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第八章:沈黙の策

春の名残がまだ空気に漂っていた。若葉の匂いとともに、ラディア中央学園の中庭には淡く柔らかな陽が差していた。


 昼下がりの鐘が鳴った後、ソンブの机の上には、破られた教科書のページがばら撒かれていた。椅子の座面には濡れた布が敷かれ、机の裏には赤い炭で「魔無し」と雑に書かれている。


 教室の中には、誰もそれを止める者はいなかった。

 誰もが気づいていながら、目を伏せた。


 ソンブは、濡れた椅子を一瞥すると、何事もなかったかのように椅子を引き寄せ簡単に拭うと、静かに腰を下ろした。ばら撒かれた教科書のページを集め、破れた箇所を確認し、淡々と机に並べ直す。


 まるで、それが誰の仕業かということすら、彼の関心から外れているかのようだった。


 教室の片隅では、数人の生徒が視線を交わした。


 「……無視してる」


 「なんで怒らねえんだよ、あいつ」


 「ビビってんじゃないの?」


 ジル・フルートの取り巻きたちは苛立ちを募らせていた。ソンブの沈黙は、怯えとも屈服とも取れなかった。それが不気味だった。


 ジル本人は、ただ面白くなさそうに舌打ちをして言った。


 「誰か、もうちょい“効く”ことしてやれよ。見てて退屈だ」


 その夜、寮の部屋の扉が開いた。誰もいない間に忍び込んだ誰かが、彼の机にあった書類の束をばらばらにし、ノートを墨で汚した。


 翌朝、ソンブはそれを黙って拾い集め、乾いた布で丁寧に墨を拭き取ろうとした。だが、拭いても痕跡は消えず、頁は滲んだままだった。


 ルネ・アベルナは遠くからその様子を見ていた。


 彼女は迷った末、小さな包みをソンブの机の引き出しに入れた。中には、未使用のノートと、新しい筆記具が一揃い。


 「……たぶん、余ってたやつ」


 言い訳のように、短くそうだけ呟いて。


 


 だが、誰も知らなかった。


 ソンブが、夜の灯りの下で、滲んだノートの記録を別の紙に書き写しながら、学園内の生徒構成と教師の布陣、寮の配置、そしてジル・フルートの影響範囲を、淡々と図式化していたことを。


 ――地図を描く。それが、彼の最初の戦だった。


 敵を知る前に、場を知る。

 動く前に、全体の形を把握する。

 仕掛ける前に、どこが弱く、どこが支えになっているのかを確かめる。


 彼にとって、今はまだ“打つべき手”ではない。


 いまは、学ぶ時だ。

 この“戦場”が、どのような秩序に支えられ、どのような無秩序によって形を失っているのかを。


 そして、ひとつだけ確かだった。


 ――この秩序は、いずれ必ず崩れる。ならば、その時に備えよ。


 


 ソンブは、その夜も静かにノートを綴った。


 他の者たちが「やりすぎだ」とさえ言い出すような、日を追うごとに増していく悪意の中で、彼の手は一度も震えなかった。


 「静かなる備え」は、まだ続いていた。


最初に彼を見たとき、ルネは「変な子が来た」と思った。


 誰とも話さず、笑わず、でも決して俯かない。視線は真っ直ぐに前を見ていたが、それがどこを見ているのかは分からなかった。


 “落とされた子”――そんな噂が早くも寮中に広まり、彼女の耳にも届いていた。魔力がない、王都を追われた、規律違反、失敗作――皆が囁くように言っていた。でも彼自身は、それをどうでもいいことのようにしていた。


 (気にしてない……?)


 机に水をかけられても、書類を墨で汚されても、ソンブは一言も発しなかった。嫌がらせをした誰かを睨むこともなく、ただその後始末だけを、静かにこなしていた。


 “慣れている”――そういう風にも見えた。でも、それだけではなかった。


 ある時、ルネは偶然、彼のノートを見た。びっしりと記された文字。地図のような図解。何かの規則を並べた表。意味は分からなかったが、それが「ただの生徒の記録」でないことだけは分かった。


 (この人は、何かをしている。けれど、それが何なのか……分からない)


 彼のそばにいると、不思議と静かだった。図書館の長椅子で隣に座る時間は、話をせずとも居心地が良かった。まるで彼の沈黙が、自分の中の雑音まで鎮めてくれるようだった。


 「変な子」と思った気持ちは、いつの間にか「目が離せない子」に変わっていた。


 


 ある夕暮れ。彼の教科書が破られたとき、ルネは自分でも驚くほどの速さで立ち上がっていた。誰に何を言うわけでもなく、ただ、黙って布を取りにいった。そして、彼の机にそっと置いた。


 彼は振り返らなかった。でもその指が、静かに布を拾い、ノートの破れを包むように扱うのを見て――ルネは、なぜか少し泣きそうになった。


 誰に何をされたって、自分を乱さない。その姿が、ただ強いからではないとルネは感じていた。きっと、何かとても大きなものを、ずっと見ているからだ。


 そんな気がした。


 ――その人の視線の先には、誰も見たことのない「正しさ」があるのかもしれない。


 


 ルネ・アベルナは、まだそれが何なのか分からなかった。


 けれど、たしかに感じていた。


 この人は、何かを変えに来た。

 そして自分は、知らずその始まりに立ち会っているのかもしれない、と。


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