笑ってはいけない婚約破棄
「アドリアーナ! 貴様との婚約を破棄する!」
学園卒業記念パーティーの最中、一人の青年が楽しげな空気をぶち壊すようなことを叫ぶ。その青年の隣には不安げに瞳を揺らす少女が佇んでおり、二人を守るように複数人の青年が立っている。
そして彼らに対峙するかのように一人立ち尽くす少女。その瞳は呆れたように彼らを見ていたが、言ってやったと満足げにほくそ笑むアホ共はそれに気づかない。
「ケヴィン殿下、トルマーラ公爵子息、ダンティス侯爵子息、ティード伯爵子息、アウトー!」
突然そんな声が響いたと思えば、どやどやと騎士達が呼ばれた王子と子息達を取り押さえた。え、という顔をする彼らの元に、先が布で包まれた木製の模擬刀を手に駆け寄る別の騎士四人。それぞれの背後に立ち、その模擬刀を振りかぶる。
「おっ、おい! 待て待て、その模擬刀をどうすーー」
戸惑った様子の王子が言い終わる直前、スパァン! と小気味良い音と共に野太い男達の悲鳴が響いた。騎士達から手を離され、叩かれた場所を手で抑えながら蹲る四人。その痛みに悶え呻く姿を見て、恐怖で顔を引き攣らせる少女。
既に序盤のジャブで死屍累々な彼らを見ながら、向かいに立つ少女はため息を一つ。
「だからやめておいたほうが良いと言いましたのに」
こんな目出度い場で全くもって目出度くないことを躊躇いなく叫んだのだ。彼らは何も知らずにおっ始めてしまったのだろう、笑ってはいけない婚約破棄を。
考えなしに婚約破棄を叫んだ者に相応の罰を。
それはここ、トナーリ国の掟だ。トアル国より王家主催で開催された婚約破棄会場の噂を聞き、王妃が嬉々として作り上げたこの掟はおつむの足りない男共に散々辛酸を舐めさせられた貴族女性を中心に国中へと広まった。
家父長制が浸透しており、根本的に男尊女卑思想の強いこの世界で合法的に馬鹿共へ制裁を加えられるこの掟に国中の女性達は狂喜乱舞した。それだけで、どれだけの女性達がその思想に泣きを見せられたのかよく分かる。
とはいえ、あまりにも行き過ぎた罰は返って反感を生む。あくまで相応というのがミソなのである。
「命を奪うのはやり過ぎ」
「そこに愛はあるんか?」
「適度な体罰ならいいのでは」
「コーナーで差をつけろ」
「いっそちょん切るのは」
「ちくわ大明神」
「やはり社会的に抹殺を」
「おい誰だ今の」
とまあ、何日にも渡る議論の末、出来上がったのが笑ってはいけない婚約破棄だった。
何故そうなったのか、その真相を知る者はいない。考えるな、感じろ。ということである。
この掟は文字通り、婚約破棄中に申し立てた側が笑ってはいけないという単純明快な絶対的ルールがある。
というのも、婚約破棄を突きつける側は大抵笑っているからだ。それはもうにやにやと底意地の悪い顔で。それが悲痛な顔をしていればもしかしたら本意ではないのかも……? と思ったりもするが、笑っているなら確実にこちらを小馬鹿にしている場合が殆どだ。
当然そんな輩には容赦無用、遥か遠い東方の国ならば「スケサン、カクサン、懲らしめてあげなさい」という具合である。そのスケサンとカクサンがどういった存在なのかは謎であるが、恐らく守護神的なさぞ強い存在なのであろう、と研究者は考えている。
そんなことはさて置き、婚約破棄を強行しあまつさえ笑っている者達への罰だが、やり過ぎてしまってはこちらが被害者から加害者になりかねない。適度に、けれども相手の尊厳を破壊し心をポッキリさせるような罰。そうして考え抜かれた罰がやらかした相手の尻をシバくことであった。
