りんごあめ
りんごあめ
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ディスプレイを眺めながら画像と文字のバランスを整えた。いまいちデザインにしっくりと合わなくて、フォントを変えてみた。そのまま何回か入れかえて眺め続けていると、どれでもいいような気になってくる。
僕は目の上に違和感を感じて睫毛をひっぱった。一本の睫毛を指の中に見てから、ゆっくりとそれを灰皿の中に捨てた。
頭の中を整理するために、僕は目を瞑って机の上のコーヒーをひとくち飲んだ。さっき煎れたばかりのように思っていたけれど、そのこげ茶色の液体は思ったよりもはるかにつめたくて、僕の口の中に酸味を残していった。
ほぼ黒……、ブルーは完全に抑えて、グリーンをすこし、レッドをもうすこし発色させて組み合わせたらこの色が出せそうだ。しいたけの色も近いだろう。もうちょっと強くするのか。
ディスプレイに視線を戻した。冷めてしまったコーヒーをもうひとくち口に含もうとしたところで、ピロロロロ、と電話が鳴って、僕はあいた方の手で電話をとった。ちいさなオフィスはきゅうくつだけれど、なんでも手の届く範囲にある、ということはいいことなのかもしれない。
「はい、エスエイチ企画、タチ……」
バナです、と言い切る前に電話の向こうの人が早口でしゃべり始めた。
「あっ橘くん、橘くんだよね。きょうの夜またうちの方でお祭りあるのよね。よかったら一緒に食事しましょうよ」
このひとはいつも唐突にこういうことを言う。それよりもまず、一般的な電話での話し方の手順というものがあるだろう。それでも頭に来ることがないのは人徳なのだろうか、それとも僕の性格がちゃらんぽらんなせいだからなのだろうか。
「あのですね、照美さん。もし、いま電話に出ているのが僕じゃなかったらどうする気なんですか」
「え? だって、いま私が話してるの、橘くんでしょ。だったらいいじゃない」
会社に電話をかけている、といったことは、どうやらどうでも良いようだ。「それでね、董子が八時半に塾終わるから、来るときひろってきてもらえないかなあ」
僕が、行く、とも言わないうちから話がすすんでいる。場所の確認をして、わかりました、と言うと、じゃあ、よろしく、と言って電話は切れた。ディスプレイの上に置いた時計を見てから受話器を置くと、僕はつめたくなってしまったコーヒーを一気に飲んだ。
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僕が塾の前で、お疲れさま、と声をかけると、董子ちゃんはとても驚いた顔をした。
「お疲れさま」
僕はもういちど言って董子ちゃんに笑いかけた。董子ちゃんと一緒にいた友達は、お迎えなんだ、じゃあね、と言ってから僕にかるく頭を下げると、閉店のシャッターを閉めたり、店の外に並べていた商品を片付けたりしている商店街の方に歩いていった。
「晴彦くん……」
うまく言葉が出なくて、なんとかしぼりだしたような声で董子ちゃんが言った。
「こんばんは。照美さんから聞いてる?」
董子ちゃんは、ますます訳がわからない、というような顔をして首を振った。
「あちゃ、ぜんぜん聞いてなさそうだよなあ……。えーと、去年さあ、この時期に一緒に食事したの、覚えてない?」
「……お祭り」
「そう、それでね」
どう話そうか、僕は照美さんの電話の内容を思い出して苦笑いした。じっと僕を見ている董子ちゃんの、困っているような中で笑っている表情が、すこし実夏と似ている感じがした。
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僕は昔、董子ちゃんの姉とつきあっていたことがある。
三年前、中学校に教育実習に行ったとき、一クラスに二人の実習生という配分で学校側に振りわけられて、僕は音楽科の女の子と一緒に担任を持つことになった。
彼女のきちんと切り揃えられた髪の毛は、芸術系というよりも体育会系のそれを連想させ、しっかりとしたそのもの言いは、英語科のものを連想させた。そして、彼女の首には、なぜか左側にだけに痣ができていた。
