ヒトラーを釣り上げよ! ~ミンスミート作戦~
アメリカ軍到着と同時に始まった北アフリカ奪還の「トーチ作戦」は、1943年までかかったものの、チュニジアのドイツ軍を追い出す事に成功した。
連合国軍は更なる地中海での作戦を立案する。
ドイツの柔らかい脇腹、イタリアを攻めてそちらに戦線をもう一つ作ろうと考えた。
だが、イタリアに上陸する前に、その沖合に浮かぶ島を一個制圧する必要がある。
それがシチリア島上陸作戦「ハスキー作戦」であった。
この作戦について、ウィンストン・チャーチルは
「余程の馬鹿で無い限り、次の我々の目標はシチリア島だと分かる」
と、見え見えである事を警戒している。
そこで、一個欺瞞作戦が考えられた。
それがヒトラーの目をシチリア島から逸らす「ミンスミート作戦」である。
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1941年8月、イギリス海軍は一つの作戦を実行した。
8月24日深夜、ジェームズ・サマヴィル提督率いる艦隊は、空母「アーク・ロイヤル」から10機の「ソードフィッシュ」攻撃機を発進させる。
編隊はサルデーニャ島を空襲する。
これによってイタリア海軍は、イギリス軍がマルタへの補給作戦を実行中と判断する。
戦艦「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」、重巡洋艦「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」「ゴリツィア」と駆逐艦19隻がサマヴィル艦隊迎撃に出動。
また軽巡洋艦「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」「ムツィオ・アッテンドーロ」「ライモンド・モンテクッコリ」と駆逐艦5隻がマルタ島に向かう船団を撃滅する為に出動。
しかしサマヴィル艦隊は既に引き揚げていて、イタリア艦隊の出動は空振りに終わる。
軽巡部隊も補給部隊と見られる船団を発見出来なかった。
このサマヴィル艦隊の行動自体が欺瞞であった。
イタリア海軍の目がサルデーニャ島からシチリア島、そしてマルタ島に抜ける海域に注がれている内に、ジブラルタルを出港した高速機雷敷設艦「マンクスマン」が、イタリア半島北部の商業港リヴォルノの沖に140個の機雷を敷設し、そのまま気づかれずに帰港した。
この作戦名を「ミンスミート」と呼んだ。
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1943年、既に終了したこの作戦名は再利用される。
イギリス情報機関MI5は、死んだ男に無線機を持たせ、うまく開いていないパラシュートを着けてフランスに投下し、わざとドイツ軍に発見させて偽情報を掴ませる作戦を考えた。
これが無線機ではなく、偽の作戦書類に置き換えて作戦は実行された。
イギリス海兵隊ウィリアム・マーチン少佐、1907年ウェールズのカーディフ生まれ、イギリス軍統合作戦司令部所属という身分を設定された死体が、救命胴衣を着け、書類の入ったブリーフケースを持った状態でスペインのウエルバ沖にて発見される。
中立国ゆえ、死体はイギリスに返還された。
しかし書類はスペイン海軍が回収していた。
イギリスは書類返還を要求する。
書類は結局返還されるも、情報は既にドイツの諜報機関アプヴェーアが取得していた。
スペインは中立国ではあるが、独裁者フランコをかつてヒトラーとムソリーニが支援した関係で、枢軸寄りである事は分かっていた為、スペイン当局からアプヴェーアに情報が流れるのは承知の上である。
手紙の封印に細工をしていたイギリス情報部は、既に一度封印を破って何者かが読み、その後再封印された事を確認すると、アメリカ滞在中のチャーチルに
「ミンスミートは丸呑みされた」
と打電する。
ドイツはこの書類を精査する。
マーチン少佐は1943年4月22日に行われた劇場チケットの半券を持っていた。
その半券は本物である。
マーチン少佐の全ての個人情報を調査し、どこにも問題が無い事を確認した。