一度で反省すれば良し、しかし反省の態度がなく笑えば何度でも尻をシバかれる。無限尻シバき地獄である。いい歳をした大人が人前で尻をシバかれるのは中々心にくる。たかが尻、されど尻だ。しかもそれがプライド高い貴族であれば尚更だろう。
当然尻をシバくのが痛くなければ罰にならないので、執行は騎士団が請け負うこととなった。誇り高い騎士団が何故と思われるかもしれないがなんてことはない、騎士団の者達は総じて体育会系のノリだった。実はそういった催しが割と好きなのである。
そんな愉快な騎士団と怒れる立場のある女性陣の凶悪タッグにより、この掟は実現することとなった。その知らせを聞いた貴族達は恐れ慄き、婚約破棄の発生率はぐっと下がったという。まあゼロという訳にはいかなかったので、過去に実行例があったとだけ言っておこう。
さて、そんな恐ろしい掟があるにも関わらずそれをすっぽり忘れ去っていたお馬鹿さん一行であるが、まんまと極悪笑顔で婚約破棄を行ってしまい、その時を今か今かと待っていた騎士団によって刑を執行されたのである。
ちなみに忖度があるといけないので、掟を破った者は立場関係なく罰を受けなければいけないという決まりがある。今回問題を起こした彼らは国内でも有数の立場ある貴族令息と王族であったが、掟の前には皆等しく尻シバきの刑である。
「お、俺は王族だぞ! こんな事が許される訳……!」
「残念ながら許されるのだ、笑ってはいけない婚約破棄の前ではな」
「父上、何故ここに! あと笑ってはいけない婚約破棄とはなんですか!?」
「プライベートな場以外では陛下と呼べと言ったはずだ。それにこの掟についても幼少の頃からお前には言い聞かせていたはずだぞ。そんなことをする愚か者がいるのかとその時のお前は笑っていたが、まさかその愚か者に成り果ててしまうとはな」
「嘆かわしいっ、我が息子がこの掟を破るなど! 立案者として顔から火が出そうです、恥を知りなさい!」
王妃の顔は憤怒の色に染まり、手に持つ扇子を今にもへし折りそうだ。確か護身用にとその扇子には鉄が仕込まれていたはずだが、見事に曲がっている。隣に立つ王の顔が若干引き攣っているように見えるのはきっと気の所為だろう。
二人は気遣うようにアドリアーナを見つめ、その視線に気づいた彼女はカーテシーをしながら二人に謝罪した。
「申し訳ございません、わたくしの力及ばず殿下達をお止めすることが叶いませんでした」
「よい、そなたはよくやってくれた。あの愚か者共が忠告も聞かず、掟も忘れ暴走した結果よ」
「貴女は本当によくやってくれたわ、アドリアーナ。それをあの愚息が無駄にしてごめんなさいね」
「勿体なきお言葉にございます」
三人の粛々としたやり取りをよそに、ようやく回復した四人が立ち上がる。若干ふらついているのはいい歳をして尻をシバかれた精神的なダメージもあるのだろう。
「で、ですが父う」
「陛下」
「……陛下! アドリアーナは大罪人です! 罪なき清らかな聖女サリナを虐め、あまつさえ命を奪おうとしたのですよ!」
「その件についてですが、学園に設置されていた魔道具に証拠の映像が残っておりました。皆様ご査収下さい」
「映像って何ですか!? そんなの聞いてません!」
「こういった事実無根の冤罪がまかり通らないために、我が国では映像を残せる魔道具が至る所に設置してありますのよ。何も問題ありませんわサリナ様、やましいことが無いのであれば堂々としているべきです」
