航路喪失(何処から来たのか)、進路不明(何処へ行くのか)
そもそもの発端はイギリスに有った。
・中東をアラブ民族に与えるというフサイン=マクマホン協定
・中東を英仏露で分割するというサイクス=ピコ協定
・中東にユダヤ人国家を作るというバルフォア宣言
この三枚舌外交だが、ロシアがソビエト連邦となり、相容れない共産主義国家となった事や、フランスが現在それどころじゃない国力の低下と立て直しに追われている為、サイクス=ピコ協定は廃棄出来る。
しかし、フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言はいずれ衝突が目に見えていた。
そこで浮上したのが「東方エルサレム構想」であった。
日本は満州の地を狙っていた。
対ロシアの恐怖心からである。
日本を守るには、日本海に突き出たナイフのような立地の朝鮮半島を抑える必要がある。
朝鮮半島を守るには満州の地が必要である。
実際にロシアやソビエト連邦の脅威がそこにある。
日本は満州に自国民や白系ロシア人の他、ユダヤ人を招致しようと考えていた。
そこで明治時代に密かに囁かれた「日猶同祖論」が、ここに来て注目され始めた。
「日本人はユダヤ失われた十支族の内のダン族の末裔ではないか?」
と真面目に検討され始めた。
アメリカは中国という市場への進出を狙っている。
「機会均等」「門戸開放」を唱え、中国との自由貿易を考えていた。
しかし中国は現在、それどころではない。
各地に軍閥が割拠し、統一政体は存在していない。
一時は全土に命令した袁世凱の北京政府は、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派とに分裂する。
直隷派は満州軍閥の張作霖と組んで、安徽派に勝利する。
この他に山西派、共産党系の国民軍が、かつての「三国志」よろしく「中原に鹿を逐う」戦いを繰り広げている。
さらに地方には少なくとも9個の軍閥が存在し、さらに彼等に従わない馬賊・山賊・河賊が跋扈していた。
1922年海軍軍縮会議のイギリス代表は、争乱の種の一人バルフォア伯爵である。
バルフォア伯はまずアメリカ国内のいくつかの財界人に声をかけ、また日本海軍とも密談を行った。
日本は朝鮮半島を守る緩衝地帯、アメリカは市場、イギリスはユダヤ人を住まわせる「東方エルサレム」を、分裂して収拾のつかない中国のどこかに作る、そういう密約が成った。
あとは「山東半島」か「満州」かという議論になる。
日本は満州を独占したかった。
その為、満州にもユダヤ人を住まわせるという事で、共同開発の地として山東半島を推した。
アメリカは直隷軍閥と近い。
そことそう離れていない山東半島で良いとなった。
あとはイギリスがユダヤ人たちを動かす。
日本は山東半島にある国に、ある種の憧れがあった。
日本は中国に次いで漢籍を好む。
「史記」に描かれた覇者・桓公の国、名宰相・晏子(晏嬰)を出した国、軍記物で有名な田単「火牛の計」の国、「戦国四君」孟嘗君の生まれた国、それが山東半島の「斉」。
日本は自らが後ろ盾となり「斉」を建国し、理想国家を造ろうと夢想する。
斉は中国においては、否定的な印象もある。
南北朝期の南斉は、皇族の身内殺しの激しい国であった。
同じく南北朝の北斉は、皇帝が酔って功臣を殺害しまくった国であった。
何よりも中国人が屈辱に感じる、女真族により華北を奪われた「靖康の変」において、女真族の国「金」の傀儡となった劉予が立てた国が「斉」(中国では「偽斉」と呼ぶ)であった。
山東に日米英共同経営の「斉」を立て、満州は日本の支配地域とする、この線はアメリカ留学経験のある日本海軍軍人から、次第に陸軍軍人にも広がっていった。
そしてアメリカによる「山東半島放棄」要求を、日本陸軍は意外な程あっさり受容した。
あの時頑張っていた外交関係者には気の毒だが、全て茶番で物事は動いていたのだった。
そして、そこに鎮座するだけで国を守るのが、「幻の3隻目の16インチ砲搭載戦艦」である。
シャム王国海軍が預かっている戦艦「イサーン」は、斉・エルサレム共和国が建国したならば、そこに転籍する予定であった。
如何に群雄割拠していようが、中国人にしたら、既に自分たちの住んでいる土地に、他民族の国を立てる等もっての外であろう。
少なくとも蔣介石という男は、英米日の陰謀を知らなかったが、外国人の支配する土地は全て中国に返すべきだと考えている。
彼は政治家ゆえに、無理に押して外国を怒らせたりはしない。
諸外国が共産主義を嫌っているのも理解している。
手を組む相手をソビエト連邦、ドイツ・ワイマール共和国、日本、アメリカと様々に変えながら、1926年に始めた「北伐」を、度々躓きながらも進捗させていった。
そして蔣介石の手は、山東半島にも伸びた。
1927年は、大連・天津から南下した日本軍が山東半島を守り、蔣介石は張作霖に敗れた為に、結局山東半島に入らずに終わる。
しかし1928年には蔣介石軍は山東半島に入り、その一部が日本人居留地を襲撃する。
この虐殺・略奪に激怒した第二次山東派遣日本軍と武力衝突が起こった。
済南事件である。
その1928年、北京を占領していた満州・奉天派の張作霖が、蔣介石に北京を明け渡し、奉天に戻ろうとする。
その帰路、鉄道が爆破された。
