4390万バーツの王室ヨット
チャクリー朝シャム王国第7代国王・ラーマ7世は、即位時の興奮から既に醒めていた。
即位当初、数ヶ月だがシャム王国軍人であった事を誇りとする王は、日本から預かった戦艦「イサーン」に座乗し、近隣を表敬訪問して歩いた。
沿岸諸国の民は、目を丸くして「イサーン」の威容に驚き、さらにそれを操るのがタイ族だと知って二重に驚いていた。
鼻高々で王は航海を終えて帰国する。
帰国後、この世界最強の戦艦を動かした経費が計上され、王は頭を抱えた。
先代にして異母兄の亡きラーマ6世程に、7世は浪費家ではない。
同型艦「長門」の平均10ノットでの平常航海で、1日の燃料費は約1万円(現代の1500万円程)である。
1925年のレートで、100円=40USドル、1英ポンド=4.48USドル、従って11.2円イコール1英ポンドとなる。
時期は少しずれるが、1923年の11ティカル(バーツは1925年以降の呼び名)で1英ポンド固定である。
こうしてみると、ティカル(バーツ)と円はほぼ等価であり、戦艦「イサーン」の1日の燃料費は1万バーツとなる。
タイ政府の歳入は年間約9000万バーツ、王室財政は900万バーツを計上するが、「イサーン」を約3ヶ月(90日)航海させた結果、燃料費だけで90万バーツ、王室財政の1割を使用してしまった。
なお、「イサーン」はこの航海中、一度も全力航行をしていない。
全力の26.5ノットを出したならば、さらに高額化していただろう。
ゆえに、ラーマ7世は呼びつけられたホノルル会議に、戦艦を乗り付ける等せず、チャーター便で代表団を送るに留めた。
そしてこの会議はシャム王国よりも日本に非難は集中し、シャム王国代表は
「今後何かあっても、決して戦艦『イサーン』を日本に売却しない」
という事を承諾させられた。
最初はフランスの代表団から「日本に返還するか、返還しないならばその場で解体しろ」という要求が出されたが、アメリカ代表団がまあまあと宥め、日本が引き続き人件費や装備費を出し続けるも、再所有はならないという線で落ち着かせた。
「それでは何にもならないではないか!」
というフランス代表だったが、アメリカ代表団から何やら耳打ちされて矛を納めた。
日本代表団は再所有を禁じられたが、意外にケロっとしている。
売却に対しても「第三国経由で良い」と高を括っている。
どうも色々と思惑が張り巡らされていて「気持ち悪い」とシャム代表団はラーマ7世に報告を入れた。
戦艦「長門」は建造費約4390万円、イコール約4390万バーツである。
王室財政約5年分、国家歳入のおよそ半分である。
これを16隻持とうとした日本というのは、シャム王国から見たらやはり超大国だ。
日本だって余裕があって、こんな高価な艦を造ったのではない。
海軍の戦略に沿って計画されたのである。
逆に言えば、ポンと4390万バーツもする戦艦を与えられたシャム王国は、この艦を使って何かをするという戦略が全く無かった。
シャムの仮想敵国は、チャオプラヤ川東岸を奪ったフランス・インドシナ植民地である。
かつてフランス海軍がチャオプラヤ川を遡上し、首都を直撃して城下の盟を強いられた事が屈辱であった。
戦艦「イサーン」が居れば、もう二度とそんな屈辱は無い!!
……と思い、それは確かだったが、ではずっと攻めて来ない場合はどう使用するか?
