表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

第九章:静かなる波紋(前半)

孫武が学園に転入して、半年が過ぎた。

誰も騒がず、誰も抗わず、それでも確かに、空気は揺れていた。

これは声なき戦の記録であり、沈黙の底で仕掛けられた策の、最初の綻びである。

孫武の転入から半年経った頃


中庭の一角、昼休みの雑音が風に混じっていた。木陰では数人の生徒が、座ったり立ったりしながら、声をひそめ合っていた。


「帝国との戦、あるかもしれないってさ」


ひとりが言った。声は平坦だったが、隣の生徒がすぐに返す。


「また噂か?」


「いや、ジル様が言ってた。“米が市場から消える”って」


ジルの名が出ると、輪の空気が少し張った。近くにいた数人も、会話のほうへ顔を向けた。


「ジル様が?」


「うん。王都の動きも見てるってさ。貴族筋には、もう動いてる家もあるとか」


「そんな話、本当かよ」


「けど、王都の米問屋が買い漁ってるって、上級生が言ってた」


数人が黙ったまま顔を見合わせた。半信半疑でありながら、心のどこかが反応していた。王都の動きという言葉には、それだけの重みがあった。


その日の夕方、ジル・フルートは東寮舎の自室で、机に向かっていた。


窓の外には、沈みかけた日差しが、校舎の壁にかかっていた。部屋は静かで、カーテンが時おりゆるく揺れていた。


彼は、王都にいる父へ向けた手紙を書いていた。筆は淡々としていた。内容は簡潔で、感情の起伏は抑えられていた。


帝国との摩擦が近づいている。流通は滞るだろう。今のうちに地方で米を買い集めておけば、いずれ大きな利益になる。そうした趣旨が、几帳面な字で書かれていた。


書き終えると、ジルは封をし、封蝋を落とした。傍らに立っていたレイハルトが、それを受け取ってうなずいた。


ジルは椅子を離れ、ゆっくりと窓辺に立った。空にはうっすらと雲がかかり、塔の影が中庭に長く落ちていた。


どこかで、笑い声が聞こえた。だがそれは遠く、彼には届かなかった。 



昼下がり、廊下にて。


窓際の陽はすでに柔らかく、磨かれた床に長く影を落としていた。数人の生徒が壁際に寄り、声を落として話していた。


「ねえ、ジル様の話、信じる?」


一人がそう言った。問いというより、自身への確認に近かった。


「わからない。でも、王都の噂と合ってるって、兄が言ってた」


「買っておくべきなのかな……うち、少し余裕あるし」


「ジル様の家って、王国軍とつながってるんでしょ? なら、確かかも」


声のひとつひとつに、焦りはなかった。ただ、何かに備えようとする気配が、慎ましくも確かにあった。


その夜、購買の窓口で、干し米と長期保存食の小袋が少しずつ減っていった。名指しの注文ではなく、ただ数を減らすように、皆が少しずつ手を伸ばしていた。


翌週には、町に出入りする仕入れの馬車が、いつもより遅れて戻ってきた。校内でそれを気にする者は少なかったが、一部の上級生はすぐに動いた。


ある者は家に手紙を出し、ある者は知人を通じて地方に米の取り置きを頼んだ。なかには、密かに小袋を買い溜め、机の奥に詰め込む者もいた。


誰が言い出したか、もう定かではなかった。ただ、すべての始まりがジル・フルートの口から出たということは、誰もがなんとなく分かっていた。


教室の後方の窓際で、一人の少年が本を読んでいた。


ソンブは、静かに頁を繰っていた。何の変哲もない動作だったが、彼の眼差しは時おり、開かれた書の上から遠くを見るように、外の気配を確かめていた。


その視線が、何を捉えていたのかは、誰も知らなかった。



王都・王宮会議室


午後の斜光が、石造りの円卓に斜めの線を描いていた。


「……放出せねばなりませんな。米価、すでに三割を超えております」


年配の侍従が、帳簿を王の前に差し出す。

王、アルミナス三世は静かにそれを見たのち、ふと手元にあった一通の手紙に目を落とした。


それは、半年前に届いた書状だった。

紙は黄ばんでいたが、筆致は整っていた。


――北東で、食糧価格の不穏な動きあり。

戦の前には、必ず“声なき買い手”が動き出す。

米を少しずつ、静かに、備えられたし。


署名のないその文面を、王はよく覚えていた。


あれは、例の少年――“ソンブ”と呼ばれる若者が、転入して間もなく送ってきたものだ。


「……読まれた通りになったな」


王は誰にともなく呟いた。


「では、備蓄分を放出し、王都から順に流通を図りますか」


「うむ。無用に騒がせるな。『王命により市を正す』とだけ伝えよ」


「畏まりました」


王は再び手紙を見た。その文面に、明確な命令も自己の名も記されていない。

ただ、見過ごせぬ冷静な「理」があった。


(……さて、学園で何を見ているか)


王は書状を手元の箱にしまい、帳簿に目を戻した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