済南事件後の交渉で、蔣介石は日本に「満州の権益を認める、満州には手を出さない」と約束した為、陸軍の目は山東から満州に向いた。
そして起きた謀殺劇である。
その後、事態は思わぬ方に転換する。
張作霖の子・張学良は蔣介石に下り、蒋介石は労せずに満州を手に入れた。
山東の調和を乱した日本陸軍は、アメリカとの信頼を損ねた。
だが陸軍は、山東等どうでも良いと満州にのめり込んで行く。
蒋介石は、1937年にアメリカ留学経験があり、某秘密結社とも縁がある宋美齢と結婚している。
蒋介石は夫人を通じてアメリカ社交界に働きかけ、山東問題において日米を離間させ始めた。
山東の「約束の地」に希望を見出すフリードマン商会は、手懐けていたある男を山東に放った。
その男の名は伊達順之助といった。
戦国時代の大大名・伊達政宗の血を引く。
近い時代の話では、「幕末の四賢侯」宇和島藩主伊達宗城の孫にあたる男だ。
この男は、伊達家にはたまにあるようだが「先祖帰り」をしていた。
1909年に縄張り争いからヤクザを射殺する事件を起こしたのを始めとし、1916年に張作霖爆殺を企てて失敗、1919年に山縣有朋暗殺を企てて失敗と、相当な危険人物であった。
1916年に第二次満蒙独立運動に参加するも、これも失敗する。
鬱鬱としていた順之助に、フリードマン商会が近づいた。
同志を紹介され、彼は次第に山東独立を志すようになる。
もっともフリードマン商会の思惑とは異なり
「山東半島を俺の、伊達家の領地とし、ここから世界に打って出るのだ!!!!」
と、先祖の独眼竜が乗り移ってるが如き事を考えていたのだが。
この危険人物が、中国の馬賊や大陸浪人を集めて「山東独立軍」を結成し、蜂起した。
そして…………大日本帝国領内の朝鮮人集落を襲撃し、焼き討ちする。
これは1923年にも武装した朝鮮人の根拠地を、朝鮮総督・斎藤実の依頼で討伐した事に起因するのだが、当然この予期せぬ行動に日本は激怒し、軍を動かす。
山東半島に入り、蒋介石の国民党軍、第四次山東出兵の日本軍の両方を相手にゲリラ戦を行い、やがて国民党軍と日本軍を鉢合わせさせて衝突させる。
かくして伊達軍、日本軍、国民党軍の3つ巴の争いとなり、山東半島はフリードマン商会の思惑を完全に裏切って、ボロボロに疲弊してしまった。
日本では、山東派よりも満州派が大きくなっていた。
ドイツより帰国した石原莞爾が、1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。
彼は山東派と満州派の両方の思想を理解している。
どうせ山東半島はダメなのだし、ユダヤ人誘致は満州の方が良い、満州を王道楽土、五族協和の地とすべく、彼の著した「最終戦争論」を基に、満州とモンゴルの領有作戦を立て始めた。
1929年に板垣征四郎が関東軍の高級参謀に就任し、いよいよ関東軍は満州への野望を深めていく。
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謎の男・松尾特務中尉は戦艦「イサーン」の朝田艦長に、逐次このような情報をもたらしていた。
松尾は
(この人の肚の内はどうなっているのだろう?)
と朝田の動じない様を感心する。
実はアメリカ留学経験のある朝田は、早い時期から満州もしくは山東のユダヤ人国家計画を知らされていた。
本人の口から、どうして加わる事になったのかまだ語られていないが、周囲からは同志の一人と見做されている。
「帰国、解任と共に予備役編入だろう」と笑っているのは、真相を知らない者ばかりだ。
この計画を知っているから、先の見えないシャム王国派遣、艦長職に5年以上就いている事にも不満を漏らさない、松尾はそう思っていた。
(「昼行燈」とはよく言ったもの、ぼんやりとして、一体何を考えているのか肚が読めない)
計画が狂い、「連中は何をしてるのだ!?」と喚き散らしてもおかしくないのに、全く動じる事なく、時に魚等を釣っている。
大した胆力である。
「北の方の情報はいいけど、シャム王国内部はどう?」
朝田が逆に聞いて来た。
「国王陛下は苦しんでいますね。
元々留学していて、帰国して数ヶ月で即位した為、官僚との繋がりが弱い方です。
陸軍もしばしば決起の気配を見せています。
官僚と軍人が黙っているのは、もしかしたらこの艦が居るからかもしれません」
「うん。
だとしたら、しばらく動けないよね。
俺たちが下手に動くとさ、シャム王国に悪い影響が出る。
そうなると、ただでさえ北は混乱してるのに、南でもか!と皆が困るよな」
「そうですな。
艦長はそれを考えた結果、泰然としているのですか?」
「それは買い被り過ぎ。
俺は単にボーっとしてるだけよ」
朝田も松尾も全く想像していない事態は、1929年の内に起ころうとしている。
山東半島の乱は、伊達軍が臨時に手を組んだ関東軍と国民党軍の挟み撃ちに遭い、壊滅して収まった。
伊達順之助の消息は分からない。
伊達軍を撃破した関東軍は、そのまま早期に撤退をした。
これは国民党を油断させる、石原莞爾の策とも言われる。
と同時に、参謀として出撃した石原莞爾は、山東半島のフリードマン商会の者と、何やら会談をした模様である。
やがて中国の不穏とは全く別に、ウォール街の株式市場は1929年10月24日木曜日を迎える。