第一章:この身、児なれども、戦を知る
戦を知る者が、剣も軍も持たず異世界に現れた。
名は孫武。姿は少年。だが、策をもって人を動かし、言葉少なく場を制してゆく。
命じずして兵が従い、戦わずして敵が退く。
この静かな力は、やがて王国を変えていく。
ただの一人が、いかにして乱世の中で道を切りひらくのか。
この記録は、その始まりである。
目を開けると、そこには光の柱があった。
いや、正確には光の帯が螺旋を描いて天井へ伸び、私の身体を包み込んでいたのだ。眩しさはない。むしろ、温度のない光だった。寒くもなく、熱くもなく。ただ、不可解な浮遊感だけが残る。
「……また、か」
ぼやけた視界の先、広間のような場所が見えた。床は磨かれた白石、壁には青い帷幕、そして何より、空気が違う。湿度、気圧、風の粒子、空間の密度――そういったものすべてが、私のいた“あの地”とは違っていた。
そこに立ち尽くす人々――見知らぬ装束の魔導士、剣を佩いた兵士、杖を持った老婆、そして金の王冠を戴いた男。
それは、まさしく召喚の儀式だった。
「成功……したのか?」
誰かがそう言った。
「しかし……あれは……」
「子どもじゃぞ?」
「魔力の流れは完全に安定していた。神格の介在さえあったはず。だが……この姿は……」
私は自分の手を見る。指は細く、腕は軽い。骨は若い。十二歳前後の少年の肉体。当然だ。私はいま、転生のただ中にある。
「名を問う。そなたは何者か」
老婆の声が、静かに降る。
「孫武。かつて呉に仕えし軍略家。字は長卿」
短く名乗った私を、場にいた全員がぽかんと見つめていた。
そうか、この世界ではその名は知られていないのか。ならば説明もいらぬ。私は何者でもない。ならば自由だ。
「……そなた、“英霊”なのか?」
「いや。ただの者だ。戦を、兵法を知る者である」
場に沈黙が落ちた。
たぶん、皆困っていたのだろう。「この少年をどう扱うべきか」と。
私のような痩せぎすの子どもが、うつろな目で光の柱の中から出てきて、まるでこの世界に興味がないような口ぶりで“兵”を語ったのだから。
だが、王がゆっくりと立ち上がった。
髭を湛え、瞳に静かな光を宿した中年の男。国王、アルミナス三世。その姿勢には威厳があり、声には慈しみがあった。
「ソンブと申すか。ならば、そなたは我が客人だ。しばし宮殿に滞在し、我が国を見ていくがよい」
善なる王である。もし彼が違う性格であったなら、私はすぐ牢に入れられていただろう。だがこの王は、“奇妙”なものを排除せず、“正体不明”を罰と結びつけない。
私は頭を下げた。
「恩に着る」
王の言葉を受けて、私はそのまま宮殿に迎えられることとなった。
応接の間では、絨毯が音もなく歩を吸い、壁には風景を描いた油彩画がかかっている。陶器は薄く、食器は銀。火は香を焚き、空気には花の香りと紙の匂いが混ざっている。清潔で、洗練され、どこか“人為的に整えられた”場所だった。
私はここが嫌いではなかった。油断の多い空間というのは、それだけ私にとって“想定外を生む余地”を持っている。
案内された客室も、実に丁寧なものであった。
背の高い四柱の寝台。蚊帳は薄絹、布団は羽根詰め、カーテンは朝と夜とで掛け替えられる。使用人の女の子が少しおどおどしながら「寒くはないですか……?」と尋ねてくるあたり、王宮とは思えぬほど素朴だった。
「客人の居心地は国の品格を映す鏡ですからな」
と、宰相のハン=ボルトは言った。痩せ型の男で、ひどく胃の弱そうな顔をしていたが、その目は人の腹の底を覗き込むような冷静さがあった。
「しかし、あなた様は……何者で? なぜ戦についてを知るなどと」
「わからぬのか?」
「……はい」
私は笑った。わからぬのは仕方のないことだ。
この肉体では、“知”というものの重みが伝わりにくい。いや、そもそもこの世界には“兵法”という考えそのものが無いのかも知れぬ。そう考えると私のような童の姿で戦を語る様は異質で、奇妙で、不審に映るのも道理だ。
私は王宮の暮らしのなかで、些細な観察を積み重ねた。
廊下の巡回の間隔はおよそ六分。だが、五番目の巡回者はしばしば、衛兵詰所での雑談に夢中になるため、七分以上空く。そこが“穴”となる。
照明の火皿は、夜半に一度だけ香炉と入れ替えられる。その作業は丁寧だが、煙の向きで風向きが変わる瞬間がある。そこに、廊下の換気口が反応して“煙が流れる方向”が異常になったとき――人が通った可能性がある。
それらすべてを、私は口に出さず、ただ記憶にとどめていた。
ある夜のことである。
風が変わった。
寝台の上で横になっていた私は、ゆるく開けていた窓から差し込む風の向きに、僅かな異変を感じた。
(動いたな)
人の通る気配ではない。だが、物があるべき場所に“ない”という感覚。匂いが少し、変わっている。騒音がわずかに消えている。
つまり、“音を立てていたもの”が、どこかに移動した、ということ。
私は音を立てずに立ち上がった。
誰にも気づかれぬよう、廊下へ出る。
素足。音は出さぬ。手には――何もない。だが、私は“何か”を作るつもりだった。
足元に香炉。中身は灰と炭と樹脂。
私はそれを、廊下の巡回が切れる区間の中央にまき散らした。
火はつけない。撒くだけだ。風に乗って動くその灰が、人が通れば“跡”となる。だが、それすら“罠”の本体ではない。
絨毯の端を指でめくり、少しだけ浮かせる。端が立つ。視界に引っかかる。だが、それも罠ではない。
私は廊下の手すりの外、柱の影に身を隠す。
そして、ただ待った。