「で、でもっ、映像が捏造されてる可能性もあります!」
「いいえ、この魔道具は中身を細工されないよう一切の情報が明かされていません。何処で作られているのか、誰が作っているのかも。知るのは代々この魔道具に関わる者と国家機密を取り扱う者だけですわ」
「じゃあどうしてアドリアーナ様がその映像を持っているんですか? そんなのおかしいです!」
「勿論、正規の手続きを踏んで学園に映像の提供を打診したのです。学園から王家に申請がいき、承認され指定した日時の映像のみが入った投写用の魔道具を預かったのですわ」
その用意周到さに己の分が悪いことを悟り、サリナはすぐさまケヴィンへと縋る。とてもチョロいケヴィンはきっとアドリアーナを睨みつけ、サリナを虐めるなと叫んだ。
「虐めるも何も、仕掛けてきたのはそちらでしょうに」
「黙れ! 昔からお前のそういう所が気に食わなかったんだ!」
「あらあら、殿下はそうやって昔から私に食ってかかってきてましたものねえ。その都度倍にして返していましたのに学習しないのですから、本当に困っておりましたの」
「ふんっ、そうやって可愛げがないから俺の寵愛を得られないのだ。精々愛らしいサリナを見習え。ああ、言っておくが今更真似しても遅いぞ? 逃した魚の大きさを知って泣くがいい!」
わーっはっはっは! と高らかにケヴィンは笑う。これから自分こそが泣きを見ると知らずに。
「ケヴィン殿下、アウトー!」
「へっ?」
またもどやどやと騎士達がやってきてがっちりケヴィンの両腕を掴む。今度は一人だけ後からやってきた騎士が模擬刀を振りかぶり、そのままスウィング!
スパァン! と小気味良い音を響かせた後、颯爽と騎士達は退場する。残されたのは尻をシバかれもんどり打つケヴィンだけであった。
「……殿下、まさかとは思いますが笑ってはいけない婚約破棄のルールを忘れていませんよね?」
「今のは不可抗力だろうが! 理不尽だ!」
「いえ、反省の色なく笑った殿下が悪いと思いますが」
「ううう煩い! 俺は悪くねぇっ! 俺は悪くねぇっ!」
なんとも見苦しい姿である。周りはうわぁ……という顔をしながら彼を眺めていた。これがうちの国の王子かあ、と思いながら。
下手なことを言えばまた尻をシバかれかねないので黙りこくってしまった集団をよそに、アドリアーナは魔道具を起動する。ケヴィンが言った虐めの起こった日の映像が映し出され、その尽くが別の者による犯行かサリナの自作自演であった。
そうして全ての偽証が暴かれたが、映像はまだ続いている。そこに突然一人の騎士が現れ、持っていた紙を広げた。
『ティード伯爵子息、騎士団長キック』
広げられた紙にはそう記されていた。
「え」
「む、私か」
あからさまに恐怖で固まる伯爵子息をよそに、騎士の一人がいそいそと騎士団長の利き脚の方の脛当てに布を巻きつける。やれやれ、と言いたげに息をつきながら彼の父親である騎士団長が試し蹴りをくり出す。それは音を置き去りにしていた。蹴りの後に音がついてくる、というなんとも不思議な現象が起きている。その蹴りを見て、騎士として将来を有望視されていた息子の顔がみるみる青ざめていった。
あんな蹴りをくらえば尻が消滅する。確実に。
冷や汗をかきながら恐怖で狼狽える脳筋息子をよそに、淡々と準備を進める騎士達。
たたかう
どうぐ
なかま
▶にげる
▼レノンは逃げだした!
▼逃げられなかった!
