コーチャン島沖海戦
番外編です。
「陸奥」はしばらく修理中ですので。
レジス・ベランジェ海軍大佐は、タイ王国海軍を歯牙にもかけていなかった。
彼は小艦隊の指揮官でしかない。
しかし、故にこそ艦隊で考えず、戦術練度士気で物を見ていた。
確かに3万トン級の戦艦というのは脅威だ。
だが、使いこなせるのか?
第一次世界大戦後のフランスですら、戦艦の維持は大変だったのだ。
タイ王国が継続して戦艦を維持できる国力を持ってはいないだろう。
そして、10年前に巨大戦艦を借りて運用していても、それから10年も間隔が出来たなら、練度というものはリセットされる。
甘く考えてはいないが、恐れる程ではない。
「流石に舷側灯を点けて眠りこける程のアマチュアではないな。
哨戒も立てて、夜間警戒もしているようだ。
だが、まだ我々の存在を把握はしていないようだな」
月明りだけで静かに侵入したフランス・インドシナ艦隊第7戦隊は、ここに来て通報艦4隻を切り離し、戦艦には軽巡洋艦「ラモット・ピケ」だけで当たる事にした。
「ラモット・ピケ」は33ノットを出せる為、その快速でもって敵を翻弄出来る。
しかし通報艦は17ノットから20ノットと、敵戦艦(日本から情報を貰ったものが正しければ)よりも低速である。
無理をせず、通報艦はタイ海軍の水雷艇を潰せば良い。
フランス海軍「ブーゲンヴィル」級通報艦は排水量2600トン、13センチ砲3門
タイ海軍「トラッド」級水雷艇は排水量470トン、7.62センチ砲3門、魚雷発射管2基
通報艦は無理をせず、格下の水雷艇を潰すが良い。
「ラモット・ピケ」は「扶桑」に対し魚雷発射の好位置につけようとした。
だが、その前に流石に発見されてしまった。
探照灯が一斉に照らされる。
36センチ主砲が旋回を始めた。
「小型艦相手に主砲か……。
当たれば一たまりも無いな。
だが、当たらなければどうという事も無い!」
ベランジェは全速力を出すように命じる。
と同時に砲撃を開始。
15.5センチ速射砲、7.5センチ高角砲が「扶桑」目掛けて発射される。
同時に通報艦「デュモン・デュルヴィル」と「アミラル・シャルネ」はタイ海軍水雷艇「ラヨン」、「ソンクラ」、「チョンブリ」を襲撃する。
通報艦「ツール」と「マルヌ」は、タイ海軍敷設艇「ノンサライ」と漁業保護艇「ウトック」を砲撃する。
技量の差は歴然たるものであった。
タイ海軍の各艦は命中弾を数多く浴び、炎上を始める。
「扶桑」は軽巡洋艦の砲等どうという事も無いのだが、火災を上手く消せずに右往左往しているのと、主砲による砲撃をしようとあたふたしている。
やっと主砲が火を噴いたが、
「どこを狙っている、下手くそが!!」
とフランス海軍の士官たちが笑うレベルであった。
小艦艇を相手にする場合、舷側の大量の副砲で数を撃つのがセオリーである。
だが、巨艦を手にしたタイ海軍は、6基ある主砲で勝ちたかったようで、居るのは分かるが距離の掴みづらい暗闇の海に向かって、各砲塔バラバラに撃って来る。
さらにタイ艦隊にとって都合が悪い事に、霧がかかって来た。
炎上しているタイ艦は狙われるが、霧に隠されているフランス艦はタイ側からは見えない。
だが、流石に36センチ砲弾、海面で爆発して上げる水柱が巨大で、砕けた波が「ラモット・ピケ」を濡らす。
15センチ副砲も火を噴き始めたが、どうにも遅い。
「練度不足だな」
と嗤うベランジェだったが、彼らがヨーロッパ人なだけに見えていない現実もあった。
日本海軍は戦艦「長門」以降、戦艦の副砲や軽巡洋艦の主砲には14センチ砲を使用している。
15センチ砲と14センチ砲、僅かな違いだが、砲弾を一人で運び、装弾出来る重さかどうかの境界がそこにあった。
フランス人ならば15センチ砲弾を1人で運び、装填すると、次の弾丸を持った者と交代するから「速射」が可能だ。
日本人同様身体の小さいタイ人は、15センチ砲弾を2人で運び、苦労して装填する為、発射間隔は必然的に長くなる。
高速で移動する小型艦(といっても軽巡クラスだが)を撃つ為に使うには、これは致命的。
「よし、魚雷を放つぞ」
戦艦は軽巡洋艦の主砲程度では沈まない。
砲弾が爆発し、上部構造の可燃物が燃えているに過ぎない。
夜戦だから派手に燃えているように見えるが、装甲に守られている部分にダメージは全く無く、それを相手が理解すれば落ち着いて対応して来るだろう。
パニックに陥っている今が好機である。
「ラモット・ピケ」は砲撃を止め、撤退の素振りを見せる。
「扶桑」は追撃をするでも無く、速度を緩め、消火に専念し始めた。
「甘い。
敵は追いかけて叩くか、そうでないなら安全地帯まで後退してからにせよ。
此処はまだ戦闘海域だ」
ベランジェはそう言うと、手で反転を指示した。
動きが遅くなった「扶桑」に対し、好位置につけた「ラモット・ピケ」は、3発の魚雷を放った。
その内の1発が、後部艦橋と5番主砲の間に当たる。
日本海軍はシャム王国時代に戦艦「陸奥」を強引に貸し出した際、所謂ダメージコントロールというものもシャム海軍に伝授している。
