気持ちの糸は切れて
ほんの数分ほど前のことです。
控え室でエルラードの着付け係はため息をついていました。
表情が暗く曇っていようともエルラードの美しさはこの世のものでは無いようでした。むしろその悩ましい姿に萌えてしまいそうです。
「エルラード様、ご準備が整いましたら教会の方に移動しましょう。メリー様の方も準備は済んでおられるそうです。」
エルラードは立ち上がって扉に向かいました。先に式場でメリーを待たなくてはなりません。
(これがアリスとなら……。)
エルラードは何度もそう考えて、考えを振り切るように首を振りました。
教会に入るとその美しさに「おお」とその場にいる人々から感嘆の声が漏れました。エルラードは花婿ですけどね。人の多さにエルラードは萎縮して、下を向いていました。
パシャパシャとカメラのシャッター音がして、ローカルですが、生中継のテレビも始まった時、エルラードの耳に低い声が届きました。
『お前だけ幸せにさせやしない……。』
エルラードの思考を止めるには充分な言葉でした。それはあの時、エルラードの父親があの男に言われていた言葉です。青ざめたエルラードが顔を上げると群衆の中にエルラードにしか判らない濃紺のスーツを着た男が目に留まりました。
レザノンはエルラードの青ざめた顔を見れたら良いと思っていたに過ぎません。アリスのことで苦渋の決断をしてメリーと結婚すると知らない貴族たちは気まぐれに庶民の娘に手を出してあっさり他の貴族と結婚する男だとしかエルラードのことを見ていません。もちろんレザノンもその一人です。ですから、ちょっとした悪戯のつもりでした。自分はこんな辛い思いをしているのにジョゼッタの気持ちを容易く手に入れて好き勝手にかわいい娘と結婚するエルラード……そんな嫉妬心と逆恨みが悪意のある悪戯をするよう彼を駆り立てたのです。レザノンはエルラードの両親の事件を調べ、たまたまその犯人の写真を入手しました。その男に成りすましてエルラードに式場で会ったらどんな顔をするだろう?動揺して何か失敗でもしたらジョゼッタが愛想を尽かすんじゃないか…ただ、そんな軽い気持ちでした。
エルラードが教会に入ってきた時その場から感嘆の声が上がりました。レザノンも一瞬目を奪われた美貌。でも、レザノンは心の中で舌打ちです。
(ジョゼッタが気に入る筈だ…。)
見た目は完璧な王子様ですからね。レザノンがどんなに頑張っても……それはムリ。
(きっと今、ジョゼッタも彼に釘付けだ。)
そう、思うとレザノンは行動を起こしました。エルラードに見えるように前の席に移動して呪いの言葉で語りかけます。
「お前だけ幸せにさせやしない……。」
彼は純粋にこう言いたかっただけです。しかし、それは不幸な偶然にもエルラードの心を揺さぶるには最悪な言葉で……。
エルラードはすぐに自分の姿を捉えました。
(驚いてる……。)
そう思うとレザノンはニヤニヤ笑ってしまいます。そのニヤケ顔がエルラードの心の中で過去の恐ろしい顔と重なった時……ただでさえ大勢の人前で緊張していたエルラードの気持ちの糸は易々と切れてしまいました。
ブウン
大地をゆるがすような低い音がしました。それと同時にステンドグラスがカタカタと揺れ始めました。
(地震!?)
一瞬レザノンはそう思いましたがこちらを見ているエルラードの様子がおかしいのに気付きます。
(なんだ!?あれは……精霊が…信じられない大きさに膨らんでいる……)
エルラードの周りにはいくつもの精霊が集まっていました。そして、彼の魔力を吸って大きくなります。
ドオオン…
教会の天井が爆発音と共に吹き飛びました。エルラードの体には遥か頭上まで火柱のように魔力の柱が出没しています。何が起こったかわからない皆は喚きながら逃げ惑いました。こちらを見るエルラードに正気があるとは思えません。その時、レザノンは初めて自分がしたことを後悔しました。火の玉のようになったサッカーボールほどの精霊が自分の向かっていくつも飛んできます。レザノンも魔力は有る方ですが今相手している男は比べられようも無いほどの魔力を放出して……自分を消し去るつもりです。
(ば、化け物!)
何とか火の玉をよけたレザノンでしたが壁際に追い詰められてしまいました。ゆらりゆらりとエルラードが近づいてきます。
(だ、誰か!)
ドアを開けようとノブに手をかけましたが、そのドアもいつの間にか凍結されて動きません。
「ち、違うんだ!」
レザノンは急いで変装を解いてエルラードに見せました。でも、エルラードは正気を失っていて反応がありません。
(助けてくれ!)
エルラードが大きな火の精霊を練り上げながらレザノンに向かって来た時です。
「エルラード!」
彼の肩越しにエルラード名を叫びながら走ってくる緋色の髪の娘が見えました。