逃げ出そうとしても屈強な騎士達によって両腕をがっちり掴まれ、それは許されない。彼が必死に何かを言い募るが、時すでに遅し。
逆立つ髪、手を持ち上げ佇む騎士団長の姿は、もうこれで終わってもいいと言わんばかりだった。
「父上、すみませんでした! 大義を見誤っておりました! これからは正しき道を歩むと誓います! ですから、ですからそれだけはぁ……!」
「ぬぅん!」
言い訳など聞かぬ、という蹴りが彼の尻に炸裂する。
ボッ! という凄まじい音。尻が破裂したのではないかと錯覚するほどの衝撃だった。
手を離された脳筋息子はべしゃりとその場に崩れ落ちる。白目を剥き、その目からは涙がちょちょぎれていた。
「陛下、御前失礼致します」
「う、うむ」
気絶した息子を軽々と肩に担ぎながら、騎士団長はその場を後にする。運ばれていく彼がこの後どんな目に遭うのか、それは彼らにしか分からない。
ただ一つ言えることは、あいつ終わったな、である。
哀れむような視線が四人に向く。残された彼らは震えた。レノンのあれは見せしめだ、お前らにもこれからあれをやるぞ、というメッセージなのだ。次の哀れな犠牲者は誰なのか、まるで死を宣告されたような面持ちでそれぞれが顔を見合わせる。
「そういえば、事前に掴んだ情報によると殿下以外の皆様もご自分の婚約者に婚約破棄を告げるつもりだったとか」
さらりとアドリアーナからもたらされた爆弾発言に、残された者達は目を剥く。余計なこと言いやがってという顔で彼女を見るが、アルカイックスマイルで彼らを見つめていた。その瞳の奥には憤怒が滲んでおり、こんな騒ぎを起こしておいて逃げられると思うんじゃねえぞと言わんばかりだ。
「わたくし達は良好な関係を築こうと思っておりましたのに悲しいですわ。ねえ、ヒルダ様」
「ええ、本当に」
ヒルダと呼ばれた少女がアドリアーナの隣に立つ。悲しげな顔をして並び立つ姿は儚く、見る者の同情を引いた。
「ヒルダ……」
苦虫を噛み潰したような顔をしながらヒルダを見つめるのは、彼女の婚約者であるダンティス侯爵子息である。澄んだ碧色の瞳に見つめられ、罰が悪そうに目を逸らした。
「ショーン様、もう何を言っても無駄なことくらい分かっています。けれど今まで共に過ごしてきた時を思い出してほしくて、手紙に書いてきたんです。お読みしてもいいですか?」
「ああ、それくらいなら」
その手に持っていた便箋を広げ、滔々と彼女は語る。初めての顔合わせの時、初めて交わした手紙のこと、誕生日の時はいつも贈るプレゼントのことで頭を悩ませ、デビュタントの時にしたダンスは一生の思い出になったこと。そうやって沢山、沢山、二人の時間を積み重ねてきた。
「この先も共に時を過ごしていけると思っていました。けれど貴方の心はもう、別の方にあるのですね。ならば大人しく身を引くべきなのでしょう、それも仕方ありません」
「……何?」
「最後になりますが、ショーン様、私は本当に貴方を愛していました。それではお元気で、ヒルダ」
呆然と立ち尽くす彼をよそに、美しいカーテシーをしてヒルダは去ろうとする。そんな彼女に追い縋り、ショーンは跪きながら彼女を見上げた。
「待ってくれ、ヒルダ! 僕が悪かった!」
「いいえ、ショーン様、貴方の心を繋ぎ止められなかった私の責任です」
「違う! 僕はずっと、ずっと君に負い目を感じていて、美しい君に僕のことだけを見ていてほしくて、気を引こうと他の女性にちょっかいをかけていたんだ!」
「……私の心を信じきれなかったのですね、ならば伝えきれなかった私が」
「いいや、君は悪くない! 僕が悪いんだ、君の愛を際限なく求めて、欲深くなってしまった僕が! ……愛しているんだ、ヒルダ。あんな少し可愛いくらいで調子に乗っている性悪な聖女にちょっかいをかけて、心も容姿も美しい君の気を引こうだなんてどうかしていた」
「流石にそれは酷いと思うんですけど!?」
「ショーン様……」
「ヒルダ……」
「聞いてます? あの、ちょっと!」
