満州是誰的国家?
愛新覚羅溥儀は清朝最後の皇帝である。
1908年に第十二代清朝皇帝として即位した。
同じ年、清朝を牛耳っていた女傑・西太后が死亡する。
西太后の統治は功罪の内、罪の方が大きいかもしれない。
日清戦争に敗れ、国の近代化が急務と知った光緒帝(西太后の妹の子)を失脚させ、幽閉した。
その日清戦争時、彼女は光緒帝即位に伴って隠棲していたが、彼女の為の予算が割かれ、その為に清国海軍の戦艦の砲弾は不足していたという。
光緒帝失脚と共に政権に返り咲いた西太后だが、1900年に起きた義和団事件を処理出来なかった。
「扶清滅洋」つまり「清を助けて、西洋を滅する」というスローガンのこの集団の決起において、優勢だった時に西太后政権は西洋列強(日本含む)に宣戦布告をした。
しかし義和団に襲われた西洋列強の軍、八ヶ国連合軍が逆襲に転じ北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びる。
そして義和団を暴徒として見捨て、西洋列強と和議を結んだ。
義和団に参じた漢民族は、「清はやはり我々の味方ではない」と離反する。
西太后は、かつて保守派の神輿となって潰した光緒帝の洋務運動を、今更ながら自身の手で始めたが、時間は彼女にも清朝にも残されていなかった。
その西太后によって、光緒帝の異母弟の子である溥儀が即位させられる。
わずか2歳の皇帝が、土台から崩れ始めた帝国をどうにかする事は出来なかった。
1912年、溥儀は袁世凱によって6歳で溥儀は退位させられる。
1911年に辛亥革命を起こした孫文は、清朝の内閣総理大臣・袁世凱に皇帝退位を依頼した。
袁世凱が大総統となる事が、中国における「ワシントン」「ナポレオン」を作るとして、この方が良いという判断からだった。
袁世凱は、清朝皇族の優遇を約束する事で、母后である隆裕太后が溥儀に代わって退位を判断する。
この時、イギリスは日本を差し置いて第一次満蒙独立運動に加担する。
昨今の陸軍主流派は、この件もあってイギリスと組んだ満州政策に反発している。
中華民国となって後も、溥儀は皇族優待政策によって紫禁城に住み続けた。
清国の将軍・張勲は清朝滅亡後も復活を目指して戦い続けていた。
袁世凱の独裁政権に嫌気が差した孫文が第二次革命を起こすと、張勲は袁世凱と組んでこれを鎮圧。
雲南軍閥が打倒袁世凱で蜂起した第三次革命でも、張勲は袁世凱と組んでこれを撃破し、安徽省に2万の兵を公式に率いて駐屯した。
袁世凱は日本による対華二十一箇条要求を呑んだ事で権威が失墜、1916年に没する。
1917年、袁世凱の北洋軍閥が分裂し、内戦状態に入る。
一方の勢力である黎元洪は、劣勢を補う為、張勲の北京入城を要請する。
張勲は軍を発し、天津で黎元洪の内閣を解散、そして清朝を復活させる。
溥儀はこの張勲復辟によって溥儀は再度皇帝となる。
溥儀はこの時も、まだ11歳でしかなかった。
だが、この清朝復活は中国人の望むところでは無かった。
張勲を引き入れた黎元洪は日本大使館に逃れる。
その黎元洪と対立した一方の軍閥・段祺瑞は日本の支援も得て、5万の兵を率いて「打倒張勲」の兵を挙げる。
張勲は破れてオランダ大使館に逃げ込み、清朝復活は12日間だけであった。
溥儀は2度目の退位をする。
こうして勝った段祺瑞は、張勲を支援したドイツに対し宣戦布告をする。
欧州大戦に対しての中華民国の参戦である。
一方で南方では孫文が再度革命の為に蜂起する。
段祺瑞は満州の軍閥・張作霖と手を組む。
段祺瑞は一連の戦闘の功労者を自分の贔屓の者とし、反発を買う。
さらに戦勝国としてベルサイユ講和条約に参加するも、直後に袁世凱が呑まされた「対華二十一箇条要求」廃止と対日交渉見直しを求めた「五四運動」が起こる。
段祺瑞の派閥は日本から多くの支援を受けていた。
しかし国民は反発する。
政府を段祺瑞の派閥で固めていた事で、彼の軍閥・安徽派は世間から非難される。
この情勢に、奉天派の張作霖が裏切り、段祺瑞は政権を追われる。
こうして南方の孫文軍と、北方の軍閥との戦いが始まる。
北方の軍閥同士が北京の覇権をかけて争い、南京政府の孫文といずれかが手を組む構図だ。
この内戦の中、溥儀はついに皇帝の称号、皇族の優待条件、紫禁城の居住権を剥奪される。
この時ですら溥儀はまだ18歳でしかなかった。
溥儀は天津の日本軍によって庇護される。
溥儀が天津に逃れた1年後の1926年、孫文が死亡し、蒋介石が後を継ぐ。
翌1927年に蒋介石の北伐は南京事件により一時頓挫、共産主義者が追放される。
1928年に蒋介石は再度北伐の軍を起こし、北京にいた奉天派軍閥の張作霖が北京を開城し、本拠地に戻ろうとするも、日本軍によって爆殺される。
張作霖の子・張学良が蒋介石に下り、満州一帯も蒋介石の手に落ちて北伐は完了した。
その翌年の1929年、南京政府軍が北上した隙に力を持った新広西派軍閥が蒋介石に挑戦する蒋桂戦争が起こる。
1930年には蒋介石・張学良対残りの北方軍閥の中原大戦が起こる。
この後に満州事変が起こり、
日本は「かの地の不統一の現状」と言い、
イギリスは「中国にしっかりした政府の管理運営の実態はない」と述べた。
