図書室の小夜子さん
その日、僕がいつものように登校すると、校門の横に人だかりができていた。
皆ひそひそ小声でささやき合ったり、興味本位で写真を撮ったり、何だか怖いもの見たさとしか思えない雰囲気だ。
つい好奇心に負けて、人だかりの向こうから『それ』を見ようとする。
巽:うわぁ
思わずそんな情けない声が出てしまった。
薄茶色の枯れ草を束ねて作ったシンプルな人形が、校門横の植木に靴紐のようなもので結び付けられている。
いわゆる藁人形というヤツだ。
大きさは胴体の辺りを握ったら持ちやすそうなくらいで、全体的に手作りらしい雑さがある。
校門にこんな呪いのアイテムがあったんじゃ、そりゃ人だかりもできるわけだ。
誰だって怖いもの見たさで足を止めるに決まってる。
巽:うーん、また小夜子さん案件かなぁ
教師:おいこら! お前達! 早く教室に行きなさい!
学校一の怖い顔で評判の先生が駆けつけてきて、あっという間に人だかりが散ってしまう。
藁人形よりもこっちの方がずっと怖い。
お説教のターゲットにされる前に、さっさと逃げてしまった方がよさそうだ。
◇ ◇ ◇
――時間は過ぎて、待望の昼休憩。
思った通り、クラスの話題は例の藁人形のことで埋め尽くされていた。
それにしても……どうしてこういうときの噂話は、現実味の薄い方向に吹っ飛んでいってしまうのだろう。
学校に恨みがある不審者説はまだいいとして、ああ見えて恋愛のおまじないだとか、宇宙人からのメッセージだとか、わけの分からない噂話まで発生してしまっている。
特に恋のおまじないってどういうことだ。どう考えても呪いだろ、あれ。
聞いているだけで疲れる話題に背を向けて、僕はいつもの場所へ行くことにした。
巽:小夜子さん、もういますか? 入りますよ
この市立夕霧中学校には二つの図書室がある。
一つは普通の小説や授業で使う資料をメインに置いてある第一図書室。
もう一つはめったに読まれない小難しい本や、何に使うのか分からないような資料が置いてある第二図書室。
僕が今いるのは、その第二図書室に繋がるドアの前だ。
第二図書室は第一図書室のすぐ隣にあって、図書室同士が内側のドアで繋がっていて、そのドアを使わなければ第二図書室には入れないようになっている。
実際のところ、第二図書室にも廊下に繋がるドアもあるのだけれど、本棚で内側から塞がれてしまって通ることができなくなっている。
それでも誰一人困らないくらい、第二図書室の利用者は少ないのだ。
巽:小夜子さーん?
ノックをしてからドアを開けると、ちょうど女子生徒が飛び出してきた。
女子生徒:ありがと、小夜子さん! 私がんばってみるね!
その女子生徒は、僕にぶつかりかけたことも気付かずに、ご機嫌な様子で図書室を出ていってしまった。
あまりに突然の出来事すぎて、図書室で騒がないとか走らないとか、当たり前の注意をする暇すらなかったくらいだ。
でも、これはいつものこと。
第二図書室を訪れた人は、いつも晴れ晴れとした顔で帰っていく――小夜子さんのお陰で。
巽:小夜子さん、いるなら返事くらいしてくださいよ
小夜子:巽君か。すまないね、さっきの子の声が大きくて聞こえなかったみたいだ
学校指定の黒い冬服に長い黒髪。襟元に付けられた二年生の校章。
誰が持ち込んだのかも分からない事務机を堂々と占領し、古びた本のページを愉快そうにめくっているこの人こそ、僕が第二図書室に足を運ぶ理由だ。
巽:小夜子さん。今朝の話、聞きました?
小夜子:呪いの藁人形のことならもう知ってるよ
巽:ですよね。ひょっとして、さっきの人もそれ絡みの相談とか
神宮寺小夜子さん。クラスは二年一組で僕よりも一つ年上。
美人といえば美人だけど、ミステリアスなんて言葉が泣いて謝るレベルの変な人だ。
何故なら、小夜子さんは第二図書室の主だからだ。
入学式からもうすぐ二ヶ月。未だに信じられないのだけれど、小夜子さんは名実ともにそう認識されている。
他の生徒からだけでなく先生からもそうなのだから驚きである。
小夜子:いや、あれは別件さ。『チャーリーゲーム』に失敗したから呪われるんじゃないか、という相談をしに来たんだ
小夜子さんが図書室を自分の部屋のように使うことが黙認されている理由。
それは小夜子さんが趣味兼ボランティアでやっている『相談室』があるからだ。
小夜子:恋愛の占いをしたかったらしいけど、完全にチョイスを間違えているね。恋愛占いならタロットの方がまだマシだ
巽:いやそもそも、チャーリーゲームって何なんですか
小夜子:『コックリさん』や『エンジェルさん』みたいなものだと言えば分かるかい?
巽:どっちも知りませんけど
小夜子さんは少しだけ不満そうに「そうか」と言って、いつものように妙な知識を説明し始めた。
小夜子:降霊術みたいな雰囲気の遊びだよ。本場だとチャーリーチャーリー・チャレンジと言って、鉛筆を十字に重ねて四隅に『イエス』と『ノー』を二つずつ書き、何かしらの呪文を唱えてチャーリーという悪魔を呼び出す。成功すると鉛筆が動くというものだ
ああ、言われてみれば、どこかで聞いたことがあるような気がする。
小夜子:コックリさんやエンジェルさんは紙に五十音表や『はい』『いいえ』を書いて、参加者全員が十円玉の上に指を置いて呪文を唱えると、十円玉が勝手に動いて質問に答えてくれるというものだ。四十年か五十年くらい前の流行だったかな
巽:そんなに古いんですか?
