。


 私はすでに、王の寝室の手前に立っていた。

 そして、静かに扉を閉めた。


翌朝、王の間にて。


 椅子の背にもたれた国王アルミナス三世は、顎に指を添えて黙考していた。


 その眉間には、昨夜の襲撃未遂の報が届いて以来、深い皺がひと筋刻まれたままだった。


 「……わしの首を狙って、侵入したと?」


 「はい。間違いなくゼルヴァ帝国の手の者かと」


 宰相ハン=ボルトは、深く腰を折って答えた。胃にいつもの痛みがあったが、いまはそれどころではない。


 「だが、事前に察知し、侵入経路を読み、退路を断ち、罠を張って捕縛したのは……」


 「……はい。“ソンブ少年”でございます」


 言った瞬間、王と宰相のあいだに沈黙が走った。


 「……あの、子どもが?」


 「はい」


 「素手で?」


 「はい」


 「道具もなく?」


 「……使用したのは、香炉の灰、廊下の絨毯、洗濯用の麻紐、香粉、それから……履き物、でございます」


 「……履き物?」


 「はい。あえて廊下に脱ぎ捨て、囮の“気配”を演出したそうで」


 「……」


 アルミナスは、椅子の肘掛けを指先で軽く叩いた。


 「それは……まるで、計算された幻術ではないか」


 「さようでございます」


 「だが、彼は魔術師ではない。魔力の流れは極めて低く、測定器に反応しなかったはずだ」


 「はい。しかし、彼は“策”で敵を破りました。おそらく、あれが……“兵法”というものなのでしょう」


 王の目が細くなる。まるで霧の奥を見通すように。


 「戦わずして敵を倒す術……か。だが、あの子は、何者なのだ?」


 「わかりません。ただ一つ、言えることがございます」


 「なんだ?」


 宰相ハン=ボルトは、小さく息を吸って言った。


 「――あの少年、“兵を使ったことがある者の目”をしております」


 王はしばし黙っていたが、やがて笑った。唇の端が、微かに、皮肉げに歪む。


 「よかろう。では、試してみるとしよう」


 「……何を?」


 「“戦”だ。あの子に――ソンブに、ひとつ、“実地の任”を与えてみる」

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