軍閥の時代である。
ある意味、日本は遼東半島と天津、そして以前は山東半島を拠点とする軍閥の1つと言えた。
中央の政変には、高い頻度で日本が関わっている。
そしてアメリカもイギリスも軍閥と言えたかもしれない。
アメリカという軍閥は、山東半島という根拠地から追い払われた。
イギリスという軍閥の根拠地は香港だから、北方に目が向いている今は先送り案件となっている。
日本という軍閥は、26歳になった溥儀を頭目として、新たに満州軍閥を立ち上げた。
蒋介石にとって、天津も遼東半島も満州も、いずれ奪い返すべき領土となった。
長々軍閥の説明となったが、要は「満州の軍閥は日本が作ったものだが、ここに米英が入るかどうか」で蒋介石の今後の戦略は大きく変わって来る。
一方の当事者日本は、中国大陸における一個の軍閥となったという意識に乏しく、分裂状態の支配者無き土地を軍略で勝ち取った、だからここは自領だという意識しか無い。
その為、執政溥儀や立役者の石原莞爾を無視し、自分の物として扱い始めた。
石原莞爾はこの地に「王道楽土」「五族協和」の地を築く理想を持っていた。
英米のユダヤ資本は、ここに東方エルサレムを作る夢を持っていた。
それらは大多数の日本陸軍の前に、劣勢となっている。
その実態が知られるに従い、イギリスやアメリカの対満州政策は日本に対し冷淡になっていく。
知米派で陰謀に加担した海軍軍人の立場も弱くなっていった。
蒋介石は、夫人を通じた世論工作を強め、数年で日本は「混乱している満州を制圧しただけ」から「中国の正当な政府から領土を奪った悪者」に変わろうとしている。
「世界戦略派」と「日本単独支配派」以外に「清皇族」というファクターはどう出るか?
朝田は松尾特務中尉を通じてここを調べさせている。
だが、愛新覚羅一族は皇族であり、中々入り込む隙も無い。
そこで伊達順之助という、愛新覚羅一族と繋がりのある無頼を手掛かりに、松尾特務中尉は愛新覚羅一族に食い込む事に成功する。
これまで他人によって人生を左右されて来た執政、最近即位して皇帝となった溥儀は、日本の傀儡たるを良しとしていなかった。
あくまでも日本と対等な国家である事を望んでいる。
愛新覚羅一族は身内同士の結束が固い。
溥儀を守る為に一族で行動していた。
満州国とは「中華民国の一部」か?
「日本の傀儡国家」か?
「五族協和」と東方エルサレムの合体した「東洋のアメリカ合衆国」か?
愛新覚羅一族が率いる「満州族の独立国家」か?
朝田は国際戦略派であり、ここの立場は最近では海軍内でも弱くなって来ている。
自分の去就はどうなっても良い。
不要となったなら、予備役だろうが退役だろうが構わない。
……そう思っていた筈だったが、最近はどうも違う。
ただ利用されて終わり、何も成し得なかったまま会津に帰るという道が、何とも残念に思えてならなかった。
彼の同郷の者には、戊辰の戦の後に国を出て、南方でその無念を晴らした者もいる。
そういう道もあるのでは無いか?
大体、この世界最強の戦艦「陸奥」を、ただの陰謀の道具で終わらしたくはない。
そもそもこの艦は、世界戦略の一環で、民族の守護神となる筈だった。
このまま俺は解任、「陸奥」は大日本帝国の艦艇となって良いものか?
その葛藤をおくびにも出さず、ボーっとしているように見せている。
だが、直感馬鹿は感づいたようだ。
ただ飯と酒保目当てで、伊達順之助が顔パスで遊びに来る。
その順之助が艦長の顔を見て、いきなり言い出した。
「あんた、頭山さんに会う気は無いか?」
「頭山? 誰ですか?」
「あんたの嫌いな勤皇の志士の流れを組む、なんというか……馬鹿の一人だな」
「馬鹿って……、順之助さんが言いますか?」
「他に例えが無い。
孫文や蒋介石を支援し、インドの独立運動家の(ラス・ビハリ・)ボースと会って支援を決め、フィリピンやベトナム等も支援しようとしている。
亜細亜主義とか言っていたな。
こんなのを無償でしようってんだから、馬鹿だと思うぞ。
あ、これ褒め言葉な」
「褒め言葉で馬鹿ですか。
言われた方は怒るでしょうな」
「まあ、俺も会った事は無いのだが、紹介状くらいは用意出来る。
頭山は朝鮮合邦の為に働いたが、今の在り方には反対だそうだ。
日本軍が満州に居るのを賛成していたが、関東軍と今の満州国には反対だそうだ。
教えを聞けば、艦長の道も開けるんじゃないか」
「だが……『陸奥』を無断で動かす訳にはいかない。
自分もここから離れられない。
来て貰うのか?」
「ふっふっふ……。
もしあんたが東京に行きたいのなら、こっちで手配してみる。
で、どうする?」
「じゃあ、手配して下さい」
「……結論が速いな」
「遅けりゃ遅いって文句言うでしょうに。
別に俺だけの問題じゃないですよ。
『陸奥』乗組員に、久々に日本の土を踏ませてやりたい」
「分かった。
じゃあ!」
そのままカバンにお土産を詰めて、伊達順之助は「陸奥」から去って行った。
(あの人は、一体何派なのだろう??)
そして数日後、満州国皇帝より命令が届く。
”日満友好促進の為、大日本帝国天皇陛下の招待に応じ、日本を公式訪問する。
その乗艦として『陸奥』を使用する”
「陸奥」はラーマ7世に次いで、二度目の国家元首座乗艦となった。