小夜子:元を辿れば、百年前のウィジャ盤や二百年前のテーブル・ターニングにまで行き当たる。ルネサンス期の十五世紀にも似たようなモノがあった説まであるくらいだよ
この通り、小夜子さんはこの手のオカルトな知識にとても強い。
そのせいか、一年生の頃から幽霊やオカルトに絡む相談事を持ち込まれるようになり、いつの間にか先生達からも信頼されるようになってしまったらしい。
小夜子さんの『相談室』の設置場所はこの第二図書室。相談を受けるボランティアをする代わり、小夜子さんはここを自由気ままに使うことができる、という仕組みだそうだ。
そんな仕組みが学校の中で成り立っているなんて、未だに信じられない。
けれど確かに相談者は小夜子さんのところにやって来ていて、そして悩みを解消してもらって晴れ晴れした顔で帰っていくのだ。
巽:で、タネ明かしは何なんです?
小夜子:タネ?
巽:ほら、チャーリーゲームの鉛筆が動く原理ですよ
僕はいつものように、テーブルの上に積み上げられた分厚い本を元の場所へと戻していく。
これでも僕は図書委員なので、散らかったままの本の整理整頓は当然の仕事だ。
小夜子:仕組みは至って単純明快。正直なところ、あまりにも面白みがなさすぎるね。コックリさんやウィジャ盤の方がまだロマンがある
小夜子さんは両手で頬杖を突いて、小さく溜息を吐いた。
小夜子:鉛筆の表面はすべすべしているだろう? そんなものを素人の手で十字に重ねたところで、吐息とか振動とかのちょっとしたことで簡単に滑って動くに決まってるじゃないか
巽:ああ……確かに。でも、呪文を唱える前に動いたらどうなるんです? デタラメだってバレるじゃないですか」
小夜子:そのときは置くのを失敗したと思ってやり直すだけさ。人間は都合よく物事を受け止めるものだからね
ここまでスッパリ言い切られると、納得することしかできなくなる。
小夜子:とにかく、重ねた鉛筆が動くのは、風呂場にビー玉を置いたら排水口に向かって転がっていくのと大差がない。その点、コックリさんは筋肉性自動作用や自己暗示との関連も考察でき、古来の神託にも通じる興味深い題材で――
小夜子さんのスイッチが入りかけたところで、第一図書室に繋がるドアをノックする音が聞こえた。
巽:どうぞ。入って下さい
僕は部屋の主に代わって勝手に返事をした。
ああなった小夜子さんは簡単には止まらない。
次の相談者に来てもらって空気を変えるのが一番だ。
雅紀:ええと、ここが神宮寺さんの?
入ってきたのは二年生の男子生徒だった。
見覚えのない顔だけれど、何となく運動部っぽい雰囲気がする。
小夜子:なるほど。君は二年二組、サッカー部所属の高町雅紀君だね。相談の内容は藁人形の件かな。あれは自分をターゲットにしたものだと思っているんだろう?
巽:ど、どうして分かるんだ?
小夜子:詳細は秘密にしておくよ。それよりも本題に入ろうか。ぼうっとしてたら昼休憩が終わってしまう
今のは小夜子さんがよく使う手だ。
大抵、初めて相談に来た人は小夜子さんのことを信頼していない。
誰かから勧められて疑いながらやって来ることがほとんどだ。
そこにいきなり予言じみた先制攻撃をぶつけられると、大抵の人はびっくりして、ちゃんと話を聞いてくれるようになる……のだとか何とか。
小夜子:ほら、とりあえず座ってくれ
雅紀:あ、ああ……
第二図書室の事務机には椅子が二つある。
一つは小夜子さんが座っているもので、もう一つは机を挟んで反対側の相談者が座るためのものだ。
雅紀:ところで、そこの一年生は?
小夜子:柊巽。一年一組の図書委員で、私の助手みたいな子だよ
巽:あ、やっぱり僕ってそういう認識なんですね
まぁ、実際にそれっぽいことをやったりしてるから、強く否定はできないのだけれど。
そもそも僕が本棚に戻している本は、小夜子さんが読み散らかしたものなわけで。
片付けの手伝いをしている時点で助手とかアシスタントとか思われてもしょうがない。
雅紀:神宮寺さんの言うとおり、今朝の藁人形は俺を呪おうとしてるんだ
小夜子:その根拠は?
雅紀:藁人形を縛ってたっていう紐、たぶん俺のスパイクの靴紐だ。昨日、右足の方の紐が行方不明になってたんだよ。妙なイタズラだなって思ってたんだけど……それに、前にも似たような人形を見たことがあるんだ
高町先輩は嫌なことを思い出したように顔を青くしている。
雅紀:通学路の途中のフェンスに括り付けてあって……あのときは、ただの悪趣味な人形としか思わなかったし、自分がターゲットだなんて考えも……見かけたのは朝だけで帰りにはもうなくなってたしさ……
小夜子:通学路か。具体的な場所は?
雅紀:ああ、それは……
先輩曰く、最初の藁人形があった場所は、本当にただの道端というか、マンションの前のフェンスに雑にくくりつけてあっただけだったらしい。
それを聞いて、小夜子さんは意味深な笑みを浮かべて頷いた。
何の手掛かりにもならない情報だとしか思えないのだけど、小夜子さんは一体どこに興味を持ったのだろうか。
小夜子:なるほどね。それじゃあ、オカルト的な説明と現実的な説明、どちらから聞きたい?
雅紀:……オカルト的な方から
小夜子:分かった。結論から言うと、あれは呪いとして全く成立していない
容赦ない即答だった。
小夜子:いわゆる丑の刻参りのつもりなら、せめて神社でやらないと意味がない。あれは神様への祈願なんだ。学校の植木でやってもご利益はない。単純な類感呪術のつもりにしても、ただ縛って固定するだけじゃ不十分だね
雅紀:るいかん?
小夜子:似た者同士は影響し合うという理屈の呪いだ。人形を痛めつけると相手も痛がるとか、そういうものだと思ってくれ。ところが、あの藁人形はただ縛ってあるだけ。類感呪術として考えると、何がしたかったのかさっぱり分からない代物だよ
高町先輩は納得と困惑が半々ずつ混ざったような表情を浮かべ、小夜子さんに説明の続きを求めた。
雅紀:なぁ、呪いってのは……その、本当にあるのか?