魚雷が当たった箇所からの浸水に対し、それを防ぐべく丸太や雑巾で応急修理を行うが、命中箇所とは違う場所からの浸水も始まる。
「扶桑」は艦齢が古く、艦体にガタが来ている。
魚雷命中の衝撃で、他の部分にも亀裂が生じ、やがてそこが裂けて浸水が始まった。
戦闘には不慣れで醜態を見せたタイ海軍だったが、ここでは残酷だが正しい判断をする。
浸水の始まった区間を放棄、ダメコン作業員に引き揚げを命じると、全員戻った事を確認せず、早々に防水扉を閉めた。
実際、十数人程の作業員が取り残され、行方不明になった。
数百トンの浸水で艦は傾斜するが、何とか沈める事無く安全地帯に引き上げる。
中破というところだ。
水雷艇、敷設艇、漁業監視艇も撃破される、タイ海軍の大敗であった。
砲火を聞きつけ、第一戦隊の戦艦「山城」が駆け付けて来たのは夜が明けてからだった。
フランス極東艦隊第7戦隊は悠々とサイゴンに引き揚げた後である。
タイ海軍は以降、進撃を見合わせた。
日本から超弩級戦艦を2隻貸して貰いながら、小艦隊に大敗した海軍には批判が殺到した。
タイ陸軍の方は、順調に旧領を回復しているだけに、尚更であった。
戦中ではあったが、査問会が開かれる。
やはり問題は練度不足であった。
巨大な戦艦も、借りて半年では使いこなせない。
まして2隻であった為、かつて「陸奥」こと「イサーン」で訓練した後退役したものの、再招集された水兵たちは「扶桑」「山城」に二分されての配属となった。
不足分は本物の「トンブリ」「スリ・アユタヤ」の乗員を充てたが、ようやく艦内で迷子にならなくなった程度の熟練度でしかない。
また、「陸奥」に搭載されていた14センチ砲と、「扶桑」の15センチ砲の使い勝手の差も克服出来なかった。
司令官、艦長ともに処罰を受けた。
だが、それとは別に
「やはり、元の『トンブリ』と『スリ・アユタヤ』を返して貰おう」
となった。
使いこなせない巨大戦艦より、使い勝手の良い小型の海防戦艦。
タイ王国は、二見甚郷駐タイ大使を介して、その要求を伝えた。
と同時に、日本からは停戦仲介の申し出がされる。
今や両方友好国となったタイとフランスの戦争、ここらで良いだろう。
第7戦隊の圧勝を聞いたフランス・インドシナ軍は反撃に転じる。
外人部隊を中心に、バッタンバン平原南部でタイ東部軍に逆襲し、アンコールワット周辺から追い返した。
タイ軍は爆撃機を繰り出す。
カンボジア上空で空中戦が繰り広げられる。
空の戦いも、練度の差でフランス・インドシナ軍がやや有利。
1941年1月下旬はフランス・インドシナ有利の戦況であった。
しかし、フランス・インドシナ軍は孤立無援であり、現状が最も有利な状況と言えた。
インドシナ総督は日本からの停戦調停を受け入れる。
タイのイサーン方面軍は1904年にフランスに割譲したラーンチャーン県を奪還した。
東部方面軍は1907年にフランスに割譲した穀倉地帯バッタンバンを奪還。
しかしコーチャン島沖海戦でフランスが勝利した為、バッタンバンの沿岸部はフランスが維持。
また、海軍の敗戦によって東部方面軍の足が止まった事から、フランス・インドシナはアンコールワットを含むシェムリアップを維持した。
タイにとって、海軍の敗戦は痛いものだった。
それでも両国とも、ここが落とし所と見て、この状態を条文として纏めた東京条約に署名する。
「ところで……」
「何でしょう?」
「うちの『トンブリ』と『スリ・アユタヤ』返して下さい」
「あー、あー、あれねえ……。
えーと、どう理由を付けましょうか……」
「可能な限り貴国が我が国を支援しようとしてくれた。
それで国民は納得してますから、返して下さい」
「分かりました、分かりました」
「両艦ともどうなりました?
まさか、スクラップにしていませんよね?」
「いやいや、そんな事はしませんよ。
ちゃんと強化するって言いましたよね」
「強化と言いつつ、あんな戦艦持って来たから不安なんです!
まさか、また魔改造してませんよね??」
「大丈夫ですよ。
ちゃんと普通の改装をしてますから」
そうして送り返された本物の「トンブリ」「スリ・アユタヤ」は八糎平射砲単装4基が12.7センチ高角砲単装4基に代わり、機関が強化されて18ノットに速力が上がっていた。
重くなった事と、速力アップの為に艦首と艦尾がやや延長され、予備浮力を増している。
代わりに航続距離は低下した。
タイ海軍でも理解可能な改造であり、扱い切れる換装である。
一方、タイ海軍貸し出しの「山城」はともかく、「扶桑」は
「ああー、こりゃダメだ」
と回収要員が見て、結局タイ海軍に譲渡するになる。
「困ります!
うちじゃ扱い切れません!
持って帰って下さい」
と言われても
「(五)計画もあって、日本の工廠に空きが無い。
浮かべておくだけで良いので、頼む」
と日本がタイに頼んで、置いて貰った。
こうして戦艦「扶桑」は、姉妹とは異なる運命を辿る事になる。
……そしてコーチャン島沖海戦の敗戦が、彼女の最初で最後の戦いとなったのであった。




