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戦艦放浪記  作者: ほうこうおんち
第6章:ホノルル幕府共闘編(1941年~1942年)
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北アフリカの日系人部隊 ~ビル・ハケイムの戦い~

 伊達順之助は、ホノルル幕府の面々と会っている時は、相当な仏頂面である。

 ここは江戸時代がまだ続いているようなものだ。

「伊達の小倅(こせがれ)か」

「伊予少将のとこのボンか」

「黙れ、小童(こわっぱ)!!」

 と、極めて軽く扱われる。

 伊達順之助は明治25年(1892年)の生まれな為、1942年の今は50歳なのだが、家督を継いでいない以上、幕府的な家長制度から言って「部屋住みの小倅」でしかない。

 精一杯良く呼んでも「(バカ)殿様」であろう。


(一体いつまで吾輩は若手扱いなのか?)


 大日本帝国の華族の子弟の癖に、無法っぷりと暴力沙汰で周囲を呆れさせた順之助だが、幕末のノリのままハワイに移住し、白人と攘夷戦争を戦って来た連中の子弟は、さらに危険だった。

 確かに教養豊かで、茶の湯や和歌を詠む優雅さもあるが、日本語の言葉遣いは武家特有の横柄なものだし、何かと言えば大小の刀を抜く。

 幕府が出来て丁度50年、江戸幕府で言えば四代家綱の治世で、文治政治になっていない侍がうようよしてるのと同じ感じであった。

 マダガスカルや東アフリカ戦線で共に戦っているイギリス軍、自由フランス軍だけでなく、アフリカ人義勇兵からも

(蛮族がまた刀抜いて暴れている)

 と見られているようで、伊達順之助から見てもちょっと恥ずかしい。

 ハワイ人は酒好きな癖に酒に弱い。

 日本人も酒に弱い。

 この掛け合わせである日系人は、酒飲んで、酔って吐くか、悪酔いして暴れるかして酒場でのトラブルが酷い。

 だが、一方で戦場における剽悍さは枢軸国軍ですら賞賛するものであった。


 日本人・日系人・馬賊の部隊は今、イギリスの輸送船に乗ってエジプトに向かっている。

 スエズ運河は浅く狭い為、喫水の深い戦艦「陸奥」は航行出来ない。

 彼等は巨大戦艦と切り離され、単独で陸の戦場を目指す。




 1942年5月26日、マリ=ピエール・ケーニグ少将の自由フランス第1旅団は、リビア砂漠の中のオアシス、ビル・ハケイムにおいて、ドイツ北アフリカ軍団エルヴィン・ロンメル中将の攻撃に晒されていた。

 自由フランス第1旅団は、

・スペインの共和主義者で編成された第13外人准旅団中、第2大隊と第3大隊

・ロベール・ド・ルー大佐率いるフランス太平洋植民地兵の准旅団

・中央アフリカの植民地部隊

・第1海軍陸戦大隊

・海兵隊

・フランス正規軍第22北アフリカ中隊

・フランス正規軍第17工兵中隊

 という、雑多な部隊の寄せ集めであった。


 ロンメル将軍の狙いは、こんなオアシスではなく、エジプトとイギリスの生命線スエズ運河である。

 しかしドイツ軍の拠点はチュニジアであり、一気にエジプトまで進行は出来ない。

 元々イタリア領だったリビアのトブルクは、揚陸量こそ少ないが、補給港として最適だった。

 だが、イタリアがイギリスに先制攻撃した挙句に逆襲され、トブルクは奪われてしまった。

 このトブルク奪還が、エジプトを攻略する為の行程で重要となる。


 ロンメルはトブルクを攻めるにあたり、まず沿岸の都市ガザラに軍を向けた。

 イギリス軍はそれに引っ掛かり、ガザラ方面に主力部隊を差し向ける。

 しかしロンメルの真の狙いは、南の砂漠地帯を突破し、東方に釣り上げたイギリス軍を反時計回りに襲ってエジプトとの連絡を遮断、別動隊をもって南からトブルクを落とすものだった。

