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戦艦放浪記  作者: ほうこうおんち
最終章:戦後編(1945年~)
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戦艦たちのその後

■1945年8月27日、東京湾上のアメリカ戦艦「ミズーリ」:

 日本の外交代表重光葵外相は、降伏文書を前に手が震え、中々署名しようとしない。

「サインしろ、この野郎! サインしろ!」

 罵声が飛ぶ。

 その声の主は第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将であった。

 ようやくサインした重光代表を、ハルゼーは睨む。

 後に

「日本全権の顔のど真ん中を泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」

 と語ったという。


 そんな重光葵だったが、ある顔を見て怒りを含んだ表情になる。

 「陸奥」艦長朝田哲郎海軍大佐の顔である。

 同行していた梅津美治郎参謀総長は

「この売国奴が、裏切者が!

 貴様らのせいで、お国は……」

 と歯噛みする。

 同じく同行の富岡定俊海軍少将は

「覚えておれよ、貴様、ただでは済まさんからな」

 と凄む。

 他の日本代表団も、降伏文書の前では青褪めていた顔だったが、朝田と沖合の「陸奥」を見て、怒りで赤くなった面相に変わる。


(やはりなあ……)

 朝田は自分のやった事に後悔こそしていないが、誇りも感じられなくなっていた。

 彼は必死に連合国軍の信頼を勝ち取り、チャーチル前首相という後ろ盾も得て、少なくとも千島と北海道と東北地方をソ連の手から守り抜いた。

(だが、それだけなんだよなあ)

 彼は自分たちの功を計りかねている。

 その功とて、第91師団の踏ん張りで「陸奥」無しでも出来たかもしれない。

 自分たちは一体何を成し得たのか?

 はっきりと何等かの運命を変えた、何十万人の生命を救った、という比較が出来たなら良いのだが、超越者で無い彼は自分が為した事の意味を知り得ずにいる。


 はっきりしているのは、日本人は彼を裏切者と蔑み、味方の中でもハルゼー提督他アメリカ人は彼等を相手にしていない。

 そんな中、明確な味方のイギリス陸軍パーシバル中将が朝田の肩を叩いた。

「暗い顔をするな。

 我々イギリスは貴官と貴艦を賞賛する。

 どうだい、一緒に飯でも食べないか?」

 不味いから結構とも言えず、朝田はパーシバルと共に「ミズーリ」を去り、イギリス太平洋艦隊旗艦「デューク・オブ・ヨーク」を訪れた。




 ちょっと先の話をしよう。

 この後アメリカは日本の生き残り戦艦「長門」「伊勢」「日向」を没収し、ある兵器の実験台にする。

 原爆実験「クロスロード」作戦である。

 この実験には同じく枢軸国ドイツの重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」や、アメリカ戦艦「ニューヨーク」らアメリカの旧式艦も含まれている。

 日本海軍と戦った空母「サラトガ」の姿もあった。

 まさに第二次世界大戦は終わったという事を示している。

 彼女たちの最後の戦いは人工の禍々しい太陽が放つ熱線と、叩きつける爆風とのものだった。

 古い「伊勢」「日向」は水中爆発に敗れた。

 「長門」は核の威力(それ)に2度勝った後、誰にも見られずに海中に姿を消した。


 日本の戦艦の内、最も幸福だったのは高速戦艦「榛名」であった。

 中華民国に賠償艦として引き渡される。

 大戦中の損傷で27ノットに速度が低下したものの、十分な性能を持つ戦艦として中華民国海軍の旗艦となる。

 「榛名」は中国の「天子が封禅をする神聖な山」の名前「泰山艦」と名を改められる。

 第4砲塔を撤去し、カタパルトも撤去し、そこにヘリポートを設置する。

 マストにはレーダーが設置され、後には副砲・高角砲の代わりに対艦ミサイルが設置された。

 戦艦「泰山艦」を乗りこなすに、中華民国の海軍軍人では未熟であった。

 そんな海軍軍人を教育する教官の中には、元戦艦「陸奥」の乗員も多数いたとされる。

 やがて国共内戦で敗れた蒋介石の台湾落ちの際は、彼の乗艦となる。

 成立した中華人民共和国は戦艦「榛名」と、同じく賠償艦の駆逐艦「雪風」(中国名「丹陽」)ら6隻の駆逐艦が守る台湾海峡を超える事が出来なかった。

 やがて老朽化が進み、スクラップにされるが、それまでの間、主砲が火を噴く事は無かったが、そこに存在するだけで脅威という「戦艦の存在意義」を示して中華民国を守護し続けた。