小夜子:それは現実的な説明の方の領分だね。プラセボ効果という現象は知っているかな。プラシーボ効果とか偽薬効果とも言うんだけど
雅紀:偽物の薬でも、本物だって信じてたら効果が出るって奴だったっけ
小夜子:不利益を与える場合はノセボ効果、もしくはノーシーボ効果という。実際には無害でも思い込みで悪影響を受けてしまう。呪いもそれと同じさ。今よりも迷信深かった時代なら効果は抜群。思い込みから病気になって死んでしまうことだってあっただろうね
高町先輩が生唾を飲み込むのが見えた。
もうすっかり小夜子さんにペースを掴まれてしまっている。
そういう僕もつい作業の手を止めて、二人の会話に耳を傾けていた。
小夜子:裏を返せば、君が呪いを信じていない限り、アレはただの枯れ草人形だ。そんなことよりも、君を呪いたいと考えている人間が近くにいる、という事実の方に危機感を覚えるべきじゃないかな?
雅紀:あっ……! た、確かに!
小夜子:犯人に心当たりは?
雅紀:ええと……何つーか……
言葉を濁す高町先輩に、小夜子さんは意味深に笑いかけた。
小夜子:自惚れていると思ったりはしないよ。色恋沙汰は典型的な呪いの動機だ。サッカー部の新キャプテン君は女子から大人気らしいじゃないか
雅紀:……俺はサッカーに集中したいから、そういうのは全部断ってるんだけど、断るなんてひどい!とか言い出す人もいてさ。逆恨みの手紙を送りつけられたこともあるんだ。そういうのが原因なら、候補が多すぎるっていうか……
モテる男ならではの悩みということか。
申し訳ないけど全く共感できない。
小夜子:よし、ひとつ安心材料をあげよう。君は呪いの藁人形で警察は動かないと思っているようだけど、本当は逮捕される可能性が十分にある行為だ
雅紀:え、ほんとか!? ……って、あれ? そんなこと、俺、言ってたっけ……?
小夜子:『高町雅紀を呪っている』というメッセージが今以上に明確になれば脅迫罪。敷地の所有者が訴えれば住居侵入罪。取り付けたことで物を壊したり使えなくしたりすれば器物損壊罪。そうでなくても場合によってはストーカー規制法違反。刑法がよりどりみどりだ
それを聞いて、高町先輩はようやく安心したような素振りを見せた。
どうやら、警察が動いてくれないと思いこんでいたせいで、不安が何倍にも増大してしまっていたらしい。
雅紀:あんなことされて、手も足も出ないってわけじゃないんだな。相談してよかったよ
小夜子:それはなにより。ああ、そうだ。もしも何か新しい情報が入ったときのために、住所と連絡先を教えてもらえるとありがたいんだが
雅紀:いいよ。できればもう何も起こって欲しくないけどさ
小夜子:ありがとう。それと通学路……藁人形を見つけた日のルートも頼めるかな
高町先輩は求められた内容を小夜子さんに教え、軽い足取りで第二図書室を出ていった。
オカルト的には呪いとして成り立たず、現実的には気にしなければ意味がなく、今以上にエスカレートすれば警察のお世話になるだけ。
高町先輩が安心感を得るには十分過ぎる情報を提供できたようだ。
高町先輩が立ち去って行った後で、僕は抱えていた最後の本を棚に戻し、小夜子さんのデスクの前に立った。
巽:小夜子さん。高町先輩の相談の内容とか、警察が動かないって思ってるとか、どうやって見抜いたんですか?
小夜子:簡単なことさ。ここに来る前に、たまたま二年二組の教室の前を通っていてね。他のサッカー部員とあれこれ話し合っていたのが耳に入ったんだ
巽:え、それだけ?
呆気にとられた僕の顔を見て、小夜子さんはくすりと笑った。
小夜子:あらかじめ得ていた情報を利用する読心術。こういうのをホット・リーディングと言うんだ。占い師や霊能者の常套手段さ。観察眼を駆使してアドリブで立ち回るコールド・リーディングとの二枚看板だね。君は人が良いから、騙されないように気をつけるといい
小夜子さんはオカルトにとても詳しいのだけれど、神秘的なパワーだとか霊魂の存在だとかを信じている様子はない。
もちろん、相談に来た人全てにオカルトを否定した答えを返すわけではなく、悩みが解決するようケース・バイ・ケースで対応している。
けれど、あくまで小夜子さん個人としては、オカルト現象の存在を信じているようには思えなかった。
小夜子:おや、何か考え事かい? 悩みがあるなら相談に乗ろうか
巽:……いえ、高町先輩の相談事って、僕には縁がないことだよなって思ってただけです。僕はあんなにモテたりしませんからね
咄嗟に適当なことを言って本音を誤魔化す。
小夜子さんは本当に勘が鋭いから、ひょっとしたら全部筒抜けだったかもしれないけれど。
小夜子:自分のことを卑下し過ぎるのはよくないよ。自意識過剰になれとまでは言わないが、容姿や人格を否定する言葉はそれ自体が呪いになるからね
巽:プラセボ的な意味ですよね。気を付けます
小夜子:長所を潰すことになると考えれば、むしろノセボ効果と言うべきかもしれないね。さてと……
小夜子さんは事務机の引き出しから折りたたまれたコピー用紙らしきものを取り出すと、机の上に広げて赤いペンで何やら書き込み始めた
巽:何ですか、それ
小夜子:何って、これまでに藁人形が発見された場所だよ。最近の一ヶ月間で十一ヶ所。妙に配置が偏っていると思っていたけど、さっきの相談のおかげでようやく謎が解けた
巽:え、はあっ!? これまでって……ええっ!?
隣の部屋が真っ当な図書室だということも忘れて、思わず驚きの声を上げてしまう。
状況が全くつかめない。小夜子さんは一体いつから藁人形事件のことを追っていたんだ。
一ヶ月も前から? 十一ヶ所も?
