大日本帝国海軍による総括
番外編です。
「陸奥」はしばらく修理中ですので。
タイ王国とフランス・インドシナ連邦との戦争に投入された戦艦「扶桑」の情報は、詳細に本国に報告された。
たった一発の命中魚雷により、装甲を接続する鋲が壊れ、船体の鋼板も広範囲に渡ってヒビ割れ、竜骨にも歪みが生じていた。
推進軸も曲がったようで、最大戦速が出せなくなった。
機関部にも損傷が有るようで、もう「扶桑」は18ノットまでしか出せなくなった。
「扶桑」の問題は、他の日本の戦艦、高速戦艦にも当てはまる。
「扶桑」より艦齢の古い「金剛」級4隻は要注意であろう。
現在建造中のマル3計画1号艦、帝により「大和」の名が与えられた戦艦は、装甲の接続の仕方、水中防御、対水雷盾を強化して産まれる事になる。
「扶桑」が一発の魚雷で深刻なダメージを受けた事に、日本海軍はそれ程衝撃を受けていない。
むしろ水雷屋、巡洋艦や駆逐艦を使った夜戦部隊の専門家たちは
「やはり我々の主張は正しいのだ」
と誇らしげである。
フランス・インドシナ連邦極東艦隊第7戦隊を率いて戦ったレジス・ベランジェ大佐は、横須賀に招待され、日本海軍の水雷屋が挙って話を聞いた。
一方、第一艦隊ら「砲術屋」「大砲屋」も結果に納得している。
やはり「月月火水木金金」といった猛訓練を行わないと、戦艦といえど軽巡洋艦に翻弄されておかしくない。
精神論がどんどん強化されていった。
そんな中、全く別な解釈をし、研究を進めるチームもあった。
連合艦隊司令長官山本五十六大将らの「航空主兵論者」である。
「蘇芬戦争(冬戦争)の事は聞いたかね?」
山本五十六が参謀たちに問う。
「昨年のタラント空襲で、航空機による戦艦撃沈は可能と分かった。
では、敵母港に突入し、幾多の空襲を受けた『陸奥』をどう評価する?
イギリスの複葉機『ソードフィッシュ』の魚雷で足止めされたドイツ戦艦『ビスマルク』をどう見る?」
山本の問いに、頭の古い参謀は
「やはり、作戦行動中の戦艦を航空攻撃で沈める事は無理なのでは?
『陸奥』は生き残りましたし、『ビスマルク』にトドメを刺したのは戦艦部隊です」
と回答する。
それに対し、第一航空戦隊参謀の源田実中佐は
「水平爆撃でも当たるって事ですな。
一方で、雷撃が無いと致命傷を与えられない。
雷撃は一撃で『扶桑』を行動不能に出来る。
一撃で『フッド』を葬った『ビスマルク』を行動不能に出来る。
フランス艦がやったように、上(上部構造)を叩いてから下(水線下)を叩くのがよろしかろう」
と言った。
山本は
「戦艦は2隻有れば十分だ。
旗艦とその予備である。
『扶桑』のような旧式艦に出番は無く、『長門』級ですら水平爆撃に対抗出来ない。
航空攻撃こそ今後の戦争において重要だよ」
水雷屋、砲術屋、航空主兵論者ともに教訓を得た。
そしてこれが日本の不幸に繋がる。
航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦の建造を各派閥が主張する。
航空魚雷、演習用砲弾、800キロ爆弾に改造する砲弾、最強の酸素魚雷、こういったものも無料ではない。
結果、こうなった……。
「駆潜艇だけど、予算を艦隊の方に割かざるを得ず、予定数の調達は出来ない」
「砲艦は新規建造中止になりましたよ、艦隊の方が優先になったので」
「新型海防艦の調達は先延ばしになったから、旧式艦をなんとか使え」
後の世で言うところの「シーレーン」防衛戦力が戦闘艦にリソースを食われて後回しとされた。
これがどのような結果を生むのか、海軍航空本部長兼海軍次官代理の井上成美中将は少なくとも悲観的に見ているようだが、他は戦力の充実からこちらには目を向けていないようだ。
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山本五十六は、珍しく1人で小舟を出して釣りをしている。
護衛も含めて部下に「着いて来なくてよろしい」と言うのは珍しい。
彼はドイツとの同盟に反対した事から、国士と呼ばれる軍国主義青年から命を狙われているのだ。
いくら一般人が近づけない実戦部隊の連合艦隊司令長官になっているとは言え、艦に居ない時は護衛は常につけられている。
そんな山本の小舟に一艘の短艇が近づいて来た。
海軍の軍服を着ているし、気に留める者は居ない。
「山本さん、お久しぶりです」
「待ってましたよ、『在原業平』さん」
