第九章:静かなる波紋(前半)
孫武が学園に転入して、半年が過ぎた。
誰も騒がず、誰も抗わず、それでも確かに、空気は揺れていた。
これは声なき戦の記録であり、沈黙の底で仕掛けられた策の、最初の綻びである。
孫武の転入から半年経った頃
中庭の一角、昼休みの雑音が風に混じっていた。木陰では数人の生徒が、座ったり立ったりしながら、声をひそめ合っていた。
「帝国との戦、あるかもしれないってさ」
ひとりが言った。声は平坦だったが、隣の生徒がすぐに返す。
「また噂か?」
「いや、ジル様が言ってた。“米が市場から消える”って」
ジルの名が出ると、輪の空気が少し張った。近くにいた数人も、会話のほうへ顔を向けた。
「ジル様が?」
「うん。王都の動きも見てるってさ。貴族筋には、もう動いてる家もあるとか」
「そんな話、本当かよ」
「けど、王都の米問屋が買い漁ってるって、上級生が言ってた」
数人が黙ったまま顔を見合わせた。半信半疑でありながら、心のどこかが反応していた。王都の動きという言葉には、それだけの重みがあった。
その日の夕方、ジル・フルートは東寮舎の自室で、机に向かっていた。
窓の外には、沈みかけた日差しが、校舎の壁にかかっていた。部屋は静かで、カーテンが時おりゆるく揺れていた。
彼は、王都にいる父へ向けた手紙を書いていた。筆は淡々としていた。内容は簡潔で、感情の起伏は抑えられていた。
帝国との摩擦が近づいている。流通は滞るだろう。今のうちに地方で米を買い集めておけば、いずれ大きな利益になる。そうした趣旨が、几帳面な字で書かれていた。
書き終えると、ジルは封をし、封蝋を落とした。傍らに立っていたレイハルトが、それを受け取ってうなずいた。
ジルは椅子を離れ、ゆっくりと窓辺に立った。空にはうっすらと雲がかかり、塔の影が中庭に長く落ちていた。
どこかで、笑い声が聞こえた。だがそれは遠く、彼には届かなかった。
昼下がり、廊下にて。
窓際の陽はすでに柔らかく、磨かれた床に長く影を落としていた。数人の生徒が壁際に寄り、声を落として話していた。
「ねえ、ジル様の話、信じる?」
一人がそう言った。問いというより、自身への確認に近かった。
「わからない。でも、王都の噂と合ってるって、兄が言ってた」
「買っておくべきなのかな……うち、少し余裕あるし」
「ジル様の家って、王国軍とつながってるんでしょ? なら、確かかも」
声のひとつひとつに、焦りはなかった。ただ、何かに備えようとする気配が、慎ましくも確かにあった。
その夜、購買の窓口で、干し米と長期保存食の小袋が少しずつ減っていった。名指しの注文ではなく、ただ数を減らすように、皆が少しずつ手を伸ばしていた。
翌週には、町に出入りする仕入れの馬車が、いつもより遅れて戻ってきた。校内でそれを気にする者は少なかったが、一部の上級生はすぐに動いた。
ある者は家に手紙を出し、ある者は知人を通じて地方に米の取り置きを頼んだ。なかには、密かに小袋を買い溜め、机の奥に詰め込む者もいた。
誰が言い出したか、もう定かではなかった。ただ、すべての始まりがジル・フルートの口から出たということは、誰もがなんとなく分かっていた。
教室の後方の窓際で、一人の少年が本を読んでいた。
ソンブは、静かに頁を繰っていた。何の変哲もない動作だったが、彼の眼差しは時おり、開かれた書の上から遠くを見るように、外の気配を確かめていた。
その視線が、何を捉えていたのかは、誰も知らなかった。
王都・王宮会議室
午後の斜光が、石造りの円卓に斜めの線を描いていた。
「……放出せねばなりませんな。米価、すでに三割を超えております」
年配の侍従が、帳簿を王の前に差し出す。
王、アルミナス三世は静かにそれを見たのち、ふと手元にあった一通の手紙に目を落とした。
それは、半年前に届いた書状だった。
紙は黄ばんでいたが、筆致は整っていた。
――北東で、食糧価格の不穏な動きあり。
戦の前には、必ず“声なき買い手”が動き出す。
米を少しずつ、静かに、備えられたし。
署名のないその文面を、王はよく覚えていた。
あれは、例の少年――“ソンブ”と呼ばれる若者が、転入して間もなく送ってきたものだ。
「……読まれた通りになったな」
王は誰にともなく呟いた。
「では、備蓄分を放出し、王都から順に流通を図りますか」
「うむ。無用に騒がせるな。『王命により市を正す』とだけ伝えよ」
「畏まりました」
王は再び手紙を見た。その文面に、明確な命令も自己の名も記されていない。
ただ、見過ごせぬ冷静な「理」があった。
(……さて、学園で何を見ているか)
王は書状を手元の箱にしまい、帳簿に目を戻した。