二人の世界に入ってしまった彼らにサリナの抗議の声は届かない。完全にお互いしか見えていないようだ。まあつまりどういうことかと言うと、二人の恋のスパイスとしてまんまと当て馬にされたということである。
周囲も何とも言えない顔をしながら二人を見ているが、傍迷惑なバカップルにとっては何処吹く風である。
二人はいちゃいちゃしながら会場を出ていった。納得いかない顔をして未だ文句を言っているサリナと、微妙な反応の者達を残して。
こほん、と咳をしてアドリアーナは場の空気を戻そうとする。同じく他の女にうつつを抜かしている婚約者を持つ者として引導を渡す手伝いをしたつもりが、再構築の手伝いをしてしまった。それに何とももやっとする気持ちを抱きながらも、気を取り直してもう一人の令嬢を見る。
「貴女はどうです、ソフィア様」
「ふふ、わたくしはヒルダ様ほど優しくありませんのよ」
カツン、とヒールを鳴らして並び立つ彼女はとても大人びており、それでいて少女のあどけなさを持ち合わせた危うい魅力を漂わせていた。色づいた唇をにんまりと上向かせ、目を細めて自らの婚約者を見据える。
「分かっているでしょう、エドガー様?」
「気安く名前を呼ばないでもらおうか」
反抗するような物言いに、ばちりと火花が散るようであった。ようやく婚約破棄らしくなってきた空気にはらはらしながら二人を見ていると、ふう、と艶やかに息をつきながらソフィアが首を傾げる。
「あらあら、いつからそんなに反抗的になったのかしら。前まではすぐ私の名を呼んで媚びていたのに」
「誤解を与えるような言い方はやめてもらおうか、それにもうあの頃とは」
「お黙り、エド」
鋭い言葉に周囲は固唾を呑む。ついに断罪かと彼を見るが、重くなる空気に反してその頬はほのかに赤くなっていた。心なしか息も上がっているような気がする。
具合でも悪くなったのかと心配そうな空気になるが、意に介さずソフィアは続けた。
「誰がそんな生意気な口をきいていいと言ったのかしら。全く、お仕置きが必要ね?」
妖艶なほほ笑みと共にソフィアは何処からともなく鞭を取り出した。しかも縄状の長い物ではない、縄無しの騎馬鞭である。
彼が彼女の足元に駆け寄り、四つん這いになる。まるで期待するような顔でソフィアを見上げた。
思いも寄らない行動に何が始まるんだと周囲がざわつく。彼女の足が四つん這いになった体に置かれ、鞭を持つ手を振り上げた。
「この駄犬が!」
「ありがとうございます!」
ヒュンッ、と鋭く空気を切るような音。それから激しい鞭打ちの後にトルマーラ公爵子息もといエドガーの恍惚とした声が響いた。
高いヒールに体を踏まれ、背中に鞭を打たれる。痛みしかないはずのその行為に彼は満足そうに微笑んでいた。ルール的にはアウトなのだが、今の二人の間に割り込むことはとてもではないが無理だ。というよりあの空気に入り込みたくない。
「えぇ……」
ドン引きした様子でサリナが困惑気味の声を漏らす。サリナだけではなくその場に居る全員が引いていた。一体何を見せられているんだ、という空気である。
どうすることも出来ないまま彼らの公開プレイを見せつけられた後、エドガーは首輪とリードをつけられ、ソフィアにそれを引かれながら会場を後にする。その背中は何処か幸せそうであった。
誰もがその姿を見届けながらしょっぱい顔をしていた。というのも、エドガーは宰相の息子である。それなりに優秀なため次期宰相とも言われている。つまりあれがこの国の未来の宰相となる可能性が高いのである。
そんな宰相で大丈夫か、とぽつりと呟かれる。誰一人として大丈夫だ、問題ない。とは言えなかった。
どうすんだこの空気、という戸惑いの最中もう一度アドリアーナが咳払いする。この中でも主体となって話題の切り替えを図ろうとしているのだ、その頼もしい姿は未来の王妃に相応しかった。
「映像といえば、本日出席の叶わなかったミラージュ様より会場の皆様宛てにお言葉を預かっておりますの」
「ミラージュから……?」
「投写用の魔道具に映像が残っていますので、今映しますわ」