彼女は、とくべつ美人というわけではなかったし、他の音楽科の実習生のように華やかな服装をしているわけではなかったけれど、全く気どらずにまっすぐに生徒と接していたので受けはなかなかよいようだった。
そうして、四週間の実習をやり終えて帰りの会が終わると、クラスの生徒たちが主宰になって僕たちのお別れ会を開いてくれた。僕たちは生徒と一緒に、普段教室では食べられないお菓子を食べたり、トランプをしたり、みんなで写真を撮ったりした。
お別れ会が終わりに近づいてきたころ、彼女はバイオリンを持って教卓の前にすすみ出ると、みなさん、今日までありがとうございました、とひとこと言ってお辞儀をしてから、バイオリンを顎に挟んだ。彼女の痣は、ちょうどバイオリンに隠れる大きさだった。
彼女の演奏は、普段の彼女からは考えられないほど、彼女自身を綺麗に見せていた。
生徒たちが下校したあと、僕たちはふたり、教室でいろんな話をした。彼女――実夏は、もの心ついたときから、私はずっとバイオリンを弾いてきた、と言った。中学生のときには外国のコンクールにまで出たことがある、でもそれで、余計に夢が大きくなって、大学でもバイオリンを専攻して、二年間留学もしたけどもう駄目、と言った。あんなにうまいのに? と僕が訊くと、技術とかセンスの問題じゃないの、と彼女は言った。そういうことじゃなくて、お金なんだ、と。
音楽を続けていく上で、お金がどれだけ必要かということを、実夏はぽつぽつと話した。自分の家庭には既に父親がいないことと、これからまだ、どれだけ学費のかかるかわからない歳の離れた妹もいる、ということだった。
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呼ばれた時間までまだすこしあったので、僕たちは遠回りをして指定の場所に向かった。お祭りをやっている神社からちょっと歩いたところにある料亭。
車に乗ってから、董子ちゃんと会ったのがちょうど一年ぶりだったのに気づいた。
「突然でびっくりした」
董子ちゃんはそう言いながら、落ち着かなそうに助手席に座ってシートベルトをしめた。いや、僕も突然聞いたんだけどね、僕は車を発進させながらそう言ってつづけた。
「でも、照美さん、っていつもそんな感じだからなあ、仕事のときも」
「お母さんと仕事やってるの?」
董子ちゃんはすこし驚いたように言った。
「うん。知らなかった?」
「知らない。何の仕事なの」
「照美さんの会社のパンフレット作ったりとか、ウェブ、あ、ホームページのことね、それの作成とか、名刺のデザインとか、そんな仕事」
董子ちゃんはいまいちよくわからない、といった顔をしていたので、僕は運転しながらつづけた。「雑用もやるデザイナーみたいなもんだよ」
「あたしも、仕事、してみたいな」
董子ちゃんはゆっくりとそう言った。
「うーん、学生やれるときはやっといた方がいいと思うけどなあ。学生やってたころの方が、日々にドラマがあったし」
僕が言ったその言葉に、董子ちゃんはすこし不満そうだった。
去年のお祭りのとき、やっぱり僕はこの家族と一緒に、ここで食事をしていた。
歳をとるにつれて、自分の中の一年という感覚が薄まっている、という事実が、切実に僕の前に迫ってきている。
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僕と董子ちゃんと照美さんは、一緒に遅い夕食をとった。お祭りの空気が窓の外から座敷の中にしみこんできていた。
食事の途中に実夏から照美さんに電話が入って、来れなくなった旨を伝えたようだった。
「まったく。あの子はいつもこうなのよ。家族に対して冷たいのよね」
電話を受けた照美さんは、憤るように言い捨てた。
「そうなの?」
僕は笑って隣の董子ちゃんに訊いた。董子ちゃんは肩まである髪をひとつにまとめている。まだ実夏とつきあっていたころも、董子ちゃんは食事のときだけ髪を結ぶようにしていたことを思い出した。
「お母さんがいつも急なの」