僕は今朝になるまで何も知らなかったっていうのに。
小夜子さんは僕の反応が理解できないと言いたそうな顔をしたが、すぐに自分で納得したように頷いた。
小夜子:そう言えば教えてなかったか。私の家は神社だから、不法侵入と器物破損の注意喚起の連絡が回ってきたんだ。うちの祭神に呪いを祈願しても意味はないと思うんだけど、あの犯人が気にするとは思えないからね
巽:知らなかった……小夜子さんの親って神主さんだったんですね
小夜子:正確には叔父が宮司をやっていて、私はそこに居候させてもらっている立場だよ。ちなみに、宮司というのは神主の正式名称だ
隙あらば豆知識を挟み込んでくるのは、本当に小夜子さんらしいとしか言いようがない。
小夜子:同一犯と思われる藁人形の発見場所は、見たところ何の共通点もなかった。近くにある二つの神社の片方だけが被害にあって、もう一方は未だに被害を受けていなかったりもするくらいだ
巽:うーん……線で繋いでみても、グネグネ曲がりくねってるだけですね。規則性とかなさそうに見えますけど
小夜子:だが、こうして高町雅紀の自宅と通学路を書き加えれば……
小夜子さんが地図の上で赤ペンを走らせる。
すると驚いたことに、全ての藁人形の発見場所が、高町先輩が登校したルートとぴったり一致したのだ。
巽:……嘘でしょ?
小夜子:彼は学校までの最短経路を通るのではなく、寄り道を繰り返して他の部員と合流してから学校に向かっている。恐らくは部活の朝練のためだろうね
巽:だから、発見場所の規則性が分からなかった……
小夜子:本人が気付いていなかっただけで、実は既に十体以上の藁人形を叩きつけられていたわけだ。それも彼の独特の登校ルートを知る人物によってね
僕の頭の中で、藁人形事件の犯人の悪質さが一段階レベルアップした。
これじゃあ本当に悪質なストーカーだ。
小夜子:十一件のうち三件は建物の所有者が不気味がって廃棄してしまったけど、残りは証拠保全とお祓いを兼ねてうちの神社が預かっている。なかなかに興味深いよ。ほら、この写真。並び順は左から発見が早かった順番だ
小夜子さんが見せてくれた写真には、畳の上に並べられた八体の藁人形が映っている。
古いものは見るからに作りも甘くて適当だけど、新しくなるほどに少しずつ上達が感じられ、込められた悪意も増しているように思えた。
小夜子:彼に連絡を入れて容疑者の心当たりを教えてもらおう。早く見つけないと手遅れになるかもしれない
巽:犯人探しまでするんですか? 相談は終わってるんだから、そこまでしなくたっていいでしょう。ストーカーなら警察に任せた方が……
小夜子:手遅れになるのは彼じゃない。犯人の方だ
小夜子さんは不意に声のトーンを落とし、デスクの前に立つ僕の顔を真剣な眼差しで見上げた。
小夜子:人を呪わば穴二つ。呪いの影響を受けるのはターゲットだけじゃない。ましてや呪いの藁人形や丑の刻参りは『宇治の橋姫』の呪法からの派生なんだ。下手をしたら取り返しがつかなくなる
巽:橋姫とか何とかは知りませんけど……呪いが本物だと信じ込んでたら、呪いに失敗して反動をくらうと思い込んで自爆するってことですか? でも、ただの嫌がらせかもしれませんよ
小夜子:プラセボ効果にもノセボ効果にも限界がある。青酸カリではなく薬を飲んだのだと思い込んでいても普通に死んでしまうように、呪いというものは信じていなくても毒性を発揮してしまうことがあるんだ
そう言って、小夜子さんは綺麗な顔を不愉快そうに歪めた。
小夜子さんのこんな表情を見るのは、出会ってからこれで二回目だ。
オカルトが人を不幸にすることを、小夜子さんは本当に心から嫌っている――あまり長い付き合いだとは言えないけど、それだけは何となく分かってきた。
小夜子:また君に色々とお願いすることになるかもしれないけど、構わないかな
巽:分かってますよ。もう慣れました
わざと気のない返事をしてみせたけれど、内心では気持ちが軽く弾んでいた・
小夜子さんのこういうところが嫌いだったら、最初から助手まがいのことはしていない。
こうして、僕達は『犯人のための犯人探し』に乗り出したのだった。
◇ ◇ ◇
小夜子さんと出会ったのは、今年の入学式から間もなくのことだった。
きっかけは『人喰い桜事件』だと言えば、この学校の生徒ならすぐにあのことかと気付くだろう。
おどろおどろしい呼び名とは反対に、尾ひれのついた噂と勘違いが生んだ、犯人らしい犯人なんか存在しないささやかな事件。
僕は不幸にも容疑者の一人とされてしまい、そして小夜子さんと出会った。
本格的に助手扱いされるようになったのは、四月末の『青い首飾り事件』だったと思う。
夕霧中の生徒の間で発生した、いわばオカルトネタを悪用したネズミ講。
こちらは正真正銘の『事件』で、警察沙汰にならなかったことが今でも不思議なくらいだ。
小夜子さんがさっきみたいに不愉快そうな顔をしたのを見たのは、この事件が初めてのことだった。
そんな小夜子さんを放っておけなくなって、うっかり手伝いを申し出たのが運の尽き。
いつしか僕は、周囲の人達からも『小夜子さんの助手』と認識されるくらいに、あの人と深く関わるようになっていたのだった。
巽:……やっぱり、クラスと名前だけじゃよく分かんないよなぁ
高町先輩の相談を受けた翌日の放課後。
僕は小夜子さんに頼まれて、高町先輩が怪しい相手として挙げた女子生徒の様子を見るために、上級生の教室がある階を訪れていた。
小夜子さんは「私が動くと目的に気付かれやすいからね」とか言って第二図書室に籠っているし、高町先輩はサッカー部のキャプテンだから放課後は忙しいので、僕一人だけで動くことになってしまった。
どうしたものかと悩んでいると、一年生の校章をつけた女子生徒がひょっこりと目の前に現れた。
愛佳:柊巽君ですか?
巽:え、そうだけど……君は?