「ジョージ在原です、変名の由来で呼ばないで下さい」
かつて十五代将軍徳川慶喜は、世界情勢や日本各地の情勢を探る為に、多くの密偵を放った。
その事実自体知られていない。
知られていたら、それは諜報活動失敗だから。
大政奉還後、一部は佐幕派諸藩と共に戦ったりしたが、その後伊賀同心や甲賀同心であるという事が分かるような苗字を変え、世界各地に潜入した。
服部や百地、多羅尾や鵜飼という苗字から、文化人の名前に変えた。
上位の者は六歌仙から苗字を得て、在原や大友、文屋を名乗っている。
俳諧師は低く見られていて、如何に有名人とはいえ松尾(芭蕉)や小林(一茶)等は下位の隠密に与えられた苗字である。
この内、アメリカに縁を作った松尾特務中尉と名乗る男が、戦艦「陸奥」艦長の朝田大佐の連絡役を勤めている。
ジョージ在原と名乗る男は、国籍もアメリカに変え、そこで商店を開き、日系人町の顔役として下院議員や州議会に顔が効くようになった。
彼クラスだと、工作や諜報ではなく、もっと上流の情報を得る立場である。
「アメリカはどうですか?」
「山本さんなら分かっているのじゃないですか?
失望しています。
折角チャイナから手を引く案を出したというのに、それに乗らずにベトナムに手を伸ばすとは……」
「やはりそうですか……。
アメリカの戦争準備は?」
「日系人である私に詳しい情報は来ませんから、新聞情報くらいですよ」
「では、真珠湾の基地化は……」
「あと数年で完成しますね。
世界恐慌とホノルル幕府の将軍不在時に、カラカウア2世がルーズベルト大統領の要望を呑みました。
パール市国は正式にアメリカの海外市となり、そこに資金投入されて基地化が急ピッチで進んでいます。
まあ、私も資材の調達で儲けさせて貰ってますがね」
「そうですか、あと数年で完成ですか……」
「それよりも山本さん、日本はどうしてドイツに近づいたのですか?
いや、我々の失態だって事は分かってますが、どうしても言わざるを得ない」
慶喜の隠密たちは、情報収集とそれを旧佐幕派の政治家・軍人・財界人に伝えて、裏から支援をしていた。
それが慶喜の命令だったのだ。
海外に置いても、政治家や企業家、退役軍人等と親しくなり、地域に溶け込む「草」となる事を最優先とした。
その一方で、「新聞」というものを軽視してしまった。
露骨な働きかけを行わず、地道に裏から行動する。
そうやって親日派や、日本を利用したいから日本を擁護する者を作っていったのだが、そういう活動は新聞の反日報道で一気に流れを変えられる。
中華民国というのは、そういう世論作りに長けている。
いや、中華民国よりも、大陸で蒋介石と日本を共倒れさせたい勢力の、更に後ろにいる共産主義者かもしれない。
ルーズベルト大統領の側近は、共産主義に近い思想の者が多い。
またルーズベルト大統領自身も、政策判断を間違う程ではないが、親中派であった。
新聞軽視は日本においてもそうである。
「瓦版」「読売」と軽視していた新聞が、強硬論を書き立て、国民がそれに乗る。
新聞の戦争を煽る軽率さは認識していたが、国民がここまで簡単に乗せられるとは。
メディアというものを軽視したツケで、日本は米英仏に渡った隠密たちの望まぬ方に動いていった。
だが、山本五十六にも言いたい事はある。
「あんたたち隠密衆だって一枚岩じゃないでしょ。
確かに長岡の僕、盛岡の米内さん、仙台の井上君と元賊軍出身の者にアメリカの情報を細かに教えてくれた。
だがドイツに行った者は、ヒトラーに感化され、やはり賊軍出身の陸海軍軍人がドイツ贔屓になるような情報を流しているじゃないか。
庄内の石原退役中将、盛岡の東條陸相、板垣征四郎将軍、僕と同郷の及川古志郎海相に、ドイツの情報を教えたのは君たちの仲間だろう。
日本に居る者だけが軽率ではない」
「分かってはいますがね……」
しばらく沈黙する両者。
「なんとか戦争は避けたいですが、難しいでしょうね」
「在原さん、アメリカが戦争に打って出るなら、何時頃ですか?」
「欧州情勢にも拠りますが、再来年、1943年、昭和十八年には準備が整うでしょう」
「それ以前のアメリカは弱いかね?」
「準備不足ですからね。
……山本さん、ダメですよ、仕掛けてはなりませんからね」
「それこそ分かってはいる……。
だが……」
(やらざるを得ない状況が生じるかもしれない。
その時は航空攻撃しか無い)
また沈黙が続いた後に、山本が話題を変える。
「戦艦『陸奥』はどうなってますか?