結果、マーチン少佐は4月22日に劇場で公演を見た後、ジブラルタルへ空路で向かい、その途中で墜落したものと結論づけた。
そのイギリスの作戦書類には
『エジプトとリビアの軍がヘンリー・メイトランド・ウイルソン将軍の指揮のもとにギリシャに侵攻する、これをハスキー作戦と呼ぶ』
『チュニジアのサー・ハロルド・アレクサンダー将軍の軍が、サルデーニャ島に侵攻するが、その際に欺瞞としてシチリア島を攻撃すると見せかける、これをブリムストーン作戦と呼ぶ』
とあった。
これによってヒトラーは「馬鹿でもシチリア島が次の目標と分かる」のを否定し、
・サルディーニャとコルシカ島とギリシャにパンター戦車部隊1個師団を含む増援を出す
・ギリシャ沖に3つの追加の機雷原を敷設し、掃海艇部隊をの一群をシチリアからギリシャに配置換えする
・ロンメル元帥をアテネに派遣する
・パンター戦車部隊2個師団を東部戦線からギリシャに配置換えする
という行動に出た。
ムソリーニは「次の目標はシチリア島だ」と意見したが、ヒトラーはこれを聞かなかった。
こうして真の「ハスキー作戦」の目標、シチリア島を手薄にする事に成功した連合国軍は、更にもう一個手を重ねて打つ事にする。
それが戦艦「陸奥」を旗艦とする特別独立戦隊によるクレタ島攻撃であった。
遺跡で有名なクレタ島は、1941年5月20日のドイツ軍の空挺攻撃によって占領されていた。
この地を拠点の一つにしていたイギリス地中海艦隊は、ドイツの航空攻撃によって痛手を受けて撤退する。
しかしドイツ軍のクレタ島占領は部分的で、一部の連合国軍将兵は撤退出来ずに山岳地帯に逃げ込み、そこに居た反独武装組織と協力して戦闘を継続している。
「陸奥」はその支援という名目でギリシャ方面に移動する事で、ヒトラーの目を完全にギリシャに振り向けようというのだ。
朝田はしばらく考え込んだ上で、アイゼンハワー中将に要請を出した。
「護衛空母で良い、上空支援の空母を出して欲しい」
ドイツの空襲でイギリス地中海艦隊は軽巡洋艦1、駆逐艦3を撃沈され、戦艦「ウォースパイト」「ヴァリアント」も損傷を受けていた。
朝田は幾多の戦いから、「陸奥」も空からの攻撃には弱いと知った。
それは今回から行動を共にする「ジャン・バール」も同様である。
アイゼンハワー中将は理解し、途中までではあるが護衛空母2隻をつける事を承知する。
「その上でだが、君たちはヒトラーに随分と憎まれていると聞く。
目をシチリアから逸らす意味からも、『陸奥』がクレタに向かっているとヒトラーに教えてやって欲しい。
何か良い考えは有るかね?」
朝田はまたしばらく考え、
「ギリシャの名物料理に挽肉を使うものが有りますか?」
と質問した。
アイゼンハワーも咄嗟には出て来ず、参謀の一人がムサカであると答える。
サルデーニャ島の料理には該当のものが無く、イタリア料理のカネローニというのを使う事にした。
1943年5月下旬、連合国軍はシチリア島とチュニジアの中間に位置するパンテッレリア島へ攻撃をかける。
10日あまり爆撃と艦砲射撃を行う。
この中に「陸奥」と「ジャン・バール」、潜水艦ながら20センチ砲を持つ「スルクフ」が参加していた。
コークスクリュー作戦である。
6月11日、パンテッレリア島は降伏。
周辺のリノーザ島やランペドゥーザ島も陥落した。
その後、ドイツ軍は連合国軍の暗号通信を傍受する。
『ムサカとカネローニ、いずれの挽肉料理を望むか?』
『カネローニは星に捧げよ、ムサカは太陽に捧げよ』
ドイツ軍はムサカがギリシャ、カネローニはサルデーニャ島と察知する。
だが星と太陽?
ああ、星条旗と日章旗か。
日章旗? もしかして戦艦「陸奥」か?
偵察のUボートはクレタ島沖合に戦艦2、空母2、駆逐艦6から成る艦隊を発見する。
だが、このUボートは別な潜水艦から雷撃され、撃沈された。
撃沈される前の通信で、そこに居る戦艦は「陸奥」であると報告をされる。
ギリシャ、サルデーニャ島方面の敵の情報について聞いていたヒトラーは、「陸奥」がクレタに向かっていると聞く。
冷静な部分で、自分たちの分析が合っていたと知り、喜ぶ。
感情的な部分では、同盟国の艦の癖に自分に盾突き、戦艦を沈めた「陸奥」への憎悪を剝き出しにする。
「敵の作戦が開始された!