愛佳:一年三組の高町愛佳です。お兄ちゃんのことでお手伝いに来ました
巽:お兄ちゃんって、もしかして
愛佳;はい。サッカー部の高町雅紀の妹です。お兄ちゃんが疑ってる人達の顔なら、私もよく知ってますから
これは本当に心強い味方だ。
相手の顔を知っているのといないのとでは動きやすさがぜんぜん違う。
高町さんの案内で、高町先輩が心当たりとして挙げた先輩達を順番に訪問していく。
女子テニス部のエース。二年二組の女子の中心人物。成績トップクラスの三年生――こんなことがなければ顔を見ることもなかったかもしれない先輩ばかりだ。
普通なら、僕が話しかけても軽くあしらわれるだけだろう。
けれど小夜子さんに頼まれたと伝えると、不思議なことにほとんどの人が快く応じてくれるのだ。
ひょっとしたら、本人や友達が一度は小夜子さんの世話になったか、もしくは世話になる予定があると思っていて、そのおかげで協力的になっているのかもしれない。
巽:何ていうか、凄いね。色んな意味で上から数えた方が早い人ばっかりだ
愛佳:これでもほんの一部なんですよ。リストに載ってるのって、お兄ちゃんが気付いてる人だけですから
巽:気付いてる人?
愛佳:直接アプローチして断られた人だけってこと。行動に移してないからお兄ちゃんに気付かれてないって人は、この何倍もいると思いますよ。それに……
高町さんと話しながら廊下を歩いていると、不意に数人の上級生が道を塞いできた。
校則違反一歩手前の派手めの格好の女子達だ。
女子生徒:あ、高町の妹じゃん。例のアレ、ちゃんとトってきてくれた?
にやにやと笑う上級生達に対して、高町さんは控えめな態度で睨み返した。
愛佳:盗ってません。お断りしますって言いましたよね
女子生徒:固いこと言うんじゃねーよ。何かテキトーに抜き取ってくりゃいいんだからさ。ワケマエもやるし。な?
愛佳:やりません! 今は忙しいんで! それじゃ!
高町さんは僕の服の袖を掴んで、早足で上級生のクラスの階から立ち去ろうとする。
事情がよく飲み込めないけれど、僕もそれに合わせて駆け足になった。
教室から十分に離れ、他の生徒の声も聞こえなくなった辺りで、高町さんは気まずそうに口を開いた。
愛佳:えっとですね。さっきの人達は、お兄ちゃんの持ち物を転売しようっていう人達で
巽:うわぁ。その発想はなかった。ていうか需要あるんだ……
本当に僕の理解が及ばない世界だ。
片思いしている相手の物を持っていたいと考えるだけなら、まだ分かる。
けれど他人から買うとか、ターゲットの妹に持ち物を盗ませて売りさばくとかは、想像すらしていない領域の話だ。
巽:高町さんも大変だね
愛佳:ほんとですよ。女子同士の足の引っ張り合いもひどくって。しかもその八つ当たりを私にぶつけたりする人もいるんです
巽:好きな相手の妹には、優しくした方がいいと思うんだけどなぁ
愛佳:やっぱりそう思いますよね。私からしたら、お兄ちゃんのどこがいいんだろうって思いますけど。いっつも忘れ物ばっかりで情けないですし。今日だって部活で使う道具とか忘れてて、わざわざ届けに行ったんですから
巽:あはは……本当に大変そうだね……
しばらく高町さんの愚痴を聞いてから、ひとまず彼女と別れて小夜子さんと連絡を取ることにする。
連絡手段は僕の入学前に持ち込みが解禁されたスマートフォンだ。
小夜子さんとの連絡は長話になりがちなので、文字を打つ手間の掛からない電話で済ませることになっている。
巽:――あ、小夜子さん。柊です。例の用事終わりましたよ
小夜子(通話):お疲れ様。詳細は戻ってきてから聞くとして、とりあえず要点だけ頼めるかな
一階の廊下をのんびり歩きながら、高町先輩の妹と一緒に調べた結果を簡潔に報告する。
個人的には大した成果はなかったと思ったのだけれど、小夜子さんの反応はそこそこ良好だった。
小夜子(通話):持ち物を転売する連中か。面白いね
巽:興味持つのそこですか
小夜子(通話):この前、呪いの藁人形は類感呪術に分類されると言っただろう。あれは少し説明を省いていてね。世間一般に広まった藁人形の呪術は共感呪術でもあるんだよ。私達が調べている例の藁人形もそうだ
巽:よく分からないんでもっと詳しくお願いします
小夜子さんのトークはスマホ越しでも手加減がない。
テキストでやり取りしていたら、返事の打ち込みを待っているだけで休憩時間が終わってしまいそうだ。
小夜子(通話):共感呪術とは、一度触れ合ったモノ同士は離れていても影響し合うという理屈の呪いだ。例えば髪の毛を人形に入れて呪いを掛けるとかいう話は聞いたことがあるだろう? これが共感呪術の典型例だ
巽:それも相手に知られなきゃ現実的には効果がないんですよね
小夜子(通話):多少気分が晴れる程度だろうね。共感呪術に限らず、人知れず実行する呪術はそういう傾向にあるものさ
なんて陰湿な……と思ったが、よく考えれば呪いという時点で陰湿なのだから、手段がどうだろうとあまり変わりがないのかもしれない。
小夜子(通話):ちなみに共感呪術では体の一部以外も利用される。衣服や所持品は当然として、足跡を利用する呪術すらあるそうだ
巽:所持品……そうか! 高町先輩の持ち物を買って呪いに使おうと……!
小夜子(通話):さぁ、どうだろうね。無関係だと断言はできないが、安直に関係あると断定しまうのも性急だよ
そのとき、運動部の部室の方で何やら騒動が起こっているのが目に入った。
中心にいるのは高町先輩だ。
僕は様子を見てくると小夜子さんに伝え、念のため通話は繋いだままでサッカー部の方へ駆け寄った。
巽:高町先輩。何かあったんですか?
雅紀:あ、図書委員の! どうなってんだよ、これ! くそっ! 説明してくれよ! ストーカーか? そうなんだな?