魔道具から上空に映像が映し出される。そこにはこの国の第一王女でありケヴィンの妹でもあるミラージュの姿があった。緩くウェーブがかった豊かな金髪に、まるで宝石のような虹色の瞳。それは王族の証であり代々受け継がれるアースカラーのそれである。全人類の中でもほんの一握りしか持たないとされる貴重なアースアイなのだ。
おっとりとした微笑みを浮かべてじっとこちらを見つめているが、産まれた頃からの付き合いである兄のケヴィンは知っている。その見た目に反して、妹は物凄く気が強いこと。王家の女らしく強かで、舌戦では負け知らずであること。そして一度として口喧嘩で妹に勝てたためしがないことを思い出していた。
「公務のため、此度の卒業記念パーティーに参加出来なかったことをとても残念に思います。親愛なるお兄様と未来のお姉様の晴れ姿を見ることが出来ず、本当に悲しいですわ」
そう言って瞳を伏せる姿すら品があり、見る者に思わずため息を吐かせる。心から名残惜しそうにしている姿に誰もが同情しているが、ケヴィンだけは違った。そもそも妹の公務は本来兄である自分が今日までにやるべきだったものだ。今日の婚約破棄のことで頭がいっぱいで知らん顔をしてブッチしようとしていたものを、妹のミラージュが尻拭いしているのだ。
暗にテメェの馬鹿で割食って身内が犠牲になってんの自覚してんのかこの愚兄が、とケヴィンに告げているのだ。その庇護欲をそそる姿で。事実、両親はそれに気づいており物凄い顔でケヴィンを睨みつけている。
「卒業生の皆様とお話出来るのを楽しみにしておりましたが、出席が叶わないためこの場を借りて祝いの言葉を送らせて頂きます。御卒業、おめでとうございます。皆様の未来に幸多からんことを祈っております」
柔らかな笑みを浮かべ、鈴を転がしたような美声で紡がれる祝いの言葉に卒業生達はうっとりとミラージュを見つめる。トナーリ国の至宝と言わしめるに足る美貌と教養、その品がある佇まいに誰もが魅了された。
「最後に、私事ではありますが一言。お兄様、アドリアーナお姉様キック」
「えっ」
その言葉を最後に映像は消えた。すっかり和やかなムードになっていたが、笑ってはいけない婚約破棄はまだ終わっていない。一人、また一人と会場から消えたがその場にはまだあと二人残されているのである。
映像こそ消えているが公開処刑の時間だぞ愚兄、と満面の笑みで言うミラージュの姿がケヴィンの脳裏に浮かんでいた。
いそいそと女騎士がアドリアーナの脚に布を巻き付けていく。彼女が試し蹴りをするまで王子は所詮令嬢の蹴りなどと侮っていた。
しっ、という掛け声と共にくり出される蹴りは明らかに素人のそれではなかった。騎士団長ほどのパワーこそないが、まるで鞭のような鋭さがある。その細足の何処に一体そのような力が、と不思議になるほどであった。
「あ、アドリアーナ、まさかと思うが本気でやる気か?」
「当然ですわ、ミラージュ様からのご指名ですもの」
「ぐっ! いや、そこは甘んじて受け入れよう。だ、だが、淑女たる君が何故そこまでの力を……?」
「王太子妃候補ですもの、殿下を守るための鍛錬も教育の一つとして組み込まれていたのです」
「いやいやいや、そういうレベルとは違う! 明らかに経験者のそれだ、その足捌きは!」
「当然ではありませんか、殿下の御身を守るためですのよ。"武"を極めぬ者に王太子妃の資格無しですわ」
「その余計な項目を入れたのは誰だ!?」
「貴方の御母様ですけれど」
「えっ」
ばっ、と自身の母親を見ると満面の笑みで頷いている。隣で青褪めてカタカタと震えている父親を見た瞬間に察した。多分これ父親も過去に何かやらかしたな、と。
逃げられないよう両腕を騎士達に掴まれる。この状況でも無表情を保てるんだから訓練の賜物だなあ、と他人事に感心してしまった。
「さあ殿下、他の方も等しく処罰を受けたのです。大人しく臀部を差し出して下さいまし」
「三人の内二人は罰らしい罰では無かった気がするが!?」
「そもそも主犯は貴方がたでしょうに。では、参ります!」
「参らなくていいんだがなぁ!?」
ざっ、と構えたアドリアーナが鋭く脚を引く。ふんっ、という気合の声と共にくり出された蹴りがケヴィンの尻にスパーキン!