そう言ってから、董子ちゃんは緑色の豆を箸に挟んだ。そのままゆっくりと目を閉じると、「お姉ちゃんも自分のペースすぎるけど」と言ってその豆を食べた。董子ちゃんの口調は会わないあいだにずいぶん大人びていて、僕はすこし感心した。
「なにが急なのよ。毎年このお祭りのときはここで食事してるじゃない」
照美さんは煮物をつつきながら言い返す。
僕は照美さんにお酒をつぎながら訊く。
「そういえば、どうしてお祭りの日なんですか。クリスマスなんかだと、こういうの、よくありそうですけど」
その言葉を聞いた照美さんは箸をとめて、僕の顔をじっと見ていた。外から、ひゅるりるららる、ひゅるりるる、という音がうすく聞こえている。照美さんの言葉がいつまでも続かないので、僕は思わず、あれっ、という顔になってみつめ返していた。
すこしの間があって、僕たちはまた三人とも、静かに箸を動かしていた。僕が最後の煮物を口に入れたときに、照美さんが話し始めた。
「聖と会ったとき、私は失業しててね」
照美さんはいつもよりもあきらかにゆっくりとしたペースでしゃべり始めた。「気晴らしに、昼間プールに行ってたの」
僕も董子ちゃんも食べながら静かに聞き入っていた。お祭りの音が遠くに聞こえていた。「ほぼ毎日泳いでたんだけど、あのとき、泳いでる途中で発作が出たの。急に胸が痛くなって。プールの真ん中でそれでしょ、あのときは本当におぼれるかと思ったわよ。それで、そのとき後ろを泳いでいた聖が私のことをプールサイドまで運んでくれて。プールの監視員と話をして、車で来てるからって言って病院まで連れていってくれたの。病院では狭心症かもしれない、って言われてニトロをもらったところでやっと落ち着いてきて、そこで聖の名前を聞いて、何かお礼をさせてほしい、って私は言ったのね。そしたら彼、困ってたんだけど、一緒に今夜のお祭りに行ってくれ、って言ったのよ。私も、何か変だなあ、と思ったけど……だってお祭りよ? まあとにかく、変なの、って思いながら一緒に一通り歩いて神社にお参りしたあとに、いい店があるから食事しよう、って言われてついていったの。なかなか大きい店だったけど、すんなり受付から座敷に通されたから、予約でもしてたのかなあ、と思って後ろからひょこひょこついていったのね。そしたら、妙に着飾った子とその両親みたいな人が並んでて、反対側には私の親くらいの歳の人が座ってて、そこで言うの。申し訳ありませんが、僕はこの人とおつきあいしているので、当面のあいだ結婚は考えられません、って」
照美さんはそこでひといきつくと、お酒をくっ、と飲んだ。
僕が無意識に冷酒をつごうとしたのを手で制して続けた。
「今の世代だったら、ドラマでそういうシチュエーション見てるだろうから、ああ、このひとは見合いを破談にしたいのね、ってすぐにわかるだろうけれど、二十年以上も昔なのよ。その言葉の意味がぱっと理解できなくて、自分に言われたのかと思って、あたりまえじゃない、今日会ったばかりのひとと結婚なんて考えてないわよ、って思ってたわ」
「それで、どうしたんです」
食事の終わった僕は、余っていたお酒を口につけて訊いた。
「結局お見合いは破談。そのあと今度こそ一緒に食事をして、私が、すごいことをするんですね、って言ったら聖は、ここ三年、風水なのかわからないけど、お祭りのときになるとなぜか見合いをさせられてうんざりしてるんだ、って言ったの。それじゃあまたお祭りがあったら私を食事に呼んで下さいね、って私は言って、それからよ、お祭りのときにこの店に来るようになったの」
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酔いをさましてから帰りなさいね、と言われて僕は董子ちゃんとふたり、お祭りも終わりに近くなってきた神社に向かって歩いていた。車の中ではまったく感じなかったけれど、十四歳の董子ちゃんは、僕の知っている董子ちゃんよりもずっと女ぽくなっているようだった。僕はそれが、自分が酔っているせいかと思った。
「ねえ、まだ酔ってるかなあ」
董子ちゃんは、立ち止まって僕の顔をのぞきこむようにして見ると、