巽:わわっ! 落ち着いてください!
すっかりパニックを起こして混乱している高町先輩の代わりに、他のサッカー部員が事情を説明してくれることになった。
その前にスマートフォンをハンズフリーに切り替えておいて、説明の内容が小夜子さんにも聞こえるようにしておくことも忘れない。
どうやら高町先輩は、藁人形事件の犯人が荷物にイタズラをするんじゃないかと考えて、普段使っている場所とは別のロッカーに荷物を入れておいたそうだ。
ところが、それにも関わらず、入れ替えた先のロッカーに藁人形が入れられていたのだ。
現物も見せてもらったけど、これがなかなかえぐい有様だった。
百均で数本セットで売られているようなボールペンが何本も突き刺されていて、犯行がエスカレートしていることが一目で理解できた。
しかも事件はそれだけじゃない。
今朝、高町先輩は用心のために通学路を変えてきたのだが、その途中にも藁人形が設置されていたというのだ。
雅紀:くそっ! どっちも他の奴には教えてなかったんだぞ! どうしてこうなるんだよ!
巽:だから落ち着いてくださいって。通学路の件もロッカーの件も、本当に他の誰にも知らせてなかったんですよね?
雅紀:ああ、そうだよ! 通学路のことは家族にしか言ってないし、ロッカーは部活が始まる直前の思いつきだったんだ! なのにどうして……くそっ!
巽:今から小夜子さんに報告しますから。小夜子さんなら何か分かるかもしれません
気休めとしてそう言ったつもりだったのだけど、小夜子さんはハンズフリーのスマートフォン越しに事情を聞かされただけで、あっさりとこう言ってのけた。
小夜子(通話):ありがとう、巽君。手っ取り早く犯人の目星が付いたよ。君が適切に情報を聞き出してくれたおかげだ
雅紀:ほ、ほんとか? ほんとなんだな!?
高町先輩に肩を掴まれて思いっきり揺さぶられる。
必死なのは分かるけれど、ひとまず本気で落ち着いて欲しい。
小夜子(通話):九割確定だ。しかし残り一割の可能性も詰め切ってしまいたい。柊君、彼にこう伝えてくれ。明日の通学ルートは私が指定するコースに変えてくれ、とね
◇ ◇ ◇
更に翌日の放課後。
僕はサッカー部の練習を終えた高町先輩を連れて、小夜子さんが待つ第二図書室へ向かった。
巽:先輩、今日は機嫌いいですね
雅紀:そりゃあ、今朝は何にもなかったからな。神宮寺さんが言ってたルートで登校したら、綺麗さっぱり何にもなし! 結構遠回りだったけど、言うこと聞いて正解だったな
高町先輩は昨日と違って藁人形に悩まされなかったようだ。
その喜びに水を差すようで申し訳ないけれど、第二図書室に着く前に伝えておかなければならないことがある。
巽:高町先輩。実は藁人形は今朝もあったんです。それも、小夜子さんが指名した通学路のコース上に。先輩が登校する前……いえ、もしかしたら設置された直後に撤去されていただけなんです
雅紀:え、ちょ……何だよそれ
巽:大丈夫。詳しい説明は小夜子さんがしてくれます。ただし……
廊下の途中で立ち止まり、自分の口の前で人差し指を立てて、大きな声を出さないように促す。
巽:立ち聞きです。何があっても声を上げないでください。小夜子さんと話している相手に気付かれないようにしてください
雅紀:まさか……話の相手って、犯人なのか?
高町先輩の顔がこわばる。
僕はその質問には答えずに、事前の打ち合わせ通り、第二図書室の廊下に面した方の扉を静かに開いた。
第二図書室に入る方法は、隣の第一図書室から内扉を通ることだけだ。
廊下に面した本来の扉は本棚で塞がれている。
しかし、その本棚はメタルラックに近いタイプで、本と背板の隙間から向こうを見ることができる構造になっていた。
僕達はその隙間を利用して、廊下から第二図書室の中の様子をこっそりと覗き込んだ。
事務机にはいつものように小夜子さんが座っている。そして僕達に背を向ける位置取りで、女子生徒が一人。
高町先輩が驚きの声を飲み込む気配がした。当然のリアクションだ。
何故ならその女子生徒は、高町先輩の妹の高町愛佳だったからだ。
愛佳:あの、神宮寺先輩。用事って何でしょうか
小夜子:単刀直入に言うとだね、君に掛かっている呪いを解こうと思うんだ
愛佳:呪い……? あ! もしかして、あの藁人形のターゲットって、お兄ちゃんじゃなくて私だったとか……!
小夜子:いいや。あれは間違いなく高町雅紀を標的にしたものだよ。そして呪いを掛けたのは……君だ。そうだろう、高町愛佳君
突き刺すような沈黙。
高町さんは上ずった声で小夜子さんに食って掛かった。
愛佳:待って下さい! どうして私がお兄ちゃんを呪わないといけないんですか!
小夜子:もちろん根拠ならある。動かぬ証拠が、ね
小夜子さんの視線、口調、態度。
それらの全てが有無を言わさない圧力を放っている。
この場の主導権は完全に小夜子さんのものだった。
小夜子:順番に説明しよう。一昨日以前の十数件を含め、全ての藁人形には彼の毛髪や私物の一部とみられるものが入れられていた。これは高町君本人には伝えていなかった情報だ。知られてしまうと呪いが効果を発揮しかねないからね
あのとき小夜子さんは、例の藁人形が呪いとして不十分だと言っていた。
しかしそれは高町先輩に呪いのプラセボ効果を起こさせないため、意図的に情報の一部を伏せた発言だったのだ。
小夜子:頭髪を仕込むのは、藁人形を使った呪い(のろい)や呪い(まじない)の典型だ。しかし同じ家で暮らす肉親の君なら、調達は極めて容易だったに違いない
高町先輩の持ち物を売りさばこうという、一部の女子生徒のとんでもない計画を聞いたとき、実は小夜子さんは、それを計画した生徒の方にはあまり関心を向けていなかった。
小夜子さんが強い関心を抱いたのは、例の生徒達が調達手段として目をつけた生徒――つまり高町愛佳の方だったのだ。
小夜子:次に、昨日の一連の出来事だ。誰にも告げずに進学路を変えたはずなのに、その変更後の通学路に藁人形が設置されていた件。部活時間にロッカーを他の部員と入れ替えておいたのに、何故かすり替え先のロッカーに藁人形が放り込まれていた件だ
高町先輩を怯えさせたあの不可解な出来事も、小夜子さんは電話越しに事情を聞いただけで謎を解き明かしてしまっていた。
僕は事前にその説明を聞かされていたのだけれど、言われてみれば確かにそうだと納得してしまう理屈だった。
小夜子:通学路の件は単純明快。他の誰も知らないという前提が誤りだった。こういう場合に家族を含めて考えないのは、決して不自然なことではないだろうからね
愛佳:……っ
小夜子:そしてサッカー部のロッカーに入れられていた藁人形。こちらはもっと簡単だ。その日、君はお兄さんに忘れ物を届けたそうだけど、一体どんな風に届けたのかな? 手渡しで? あるいは他の部員に預けたとか?