 ロンメル軍は手薄な砂漠地帯を突き進む。

 この進路にあるオアシスの一個ビル・ハケイムは、自由フランス第1歩兵旅団が守っていたが、他の場所はドイツ軍の急襲にあって既に撤退していた。

 自由フランス第1旅団は孤軍で、ドイツの迂回部隊と戦う事になる。


 戦い自体はドイツ軍優勢であった。

 しかし、優勢では意味がない。

 さっさとこんなところは突破し、ガザラ方面に出たイギリス軍の背後を遮断しなければならない。

 ロンメルは自由フランス第1旅団のケーニグ少将に対し

「ビル・ハケイムの駐屯部隊へ。

 抵抗を長引くことは不必要な血を流すことになる。

 このままでは君たちは、2日前に殲滅された2個イギリス旅団と同じ運命を辿ることになるだろう。

 武器を捨て、白旗を揚げて我々の元に来るならば、我々は戦いを終える」

 と降伏勧告をする。

 しかし自由フランス第1旅団は降伏する事無く、戦いを続ける。

 孤軍となって、なお激しく抵抗を続けた。

 ロンメルは

「この砂漠での戦いは私が知る中で、最も激しいものだった」

 と感嘆し、メレンティン参謀は

「このような激しい英雄的な防衛戦はこの砂漠での戦いを通して、これまで出会うことがなかった」 と述懐する。

 自由フランス第1旅団の抵抗は、ガザラ方面のイギリス軍を再配置させ、ドイツ軍に対処させるのに十分な時間を稼いだ。

 だが、最早自由フランス第1旅団の継戦能力は尽きようとしている。

 ケーニグ少将は6月10日までしか持ちこたえられないという報告を送る。




 ホノルル幕府軍、連合国日本軍、満州馬賊隊に対し、この自由フランス第1旅団の撤退支援命令が出された。

 作戦会議が開かれる。


「俺が馬賊部隊を率いて、不足している水を届ける」

 伊達順之助がそう言ったのに対し、幕府軍第二陣を指揮する酒井了次中将は異を唱える。

 航空支援ですら失敗しているのに、ドイツ軍の目をかいくぐって馬等が行けるものか、と。


 ホノルル幕府は武士の軍隊であり、当主が討ち死にすると、次弟や嫡男が後を継いで軍を維持する。

 だから第二陣は第一陣よりは劣る。

 ……のだったが、今回はやや趣が違った。

 予備役に入った世代交代後の世代を、第一陣として送ったのである。

 理由は、西部戦線の悲惨さを知らずに部隊投入し、勇名と引き換えに精鋭部隊を全滅させた第一次世界大戦を教訓に、訓練は十分だが家督的にはもう役割を終えた「死んでも良い」者たちを送り、様子を見た上で本命を送るという事になった。

 故に第一陣はチャーチルの目等から見ると「死にたがり」で、かつ「妙に学習能力が高い」のであった。

 彼等の情報は全てホノルルに送られ、武器や戦術の分析をした上で、本命である「鬼玄蕃」を司令官とした部隊を派遣したのだ。

(ダンケルクの捨て奸を指揮した松平定富は、最初から死兵を指揮する役割であり、家臣だけを死なせる訳にはいかないと最初から最後は腹を切る心で出陣したのである)


 戊辰戦争で薩摩藩や佐賀支藩武雄藩という強兵を相手に互角に戦った庄内藩。

 その司令官が鬼玄蕃こと酒井了恒で、その孫が了次(のりつぐ)了瞬(のりつな)の兄弟である。

 了恒の子は3人いたが、いずれも力量不足で「玄蕃」の称号を継承出来なかった。

 ドイツに留学し、ドイツの戦い方を学んだ孫の内、長兄の了次が「玄蕃」の称号と北斗七星の旗「破軍星旗」を継承したのである。

 このドイツの戦法を熟知する将は、前近代的な馬賊の方法等で、補給が出来るとは思っていない。


「かの松平元康(徳川家康)は、織田方に包囲された大高城に兵糧を運び込んで大手柄を立てた。

 その幕府の後継者が、一体何を言ってるのやら」

 順之助の挑発に酒井玄蕃了次は乗らない。

「神君は計を用いた上で兵糧を運び込んだ。

 伊達殿にも計が有れば聞くが、無ければ各個撃破されるだけ。

 勝手な行動は承認できん」

「策くらい有るぜ」

「聞こう」


 聞いた後に、酒井玄蕃はこう嘆いたという。

「先祖同様、食わせ者よ……」




 やり方は実に簡単なものだった。

 包囲しているロンメル指揮下の内、イタリア軍の陣地に多数の砂漠の遊牧民が押し掛けた。

 彼等は「買ってくれ、買ってくれ」と食糧やくず鉄等を差し出す。

 イタリア人が喜んだのは、イギリス軍の陣地を漁ったら出て来たというトマト缶だった。

「よし! これでパスタが作れる!!」

 イタリア人はトマト缶からトマトを取り出し、残った水とトマトから絞った水を缶に貯め、それに折ったパスタを入れて茹でると、取り出したトマトを和えて、一品作ってみせた。