「わかんない。顔は赤くないよ」
と言ってからまた隣に来て、僕と一緒に歩き出した。
董子ちゃんが、りんごあめが欲しい、と言うので、僕たちはずらずらと連なる屋台のひとつに入った。その屋台では、古くさいラジカセから「林檎殺人事件」が大音量で流れていて、ふざけた選曲だなあ、と僕は思わず笑ってまわりを見わたした。ところどころの屋台の上に取りつけられているスピーカーから、お祭りの笛の音がエンドレスで流れていた。お祭りも、こんなもんなのかな、と思いながら、僕は赤や黄色やオレンジのビニールシートの立ち並ぶ通りを眺めていた。照美さんの話が頭に浮かんでそのころのことを考えてみたけれど、うまく想像できなかった。自分の産まれていた二十年前のお祭りを思い出そうとしたけれど、四歳の僕は、水あめや綿菓子、普段食べ慣れないものを手に入れるのに夢中で、まわりがどんな感じだったかなんて、ぜんぜん覚えていなかった。
「晴彦くん、どっち?」
董子ちゃんが、あかとみどりのどっちも毒々しい色をまとっているりんごあめを両手に持って、目の前で笑っていた。
「赤」
董子ちゃんは、はい、おつり、と言って百円玉と一緒に、赤いほうのりんごあめを僕に差し出した。レッドはいちばん強く発色させて、ブルーとグリーンも少しずつ発色させたような感じの色。僕は、色、つきそうだね、と笑って受け取った。
りんごあめを食べながら、僕たちは神社の境内に入っていった。外側のあめはとても甘くて、そのぶん林檎がすっぱかった。そういえば、四歳のころは歯のつめものがとれてしまうからといって、りんごあめは買ってもらえなかった。
僕の舌を見た董子ちゃんは、すごく真っ赤だよ、と言った。董子ちゃんの舌も緑色になっていたので、僕は、きれいに染まってるよ、と言った。
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「ねえ、晴彦くん、今日お姉ちゃんと会いたかった?」
董子ちゃんに連れられて、神社の裏手でふたり、座っていた。
ちいさいときはこの神社が遊び場だったの、あたしこの場所が好きだったんだ、あ、こっちこっち、ここ、静かで落ち着いてて、よくここでお菓子とか食べてたな、と言って。僕は、ぴょんぴょんと進んでいく董子ちゃんの後ろをゆっくり歩いてついていった。
すこし裏手に入っただけで、騒がしいお祭りの音はほとんど聞こえなくなって、董子ちゃんの声がくっきり聞こえた。
僕は、実夏のことを思い出して、うん、と言った。
「ずっと会ってないしね。会いたかったな」
つきあわなくなってから、実夏とはもうずっと会っていなかった。いま、何をしているのか、仕事はうまくいっているのか、首にあるバイオリンだこはまだついているのか。
すぐに董子ちゃんの声が続いた。
「お姉ちゃんのこと、まだ好き?」
会わなくなってからも、ずっと好きだと思っていた。もう一年も会っていないし、連絡もとっていない。それなのに、気にも留めていなくて、平気な自分もいる。どうなんだろう。僕が黙っていると、
「考えこまないでよ……。そんなに」
うつむいた董子ちゃんの声はすこし聞きとりにくかった。解いた髪の毛が頬にかかっていて、董子ちゃんを隠していた。
「董子ちゃん?」
顔をあげた董子ちゃんは、とてもかなしそうな目をしていた。目があうと、董子ちゃんの目から涙がぶわっとあふれてきた。
「晴彦くんっ」
董子ちゃんは、ばっ、と僕に抱きついて、ますます激しく泣いた。僕はただ、董子ちゃんの頭を抱えて、髪を撫で続けていた。いろいろな女の人とつきあってきたけれど、ちっとも自分は女のひとの心をわかるようになっていないんだ、と思った。
董子ちゃんの涙はシャツにしみて、暖かかった。
「董子ちゃん」
僕がもういちど呼ぶと、董子ちゃんは真っ赤な目を僕にむけた。
そのとき、僕の腕の中で董子ちゃんの体が硬くなるのがわかった。
「……甘い」
僕がそう言うと、董子ちゃんは真っ赤な目のまま、笑った。とてもしあわせそうに。
僕たちが初めてしたキスは、あかとみどりのりんごあめのせいで、とても甘くておいしかった。