1926年の即位の挨拶での親善航海、王室ヨットとしてしか、現在使い道が無かった。
そして、毎年千人以上の「最新鋭艦を操れる海軍軍人を教育する」練習艦として、でもある。
現在、国家単位で立て直しをしているフランスは、極東方面への関心を失っている。
サイゴンで植民地を守っているのは、シャム王国同様、日本から購入した駆逐艦「アラブ」級(「樺」型二等駆逐艦の同型艦)である。
戦う時は、シャム海軍の日本製戦艦対フランス・インドシナ海軍の日本製駆逐艦となるだろう。
戦うと言っても、シャムが狙うのは内陸部であり、戦艦の出番は無い。
一応シャム王国陸軍と海軍は、ヴィエンチャン回復作戦を立案し、王に提出する。
・チョンブリ県からシェムリアップ(アンコールワット)方面に1軍を出す
・イサーン県からヴィエンチャン方面に1軍を出す
・海軍はバンコク湾をインドシナ半島沿いにサイゴン及びトンキン湾を目指し、フランス極東艦隊を殲滅する
まあ、誰が考えてもこれしか無い作戦案だったが、
「開戦理由は何にするのかね?」
というラーマ7世の質問に、「失地回復、領土返還へ」以外を誰も答えられず。
(今は国際連盟が存在する。
自由気ままに戦争等出来なくなった)
大義名分以外の理由もある。
アメリカのフリードマン商会という財閥が、無償で石油を供給してくれるのだが、ここが
「戦艦を勝手に使用してはいけませんよ。
あの戦艦と、サービスで他の海軍艦艇も動かせるだけの石油をプレゼントしていますが、
もし戦争となるならば、それは止めなければなりません」
と脅しをかけて来る。
追加軍縮会議に参加した代表団が言った
「何か陰謀にでも巻き込まれている感じで気持ち悪い」
というのを、ラーマ7世はとっくに感じていたのだった。
「艦長、暇っすね」
森航海長が欠伸をしている。
実にたるんでいるのだが、ある意味仕方が無い。
王室ヨットとして使用され、東京に立ち寄った際、幹部以外の海軍士官は辞令を受けて退艦した。
そして新たにシャム王国海軍転属の士官が乗り込み、シャム人たちを厳しく指導する。
約2年で、砲手や機関科員たちは内地に戻り、外国赴任手当を貰い、外国の海軍軍人を指導した実績も考慮されて、本国でも教官となったり、他の戦艦への転属となったりする。
これが分かっただけで士気はぐっと上がり、二期となる士官・下士官たちは気合いを入れてシャム人を指導する。
……逆に言えば、一切の異動が無かった上層部は、このままシャムに留任という事になる。
確かに岡田啓介連合艦隊司令長官や、加藤寛治第一艦隊司令官は
「しばらく時を待ってくれ。
然るべき時期に呼び戻す。
それまで辛抱してシャムに居てくれないか?」
と言って来たが、それが何時なのか分からない以上、士気は萎えている。
それでも角矢砲術長なんかは、日野主計長に散々文句を言われながらも、照準演習機がすぐに壊れるくらいの猛訓練をさせている。
特に出航機会の無い航海長は、そろそろ湾内の測量や深度調査にも飽きて来た頃なのだ。
「まあ、戦艦の乗組員が訓練以外の事で暇なのは、悪い事じゃないよ」
朝田艦長は泰然としている。
士気喪失してだらしなくもなっていないし、逆に気合いを入れ過ぎてもいない。
威張り過ぎて、あるいは猛訓練過ぎて不満を持っているシャム海軍軍人を慰め、時に小遣いを与えて遊ばせている。
海軍の伝統「金曜カレー」についても
「郷に入らば郷に従うべし」
とココナッツミルクを使うケーン(タイカレー)を取り入れ、日本人士官の不満も抑え込んで、シャム人に洋上での曜日感覚を叩き込んでいた。
(日本人用に、第二金曜日だけは「もう一品」として日本風のカレーライスも出してはいる)
元々がやる気あるのか無いのか分からない「会津の昼行燈」なだけに、日本時代から態度は余り変わらない。
だが、陰謀の渦中にいる「イサーン」において、艦長は何かを知っているようであった。
周囲から「あれは何なんだろう?」と言われている乗組員がいる。
艦長付特務士官という身分で、しばしば所在が分からなくなる軍人がいる。