サルデーニャ島の守備隊に警戒を厳にせよと命令。
それとイタリア軍にも連絡を送れ。
『陸奥』を沈めよ!
あの目障りな艦を海の藻屑と変えるのだ!!」
こうしてヒトラーとドイツ軍は、全力で「陸奥」に釣られた。
ドイツ空軍の爆撃機とイタリア空軍の爆撃機が「陸奥」「ジャン・バール」攻撃に向かう。
だが、こうなる事を予想していた特別独立戦隊は、空母から戦闘機を発艦させる。
「陸奥」も「ジャン・バール」も対空レーダーと対空砲を強化していて、十分に対空戦闘が可能であった。
「ボーグ」級護衛空母「カード」と「ブロック・アイランド」には合計36機のF4F戦闘機と12機のTBF攻撃機を搭載している。
このF4Fのエアカバーで枢軸国軍爆撃機から艦隊を守り、TBFの爆雷攻撃で潜水艦を沈めていた。
この艦隊は真の「ハスキー作戦」発動までは囮を果たすのが任務であり、防御に全ての力を割り振っていた。
独伊両軍の度重なる攻撃も、ほとんど戦果を挙げていない。
それどころか、数日間あえて沖合にいて、クレタ島に近づいてもいない。
7月10日、140機のグライダーと空挺部隊3000名がシチリア島に降下した。
真の「ハスキー作戦」が開始されたのだ。
ここに来てようやく「陸奥」は囮である事にドイツ軍も気づいた。
「よし、我々の任務は終わった。
通信を送れ、『ムサカは食い飽きた』とな」
「了解」
人を食った通信を傍受したドイツの諜報部は、これをヒトラーに見せるかどうか、悩んだという。
特別独立戦隊はクレタ沖を離脱、本隊エジプトのアレキサンドリアに向かい、護衛空母はカサブランカに引き返していった。
だが、「陸奥」と特別独立戦隊の任務は終わらない。
補給の後、今度は本当にクレタ島を攻撃する事になる。
それはクレタ島からの撤退のわずか15日後、イタリアの統領ムソリーニが失脚した事による。
地球の反対側の1942年以降の話。
この頃太平洋では、アメリカ、ハワイ連合軍の反撃が始まっていた。
艦隊に全フリし、護衛艦の少ない日本は、ハワイ海軍のやや旧式の潜水艦でも簡単に通商破壊出来た。
太平洋北中部での通商破壊は、ハワイ及び真珠湾を利用するアメリカ太平洋艦隊潜水艦部隊に任せ、アメリカは海兵隊を先鋒に米豪分断作戦の為に日本が進出したがガダルカナル島と、パプアニューギニア島にて逆襲を開始する。
海軍は、今やハワイ攻略作戦や米豪分断作戦ではないと判断。
後退を図るが、陸軍の辻参謀がこれに反対。
さらに山本五十六が、南方で決戦に及ぶ考えを示した為、ソロモン海域は日米の一大海戦場と化す。
結局補給を断たれた日本軍が1943年までにガダルカナル島やパプアニューギニアから撤退。
西太平洋や南太平洋から日本は追い出される。
この戦いに時間がかかった結果、真珠湾の基地化は更に遅れ、アメリカ海軍も難儀する。
1943年は通商破壊によって弱体化した日本と、ハワイがまだ拠点として使えないアメリカとの間で、戦闘が下火になって両軍兵力を温存する状態になる。
山本五十六は、南方からの撤収を指揮していたが、その行動を暗号解読によって読まれ、移動中に乗機を撃墜されて戦死した。
アメリカはこの暗殺計画を立てた際、山本の次は誰になるかを調べていた。
そして「山口多聞だったが、彼はミッドウェーで戦死したから、あとは誰が後任となろうが、山本以上に優秀なのはいない」という結論に達していた。
そして決戦の1944年を迎えるが、戦力が充実したアメリカ軍やっとハワイを拠点に使えるようになったのに対し、物資の乏しい日本は温存したとは言え苦しい状況に変わりなし。
日本は軍隊は充実、背後の国民は衰亡、今前線にいる戦力が失われたらもう再生する工業力は無いという状態であった。
太平洋戦線はこんな感じであった。