言葉に詰まる高町愛佳。それでも小夜子さんの追及は止まらない。
小夜子:不審な人物が部室の周りにいなかったかと尋ねても、君の名前はまず間違いなく挙がってこないだろう。君が忘れ物を携えて部室を訪れるのは、ごく日常的な光景だったのだからね
愛佳:……それは……
小夜子:本来のロッカーに荷物がないことに気付いて、片っ端から開けて探しているところを目撃されたとしても、言い訳はとても簡単だ。忘れ物を入れるべき兄のロッカーが見当たらないと説明すればそれで済む
空きロッカーに荷物を入れ替えるという高町先輩の作戦には欠陥があった。
高町先輩の荷物を見分けられる人が相手なら、全てのロッカーを開けて中をチェックされるだけでバレてしまうのだ。
小夜子:そうして君は、忘れ物と一緒に藁人形を仕込んだ。あるいは、その日は忘れ物なんてなかったのかな?
小夜子さんが犯人に当たりを付けたのは、昨日のこと。
あの日、僕は高町先輩にアプローチを掛けていた女子を訪ねて回ったが、大した情報を得ることはできなかった。
しかしそれは無駄に終わったわけじゃない。
小夜子さんは僕の調査結果を聞いて、高町先輩が名前を挙げていた女子達の犯行ではなさそうだと考えたのだ。
そこに通学路とロッカーの藁人形の件が発覚。
小夜子さんはこれらの情報を統合し、高町先輩の身内が実行犯だろうと推測するに至ったのだった。
愛佳:違います! 全部想像じゃないですか! 証拠になりません!
小夜子:当然だ。証拠の提示はこれからだよ
小夜子さんは事務机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
僕も事前にあの写真を見せてもらっている。
あれこそが、高町愛佳が藁人形事件の犯人であると証明する動かぬ証拠。
小夜子:君が月夜見神社の柵に藁人形を結びつけている姿、監視カメラにしっかりと映り込んでいたよ
愛佳:――――っ!
高町愛佳が写真をもぎとって小刻みに肩を震わせる。
愛佳:ど、どうして……どうして神宮寺さんがこんな……
小夜子:君が知らないのも無理はない。巽君に教えたのもついこの間のことだからね。月夜見神社は私の実家だ。第二図書室の主みたいな比喩表現じゃない。文字通り、その敷地内の家で寝起きして暮らしているのさ
僕も初めてそれを聞いたときには驚いた。
神社の敷地に人が住んでいるというイメージが、どうしても頭に浮かんで来なかったのだ。
小夜子:言っておくが、この監視カメラは今回のために設置したものじゃない。夜の神社に忍び込む不届き者は、いつの時代も後を絶たないものだ
愛佳:ま、まさか、お兄ちゃんが今日も通学路を変えたのって……
小夜子:もちろん私の提案だ。前回と同様、家族には伝えておくようにと言い含めてね
犯人に当たりを付けたとはいえ、あの時点だと物的な証拠は何もない。
そこで昨日、小夜子さんは高町先輩に再度の通学路の変更を要請した。
今回のルートは小夜子さんの自宅がある月夜見神社の前を通過するコースであり、高町愛佳はそれと知らずに、小夜子さんの思惑通りに藁人形を設置してしまったのだ。
小夜子:うちの神社は見た目からして雰囲気があるからね。数日中には網にかかるだろうと思っていたけれど、初日に成功したのは少し以外だったかな
高町愛佳は押し黙り、そして。
愛佳:……そうですよ。私がやったんです。だからどうしたっていうんですか!
叫びのような声が第二図書室に響き渡る。
その声は当然第一図書室にも聞こえ、壁の向こうが何事かと騒がしくなったが、小夜子さんは相変わらずの涼しい態度を崩さなかった。
誰かがこちら側に乱入してこないのは、第二図書室の方から内鍵を掛けてあるからだ。
それでも高町先輩が騒いでしまうんじゃないかと冷や汗ものだったが、先輩は声を出すのも物音を立てるのもちゃんと堪えていてくれていた。
愛佳:お兄ちゃんのせいで私も苦労してるんだって愚痴ったとき、あいつなんて言ったと思います? お前はモテないから良いよなって言ったんですよ! 私、怒っていいですよね! 仕返ししてもいいですよね! 違いますか!