 戦艦「扶桑」も大戦を生き残った。

 タイ王国は日本の同盟国と見做され、戦後は厳しい道を歩む。

 そんな中、国王ラーマ8世が急死する。

 タイでは不敬罪に当たる為、多くは語られない。

 だが、ラーマ8世に裏切られたと復讐に燃える日本陸軍の辻政信中佐が暗殺した、とどこかで囁かれている。

 噂はともかく、王の急死に立ち上がったのが王弟殿下であった。

 彼は戦艦「扶桑」に座乗して海軍を掌握すると、その巨艦の存在感をもって国内の混乱を鎮める。

 人民党や軍人がタイを牛耳っていた時代は終わり、国王が軍と民主主義の上に座って国を鎮める。

 後々までタイ国民に崇拝されるラーマ9世が即位し、王の元でタイは戦後社会の荒波を乗り越えていく事になる。

 戦艦「扶桑」は36センチ主砲を即位の祝砲として放つ。

 これが「扶桑」最後の主砲発射であった。


 タイがフランス・インドシナ植民地を1941年に攻略したが、その報復が来る。

 フランスが逆にインドシナから攻撃をかけ、失地を取り戻した。

 「扶桑」がこの時、防衛出動したのが問題視される。

 フランスは「扶桑」の廃艦か引き渡しを要求する。

 ラーマ9世はこれに対し、「扶桑」の記念艦化を発表し、要求を丸呑みせずに同じ事をする政治力を見せる。

 兵装は全て撤去され、艦の周囲は埋め立てられ、ついに「艦」ではなくただの建築物と化した。

 甲板上の全ての主砲塔は、撤去されて海軍学校や海軍基地に移され、教育と実際の防衛にと使用される。

 後甲板には巨大な涅槃仏が寝そべり、煙突前後の第三砲塔、第四砲塔の跡には、仏舎利を納める仏塔パゴダが建てられた。

 舷側の副砲跡にはマニ車が並べられ、全てを回せば「お経1回分」の御利益となる。

 第二砲塔跡には黄金色の大仏が立ち、第一砲塔跡は大仏を拝む人々の台座とされた。

 仏塔パゴダ型と呼ばれた艦橋は黄金色に塗られ、マストには色とりどりの旗が掲げられる。

 こうして海上仏教寺院「扶桑寺(ワット・フーサン)」となった戦艦「扶桑」は、単なる廃艦では成し得ない、観光名所として観光客を世界から集めタイ経済に貢献する事になる。