特務士官とは、兵や下士官からの叩き上げ(森航海長も林機関長も叩き上げだが、海軍兵学校は卒業している。海軍大学校を出ていない)がなるものだが、その男・松尾特務中尉は「海軍関係の学校を卒業していない、それどころか以前の経歴が分からない」のである。
朝田艦長は
「あれは俺の情報屋だから」
と言って、煙に巻いている。
その男が久々に艦橋に顔を出した。
「なんだ貴様、またしばらく行方不明になっていたが、どこで遊んでいた?」
自分の事は棚に上げて、森航海長が絡む。
その男は顔が少し青かった。
そして
「艦長、ちょっと……」
と言って目配せをする。
「ああ、済まないね、航海長。
ちょっと席を外すよ。
艦長室に居るけど、しばらく誰も通さないでくれ」
朝田艦長と松尾特務中尉は艦橋を出た。
「で? 何があった?」
「蒋介石が北伐の軍を起こしました。
現在のところ、山東半島の我が国及びアメリカの租借地には手を出さないと言っていますが、陸軍の方では居留民に何かあったら関東軍を大連から出撃させると言っています」
「計画に支障が出そうなのかね?」
「出るかもしれません。
蒋介石軍には多数の共産主義者と、ソ連から派遣された顧問のボロディンという男がいます。
彼等は軍閥を倒す事と同時に『帝国主義打倒』を叫び、南京や上海の外国人居留区にも侵攻しようとしています」
「うーーん、まずいね。
『彼等』の移住地で、かつ経済的基盤となり、日米を相手に商売出来る拠点として選んだ地だ。
戦争のどさくさで外国人が殺されない事を祈るよ。
でないと、日米合作が上手くいかなくなる。
この艦も日本に戻れなくなるよ……」
簡単に言えば、山東半島から上海までの沿岸地域に、日米で「安住の地」を用意し、そこに多数の流浪の民を住まわせ、かつ商業活動する事で「中国に共に乗り込み、立派な市場にしよう」というのが、彼等の言う「計画」である。
その際に「独立国」となる斉・エルサレム共和国海軍に、戦艦「イサーン」は売却され、その地を守護する予定なのだ。
だから、その日まで「イサーン」こと元「陸奥」には無傷で居て貰う必要がある。
海軍や陸軍、さらにアメリカの「彼等の仲間」が一丸となっているわけではない。
将来に有り得る日米衝突を防ぐ緩衝材として、共同出資での中国開発を発展させたいのだ。
極東の平和を日米英で守る「桂・タフト協定」及び、満州における日米共同経営の「桂・ハリマン協定」の発展形なのである。
当時の日本の外務大臣小村寿太郎は「我が国単独で行うべきである」として反対したが、彼はポーツマス条約での失態で発言力が弱まっていて、「桂・ハリマン協定」は生き続けている。
だが、この小村主義「日本単独で満州を経営すべき」という考えは、一部の陸軍軍人が熱狂的に支持しており、海軍の中にも賛同者がいるという。
ここに来て、蒋介石及び共産主義者による北伐という要素が加わり、日米そして一部イギリスの計画に暗雲が差し始めた。
前作「ホノルル幕府」との関係。
前作で第一次黒溝台会戦に敗れた日本は、(英国)ポーツマス会議で朝鮮半島の支配権を得られず、満州も遼陽まで、南樺太も取得出来ない「事実上の賠償金を得られた以外は、外交的敗北」という状態になりました。
日本としては領土とかどうでも良く、戦争を「勝ち」で終わらせ、戦費をかなり回収出来たから良かったものの、多くの国民は納得せず、日比谷の乱と呼ばれる大暴動が発生し軍が出動して鎮圧する始末でした。
それもあり、小村寿太郎は不平等条約撤廃までは外務大臣を勤めるものの、満州経営に関しては発言権を認められずに終わりました。
また、ワイキキ軍縮会議でアメリカは相当の譲歩を行い、代わりにワシントン9ヶ国条約で山東半島を日本から中華民国に返還させ、そこに「門戸開放・機会均等」と言って乗り込んでいます。
山東半島辺りで日米が会う機会が増えた事で、次第に「ここをエルサレムにしようか」という陰謀が動き始めました。
同時に「満州がエルサレムでもいいね」という派閥もあり、とりあえずは「共同開発派」と「単独進出派」は手を組んで、中国内部で何やらやっています。