朝田さんは元気ですかね?」
「情報によると『陸奥』は修理中ですが、装甲を大幅強化しているようです。
先日のドイツ戦艦『ビスマルク』追撃戦で、英国の『フッド』が一撃で沈んだでしょう?
『陸奥』と『フッド』は甲板の装甲は大して変わりませんからね。
折角速くなった足を遅くしてでも装甲強化なようです。
朝田大佐には……すまない事をしました。
松尾はユダヤ人に深入りし過ぎだ。
まあ、満州にユダヤ人国家をという頃は良かったかもしれないが、今でも奴らとつるんでいて、ミイラ取りがミイラになったようなものだ。
松尾からの情報と協力者がある限り、朝田さんと『陸奥』は反ユダヤと戦わざるを得ないでしょう」
「日本の戦艦が反ユダヤのドイツと戦うのですか……。
奇妙なものですな。
何か、応援したくなって来ました」
「いけませんよ、山本さん!
貴方が軽挙しては!」
1941年初夏、「世界」大戦はまだ太平洋方面には及んでいなかった。
前作「ホノルル幕府」からの話です。
ホノルル幕府とハワイ王国の窮地を、「何故か」世界情勢にやたら精通していた徳川慶喜が救いました。
その「何故か」のネタバラシです。
そしてホノルル幕府がチート化する前のアメリカと痛み分けに持ち込んだ為、ハワイ王国は存続し、真珠湾は高額でアメリカが「商業用に借りている」状態で、1935年頃まで来ました。
ところが、1931年の世界恐慌でハワイ王国の収入が激減した事、
1933年に四代将軍ジョン・ドミニス3世が死亡し、後継ぎが居なかった事で、
臨時に国王カラカウア2世が幕府の代表も兼任します。
その時に、ワイキキ軍縮条約の際に軍事基地化しないと決まった真珠湾を、軍事基地として永久租借したいという申し出がアメリカのルーズベルト政権からなされました。
カラカウア2世は迷った挙句、軍縮条約が切れる1936年以降なら、という条件で受諾。
代償として多額の資金を得ました。
真珠湾永久租借に伴い、アメリカの代理として真珠湾を管理していたハワイ国内国家パール市国は役目を終えて消滅、米領パール市になりました。
やはり国王が政治の全権を握ると負担が大きいとされ、ホノルル幕府は将軍を復活させます。
比呂の松平容保(旧会津藩主)、古奈の松平定敬(旧桑名藩主)と同じ高須四兄弟の徳川慶勝(旧名古屋藩主)の血筋、徳川義恭を迎え入れて五代将軍としました。
この時、古奈松平家が預かっていた「源氏長者」も継承しています。
文弱と言われた徳川義恭を教育していた大老・林忠崇は、1941年1月に死亡していて、今は五代将軍がカラカウア2世から権力譲渡されて軍事や外交を仕切っています。
ホノルル幕府は、1939年に勃発した第二次世界大戦において、同盟国イギリスとフランスの要請を受けて巡洋艦隊を派遣。
ただしドイツUボート部隊はインド洋・太平洋方面には出て来ていない為、第一次世界大戦同様安全な海域での護衛任務だけしていました。
幕府陸軍もパリに出撃。
しばらく「インチキ戦争」を経験。
しかし1940年5月にフランスが降伏し、ダンケルクの撤退戦まで大陸で戦い続け全滅。
その後ヴィシー政府と自由フランスに分かれると、ホノルル幕府は自由フランスに加担、自由フランスのド・ゴールの依頼を受けて幕府軍第二陣が出動しました。
ハワイ王国は幕府留守部隊が守るのみで、次に何かある時は久々の「動員」となります。
前作「ホノルル幕府」の終了した1922年から1941年6月までを駆け足で解説しました。