ズドバァン! という中々の音を響かせケヴィンの体が前につんのめる。倒れなかったのは騎士達が両腕を掴んでいたおかげだろう。代わりに衝撃を逃せずもろに尻にきていたが。
両腕を離されたケヴィンは言葉もなく地面に突っ伏す。天高く掲げられた尻からはシュウウ……と煙が上っていた。彼の脳裏には満足げに笑っている妹の姿が浮かんでいたが、それを知るのは当人と身内だけである。
これにてケヴィンも無事に罰が終わり、残されるはあと一人。聖女サリナに周囲の視線が向き、ぎくりと彼女は肩を震わせた。
「そういえばサリナ様、教会より法皇様がいらしておりますよ」
「っ、は、はい!」
あの蹴りを目の当たりにしたからか、アドリアーナから声をかけられたサリナは明らかに怯えている。しかも自分以外の四人はとんでもない目に遭ったのだ、次は自分の番ではないかと戦々恐々としてしまう。
呼ばれたからか、サリナの身元引受人である法皇がゆっくりとその場に現れる。慈愛のこもった瞳が彼女を捉え、もしかしたら助けてもらえるのではないかと希望が一筋見えた気がした。
「聖女サリナ、禊のアドリアーナ様キック」
「あら、またご指名ですか」
「ひっ……!」
希望なんてとんでもなかった。その穏やかな笑みから出てきたのは禊という名の絶望である。じり、と足が後ろに下がるがすぐさま女騎士に両腕を押さえられた。アドリアーナがヒールを鳴らしながら近づいてくるが、それはサリナにとって死神の足音のようであった。
「大丈夫です、瞬きの間に終わりますよ」
「一瞬でも嫌なもの嫌ぁ!!」
悲痛な声で叫ぶがアドリアーナには知ったことではない。背後で構える気配にサリナから悲鳴が上がる。
スパァン! とケヴィンの時に比べればやや軽い音が響く。手心を加えたんだなあ、と周囲は思ったが痛いものは痛いのでサリナはくぐもった悲鳴と共にがくりと膝をついた。
「わ、私のお尻がっ……! 割れてる、絶対に割れてる! 二つになってる!」
「落ち着いて下さいませ、既に割れておりますわ」
とても良い笑顔で声をかけてくるアドリアーナを恨めしげに見つめるも、彼女はただ指名されてその通りに執行しただけ。もう一度言うが彼女の知ったことではない。少しだけ、すこーしだけ報復の意図も入っているがそこは迷惑料ということで御愛嬌だ。
かくして、笑ってはいけない婚約破棄は終幕した。尻を押えて内股気味に歩く二人を尻目に、アドリアーナは晴れやかな気持ちで卒業記念パーティーを過ごした。
後日、尻シバかれ王子と尻が割れた聖女と尻破裂騎士見習いの三人は、迷惑をかけた各所へ謝罪して回ることとなるのであった。謝罪を受けた各所からの反応は、まあ割と同情的なのもあり対応が気持ち優しかったことだけが救いであった。
面白かったら評価を押して頂けるととてもとても嬉しいです。