 タイ海軍の海防戦艦「トンブリ」と「スリ・アユタヤ」はその後も海軍で活動する。

 「スリ・アユタヤ」は1951年に起きたクーデターに際し、損傷して後に解体される。

 「トンブリ」はその後、復興した日本によって、またも魔改造を受ける。

 生まれ故郷の神戸、川崎造船所で。

 主砲はロストテクノロジー化した為そのままだが、高角砲と機銃は撤去され、対空ミサイルとCIWSを搭載される。

 対艦ミサイルだけは日本の「防衛力に当たらない、攻撃的な兵器は輸出しない」に抵触した為、搭載されなかった。

 そして「トンブリ」は、タイ王国がアメリカと某国との戦争に多国籍軍として参加した際に出征、敵国に向けて主砲を発射した。

 これが「トンブリ」最後の戦いとなる、ついに退役。

 この艦は武装を昔に戻し(主砲以外の全てイミテーション)、第二次世界大戦時の姿となって「扶桑寺(ワット・フーサン)」の近くに記念艦として係留されている。


 フィンランド海軍の海防戦艦「イルマリネン」「ヴァイナモイネン」の姉妹も大戦を生き残る。

 しかし、彼女らはソ連に戦時賠償艦として奪われる。

 ソ連は小さく弱体なこの艦を大事にはしなかった。

 1960年には除籍され、すぐにスクラップとされた。

 だが、2隻の海防戦艦はフィンランドの大事な物を守り抜いた。

 フィンランドの重要都市ヴィープリである。

 戦争中は湾内に留まり、主砲をもってソ連軍を阻み続けた。

 講和会議中、ヴィープリを含むカレリア北部割譲を要求するソ連に対し、フィンランドのマンネルヘイム大統領は引かずに交渉をしていた。

 そんな中、ソ連にある噂が届く。

 戦艦「陸奥」の乗組員がフィンランド海軍にやって来て、海防戦艦を操るというものだ。

 ソ連では協議を行い、海防戦艦2隻とその他潜水艦、掃海艇等多数を没収する事でヴィープリは諦めるという事になった。

 如何に優秀な海軍士官が来ようと、軍艦が無ければ宝の持ち腐れである。

 マンネルヘイムはそれで即座に調印した。

 フィンランド海軍は艦艇と引き換えに、第二の都市を守り切ったのである。


 戦艦「ジャン・バール」は、ドイツに勝利した自由フランス海軍のシンボルとしてその後も在籍し続ける。

 だが、勝ったフランスは「ジャン・バール」を動かす国力を既に失っていた。

 予備役に編入され、次いで退役・除籍、解体、そしてスクラップとして売られる。

 記念艦として残したい、近代改装して使い続けたいという声もあったが、空母を保有する為に海軍予算のほとんどを使う事になるフランス海軍に、戦艦の居場所は無かった。


 戦艦を巡って迷走するのはソビエト連邦であった。

 満州での日本の抵抗の他、戦艦「陸奥」に邪魔され続けたスターリンは、やがて考えを変える。

 敵として厄介過ぎる日本は潰すよりも、思想的に味方として取り込む。

 様々な手を使い、日本の政界、官界、財界、そして特に大学やマスコミ、言論の世界にシンパを作り出す。

 日本人を洗脳によって味方につけようと、あの手この手で画策を始める。


 一方で「陸奥」に散々にやられた記憶は、スターリンをして戦艦「ソビエッツキー・ソユーズ」級の再建造計画に駆り立てる。

「空母が何だ!

 あれ程までに我々を虚仮にしたのは戦艦だったじゃないか!

 我々も強力な戦艦を有するべきなのだ!!」

 と独裁者は意地になる。

 スターリンは1953年に死亡し、中継ぎのブルガーニンを経てフルシチョフの時代になる。

 「巡洋艦不要論」そして「ミサイルと潜水艦があれば十分」というフルシチョフは、スターリンの遺した大海軍計画を破棄する。

「これに費やされた莫大な金が勿体ない」

 とフルシチョフは語り、後にソ連崩壊時に「時代遅れの戦艦を15隻も作ろうとした浪費も、経済弱体化の一因となった」と評される事になる。

(※ソビエッツキー・ソユーズからソ連加盟15共和国分、ソビエッツキー・カザフスタンやソビエッツキー・グルジア等も起工だけはされた)


 戦艦は無いが、旧式海防戦艦と若干の小型巡洋艦、潜水艦を持つハワイ王国は、今回も亡国の危機を乗り越えた。

 フレンチ・フリゲート環礁に現れた日本軍撃退に出動した以外は出番が無かった海防戦艦は、ホノルル港の一角で記念艦となる。

 真珠湾を完全に自領としたアメリカ海軍が記念艦とした戦艦「ミズーリ」に比べ、小っちゃくて無骨なところが可愛いと、何故か観光と記念撮影の名所になってしまった。

 海軍はイギリス製軍艦を全て破棄し、これでもかとばかりに作られたアメリカの駆逐艦と潜水艦を払い下げられる。

 海軍を運営するホノルル幕府は、かつて共に戦った戦艦「陸奥」の乗員に声をかけ、彼等を雇い入れた。

 それは日本人だけでなく、イギリス人、ロシア人、エチオピア人等「陸奥」に乗っていた経験のある者たち多数である。

 彼等が幕臣たちを教育し、ハワイ海軍は貰い受けた駆逐艦や潜水艦をどうにか運用出来るようになる。




 このように、日本に居場所を失った「陸奥」の乗組員たちは、彼等を高く買う国に海軍教官として雇われていった。

 日本が「陸奥」乗員を許し、とある神社に祭る事になるのは戦後50年の記念の年からであった。

 その時に生き残っていた乗員はほとんど居なかった。

 僅かに満州からの脱走時に十代だった者たちが、生きて故郷に帰る。

 訪れた故郷において、石を持って追われてから半世紀が過ぎた後であった。


 その頃の話をそろそろ語るとする。

おまけ:

アメリカ「なんなら、空母もあげるよ」

ハワイ「要りません!」

アメリカ「いっぱい作っちゃったからさ」

ハワイ「『フレッチャー』級駆逐艦22隻、『ガトー』級潜水艦18隻貰っただけで、もう持て余してるんです!

一体どれくらい作ったんですか!」

アメリカ「『フレッチャー』級175隻、『ガトー』級が77隻だったかな」

ハワイ「作り過ぎです!」

アメリカ「ついでだから『カサブランカ』級護衛空母もあげるよ。

50隻も作っちゃったから」

ハワイ「もううちは、海軍軍人も足りてませんし、空母を発着艦出来るパイロットも居ませんから」

アメリカ「そこは、ほら、うちでこれから出る大量の退役軍人雇ってくれたら良いからさ」

ハワイ「そっちが本音っスね?」


かくして増員しても、まだ足りない分はアメリカ退役や予備役の海軍軍人を雇って、アメリカの失業対策に一役買いましたとさ。

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― 新着の感想 ―
[一言] タイ王国海軍での『扶桑』の記念艦化の話、ツボに入ってしまって、笑いが止まらず、酸欠で目の前が暗くなりかけました。 ほうこうおんちさんの作品は、こういう事があるから油断が出来ません!!!(苦笑…
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