 こういう品物を食べさせて喜んでいるところに、サイドカーに乗ったドイツ軍将校が来た。

「ロンメル将軍の指示で、降伏勧告を渡しにフランス軍陣地に渡る。

 これが将軍の命令書だ。

 通過するぞ!」

 イタリア軍はそういう事ならと、サインを横目で見て包囲の一部を解いた。

 食糧や酒に注意が行っている感はぬぐえない。

 遊牧民たちは

「あっしらも行っていいですかね?」

「あちらの旦那とも商売したいんで」

 そう言う。

 パスタとワインとオリーブ油で機嫌の良いイタリア兵は

「武器は持っていないな?」

 と言い、持っていない事を確認すると、

「フランス野郎どもによろしくな。

 さっさと降伏しろ、と伝えてくれ」

 と言って通した。

 ラクダや馬がドイツ将校の後をついて行く。

 ドイツ人の叫び声が聞こえる。

「いいじゃないか。

 ドイツ人も固いなあ。

 美味い飯食わせた方が、フランス野郎どもも降伏したくなるだろうに」


 察しの通り、これらは伊達順之助と、彼が契約した遊牧民や、イギリス人の公文書偽造を得意とする工作員の仕事であった。

 彼等は隠れて行動するのではなく、イタリア軍陣地というセキュリティホールを堂々と通過して、フランス陣地に水と食糧と、脱出時の作戦を届ける事に成功したのだった。


 酒井玄蕃は

「伊達というより、真田あたりがやりそうな策略だな」

 と漏らした。

 周囲は

「あんな前時代的な手が通じたのが驚きです」

 と言うが、ヨーロッパ留学をしていた酒井玄蕃は

「イタリアはあんなものさ。

 ドイツ相手だったら、ああも上手くはいかない。

 イタリアは不真面目なのではなく、こういう地道な包囲戦になると緊張感が途切れる瞬間がある。

 それに、飯が美味い国だけに、飢えた相手に同情的になったりする。

 だから、分かる奴は分かった上で、あえて見逃したんじゃないか」

 と言った。

「では伊達の小倅の策は、たまたま上手くいったと?」

「いや、あの食えないオヤジはそういう気質も読んだ上で(かぶ)いてみせたのよ」




 6月9日午後5時、自由フランス第1旅団に撤退命令が出た。

 ドイツ第15装甲師団に馬賊部隊が攻撃する。

火炎瓶(モロトフ・カクテル)だと??」

 馬賊はフィンランドの戦場で、多くのソ連戦車と戦って、撃破の仕方を学んでいた。

 ドイツ戦車は、当時のソ連戦車と同じくガソリンエンジンである。

 酒を売ると言って持ち込んだ瓶に詰められたガソリンを、砂漠の熱気と自己の放熱で発火寸前のエンジンルームに叩きつける。

 退路を開いた馬賊に続き、自由フランス第1旅団各部隊が脱出する。

 幕府軍及び連合国日本軍は、負傷者を背負って戦場から離脱する。

 こうして電撃作戦(ブリッツクリーク)の本家もびっくりの高速撤退を完了させた。


 ロンメルはそれを知らず、6月11日にビル・ハケイムに大量の弾薬の雨を降らせ、戦車を突入させる。

 そして空振りに終わった事を知る。

 この自らの攻勢を空振りに終わらせた、数日前の自身の使者と偽った自由フランス軍救援部隊について聞いた時、ロンメルは

「どこのペテン師かは知らんが、褒めてやろう。

 第一にこの私を出し抜いた事を。

 第二にあの誇り高いフランス人たちを救った事を。

 また戦場で会おう!」

 と言い、メッセージとしてエジプトに送った。


 北アフリカの戦いはまだ終わっていない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ほうこうおんちさんの描く食事シーンは、ミョーにリアリティーがあっておいしそうなのですよね。 うわ!、『鬼玄蕃』を継ぐ者が現れたのですね、こりゃコワイですね。 微妙に詳細が違えども、世界規…
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