小夜子:……まいったな。呪いは二つあったのか
小夜子さんは小さくため息をつき、高町愛佳の顔をまっすぐ見据えた。
小夜子:一つ目は藁人形の呪いだ。丑の刻参りの原型の一つは『宇治の橋姫』だと言われている。橋姫は自分を捨てた恋人に復讐するために、奇怪な格好で貴船大明神に祈願し続けたわけだが……彼女が願ったのは恋人に罰を下すことじゃない。恋人を奪った女を殺したいから鬼にしてくれと願ったんだ
昨日、僕は小夜子さんに言われて宇治の橋姫について書かれた本に目を通した。
橋姫の呪術は他人を呪うためのものではなく、神に祈願して己を鬼へと作り変える、いわば自己改造の儀式だった。
物語の中では肉体そのものが怪物と化してしまった橋姫。
もしもそれが実話だったとしたら、怪物に成り果てたのは心の方だったに違いない。
自分自身でもおぞましいと感じるような格好で、連日連夜憎悪を滾らせて儀式を繰り返していれば、精神に歪みが生じたっておかしくはないだろう。
小夜子:結局、橋姫は憎い女や恋人の身内を殺すことに罪悪感を覚えなくなった。儀式を通じて人格が歪んでしまったんだ。歪んだ形で恨みを表現すれば良心まで歪んでしまう。ほら、君が作った藁人形だ。最初の一体はまだ可愛げのある作りだったのに、うちの神社に置いていったものは、こんなにも――
小夜子さんは足元に置いた鞄からその現物を取り出した。
それを見た瞬間、僕の背中に強烈な寒気が走った。
藁人形の胴体を何本もの金属棒が貫通し、太い縄が人形の首をぎっちりと締め上げている。
まるで悪意がそのまま形になったかのような姿だった。
これまでに発見された藁人形は、新しくなるほどに作りが本格的になり、演出もエスカレートし続けていた。
悪い意味で遠慮がなくなり、良心のブレーキが効かなくなっていったのだ。
小夜子:人を呪わば穴二つ。呪いなんて手段を続けていれば、君自身の心までもが悪影響を受けてしまう。自己暗示というのは明確に意識していなくても起きるものなんだ。現にほら、今の君の顔、まるで鬼のようになっているじゃないか
高橋さんがハッと口元を抑える。
ここからだと高橋さんの顔はよく見えないけれど、小夜子さんがあそこまで言うのなら、きっと文字通りの鬼の形相になっていたのだろう。
小夜子:引き返すなら今のうちだ。君は自分自身までも呪っている。心が鬼になってしまえば、藁人形で脅しをかける程度では済まなくなるかもしれないよ
愛佳:でも……あんなこと言われて……
小夜子:それが君に掛けられたもう一つの呪いだ。こっちは本当に予想外だった。人格や容姿を否定する言葉は、それだけで根深い呪詛になる。まったく、妹とはいえ女子に向かってこんな呪詛を無自覚に吐くなんて。この呪いを解く方法は一つしかないね
小夜子さんが僕に目配せをする。
たったそれだけで、僕は小夜子さんが何を伝えたいのか分かってしまった。
巽:先輩。妹さんに謝りにいきましょう
雅紀:うん……そんなつもりじゃなかった、なんて言い訳にもならないよな。迷惑かけた人達にも、一緒に頭下げて謝らないと……元をたどれば俺のせいなんだし
高町先輩はすっかりうなだれて落ち込んでいた。
これまでの騒動の原因が、全て自分の不用意な発言にあったと分かってショックを受けているようだ。
それでも自分のせいじゃないと開き直ったりせずに、ちゃんと責任を受け入れることができるあたり、この人が大勢から好かれている理由が分かる気がした。
ドアの前を離れようとしたところで、第二図書室の中の小夜子さんと目があった。
淡い春の日差しを背負った小夜子さんは、僕の視線に気がつくと、綺麗な顔に優しい微笑みを浮かべた。
情けないことに、僕はたったそれだけで心臓が止まりそうになってしまって、逃げるように図書室へ駆け込んだのだった。
◇ ◇ ◇
藁人形事件が解決したその日の放課後。
僕はいつものように第二図書室で図書委員の仕事をしながら、いつものように出所不明の事務机を占拠した小夜子さんに、何気ない質問を投げかけてみた。
巽:小夜子さん。そういえば、今回はやたら積極的に事件を解決しようとしてましたね。いつもは解決してくれって依頼されないと、わざわざ首を突っ込まないイメージがあったんですけど
小夜子:私だって、好奇心が湧けば依頼がなくても動くことはあるよ。特に今回は、放っておいたら不幸になる人が出ると分かり切っていたからね
そう語る小夜子さんの横顔は、どこか寂しそうに微笑んでいた。
巽:いわゆるオカルティズムは諸刃の刃なのさ。例えば恋占いのように、理屈だけでは落ち着かない気持ちを満足させる役にも立つ。けれど一歩間違えば、人を破滅させることだってある。愛好者の一人として、そういう不幸を防ぎたいのは自然な発想だろう?
小夜子さんは、叔父である神主のところに居候していると言っていた。
話を聞いたときには疑問に思わなかったが、どうして両親から離れて暮らしているのだろう。
まさか、小夜子さんの家庭もオカルト絡みの理由で――
思わず不謹慎なことを考えそうになってしまい、すぐに頭から振り払う。
巽:……ところで、橋姫って確か元恋人の男には手を出さなかったんですよね。それってどうしてなんでしょう。一番恨みがある相手だと思うんですけど
何でもいいから話題を変えようと思い、橋姫の話を調べたときに浮かんだ疑問をそのまま口にする。
僕が読んだ本の記述では、恋人が自分の代わりに選んだ女性も、恋人の親類縁者も、果ては無関係な人達も殺し続けたというのに、恋人を殺したとは記されていなかった。
小夜子:呪いによって報復を果たそうとする人間の心理なんて、さすがに想像することしかできないけれど……察するに、あえて生かしておいて長く苦しめたかったんだろう。どんなに憎い相手でも、殺してしまえばそれまでだからね
小夜子さんは古い本から目を離さずに答えた。
僕はその横顔をさり気なく眺めながら、心の中で違う感想を思い浮かべていた。
きっと橋姫は恋心を捨てきれなくて、復讐心がそれに負けてしまったんだ。
だとしたら、僕にも少しだけ橋姫の気持ちが分かる。
誰かを好きになるという気持ちは本当に強力だ。
裏返ってしまえば人間を止める理由になるほどに。
僕の場合はそこまで大袈裟じゃないけれど、そういう気持ちに背中を押されていることに変わりはない。
だから僕は小夜子さんの助手の真似事を続けている。
好きになってしまった人と、少しでも長く一緒にいられるから。