フランスの降伏がもたらした混乱
番外編です。
「陸奥」はしばらく修理中ですので。
「奇妙な戦争」は戦艦「陸奥」がフィンランドから撤退した1940年5月に、急展開をした。
ドイツ軍が一転、フランスに攻め込んだのである。
第一次世界大戦を想定したフランスの要塞線は機能せず、ドイツの新戦術「電撃作戦」の前に46日で降伏に追いやられた。
世界を分割して来た二大植民地大国の1つが敗れたのである。
フランスは主権国家たるをドイツに認められる。
アルザス地方をドイツに割譲し、パリを含む北部と大西洋沿岸をドイツに、南仏グルノーブル周辺はイタリアに占領されたが、残る地域はドイツ同盟国フランスとして残される。
臨時首都を置いた都市名からヴィシー政府と呼ばれる存在である。
ドイツ総統ヒトラーは、フランスの莫大な海外植民地を重荷に感じた。
確かに領土としては魅力的だが、現在のドイツにそれを維持する兵力は無い。
それならばフランスを自陣営として、フランスに管理させた方が良い。
フランス海外領はとりあえずヴィシー政府の統治下に置かれた。
一方、ロンドンに亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴールは、対独抵抗運動を国内外のフランス人に呼び掛ける。
ド・ゴールはペタン大統領とヴィシー政府を認めず、「自由フランス」という亡命政権を打ち立てる。
そしてフランス植民地を奪い、そこを拠点に活動する事になる。
1939年、シャム王国はタイ王国と国号を改めた。
このタイ王国は、19世紀後半にフランスが東方の領土を奪ったという歴史を持つ。
今、フランスは弱体化している。
タイのピブーン政権は、ヴィシー政府に対し1893年の仏泰戦争で割譲したラオスとカンボジアのバッタンバン、シェムリアップ2州の返還を求めた。
ヴィシー政府はこの要求を拒否する。
タイは軍事行動に出ようと考える。
何故ならば、フランスの壊滅を見たタイの友好国大日本帝国が、ベトナム北部へ進出をした為、早く手を打たないと仏領インドシナ全域を日本に奪われ、返還要求をしづらくなってしまうからであった。
タイは、かつて日本から戦艦「陸奥」を預かった。
日本には貸しがある。
ピブーン政権は日本と交渉し、旧タイ領は自力で取り戻すから手をつけないで欲しいと要請した。
日本の米内光政総理大臣はしばし悩んだ上で、回答を保留。
そして、インドシナへの侵攻について日本は関わらないという返答と、もう一つ、タイ海軍の保有する海防戦艦の強化を申し出た。
タイ海軍は、戦艦「イサーン」として運用していた「陸奥」を日本に返却後、沿岸防御の為の海防戦艦を日本に発注した。
それが「トンブリ」級である。
「トンブリ」は排水量二千トンの艦体に、20センチ連装砲を2基搭載している。
速力は15.5ノットで、日露戦争時の巡洋艦と同じ程度の戦力であった。
「トンブリ」とはタイの古い国号の1つである。
同型艦「スリ・アユタヤ」はタイの古都の名前である。
この2隻をタイ海軍は主力としていた。
それを日本が強化改修するから預かりたいと言う。
日本の機嫌を損ねたくないタイは、渋々だがこれに従った。
米内光政は、独伊との提携反対派である。
フランスが倒れた中、ヴィシー政府の植民地を奪う軍事行動をすべきで無いと考えていた。
しかし陸軍は独伊の快進撃に乗り遅れるな、という主張を持つ者が多い。
インドシナ北部進駐もその判断による。
陸軍は、独伊との提携反対派の米内政権打倒を始める。
米内内閣は1940年7月22日、辞任した畑俊六陸軍大臣の後任を得られず、総辞職に追い込まれた。
陸軍大臣は現役の陸軍将校から出す事になっていて、畑が辞任した後に陸軍が後任を誰も出さなければ、政権は崩壊せざるを得ない。
そして日本は、第二次近衛文麿内閣となった。
陸軍はこの時、ちょっとした意趣返しを海軍に対して行う。
タイに、「トンブリ」「スリ・アユタヤ」の改装工事が出来たと連絡し、艦を送り返した。
受け取ったタイ海軍は、目を丸くする、顎が外れるという感じの衝撃を受けた。
「これは何ですか?」
タイ海軍の関係者が、回航して来た日本海軍の軍人に聞く。
目の前にあるのは、「トンブリ」級とは似ても似つかぬ、どう見ても二千トンではなく、一桁多いトン数の艦であった。
「『扶桑』と『山城』ですが、何か?」
「いやいやいやいや、私が知ってる『旧国名』は77メートルしかなかったのですが」
「拡張しました」
「主砲は20センチ連装砲でしたよね?」
「36センチ連装砲6基に強化しました」
「艦体が小さいから大きな機関を乗せられず、足が遅かったんですよ」
「全くその通りです。
『扶桑』は21ノット出すのが精一杯です」
米内光政は、タイから主力艦を取り上げる事で、タイの独伊側についた軍事行動を止めようと考えていた。
米英派の米内にしたら、独伊と協調路線を採れば米英との関係が決定的に悪化する。
日本だけでなくタイにもその道を歩ませたくなかった。
それに対し陸軍は、タイにも一緒に独伊と組んで貰おうと考えた。
そこで海軍の強硬派とも話し合い、非常事態になった場合は返して貰うという条件で、「扶桑」「山城」をタイに貸し出す事にした。
日本海軍の仮想敵国はアメリカである。
将来の対米戦争で、旧式な上に足が遅く、設計上の欠陥を持つ「扶桑」「山城」の出番は無いと判断していた。
「扶桑」「山城」は、36センチ連装砲を6基搭載する。
それだけなら「伊勢」「日向」という戦力として考えている戦艦と同様なのだが、「扶桑」「山城」には設計ミスがあった。
主砲の配置は、前甲板に2基、後甲板に2基、艦体中央に2基なのだが、この中央部の砲の配置に問題がある。
煙突を挟んで前後に主砲が配置されているのだ。
1番と2番の主砲を1つの戦闘群、5番と6番の主砲をもう1つの戦闘群として砲戦を指揮した時、煙突で分断された3番と4番は統一指揮がしづらいものだった。
また、この配置はバランス良く、均等に砲が配置されている。
その為、全砲斉射を行うと爆風が艦全体を覆ってしまい、艦の上部構造に損害を与えてしまう。
設計が、第一次世界大戦で多くの戦艦・巡洋戦艦の弱点を露わにしたユトランド沖海戦の前であり、当時の世界各国の戦艦共通の「上からの攻撃に弱い」という弱点を持っていた。
同型艦として造られる筈が、次期の関係で設計を見直した3番艦「伊勢」と4番艦「日向」は、3番と4番の主砲を煙突後方に一纏めにして配置し、爆風問題も解決し、若干ではあるが「上からの攻撃」に耐える甲板の水平防御も強化した。
これが扱いの差に繋がり、「伊勢」「日向」は「長門」と共に主力戦隊、「扶桑」「山城」は練習艦扱いとされる。
しかし、こういう贅沢が許されるのは世界で日本の他は、イギリスとアメリカくらいであろう。
この2隻をタイに持って来たならば、「陸奥」の時程ではないにせよ、周囲を圧倒する強大な戦力になる。
幸い、タイ海軍には「陸奥」を預かっていた時に教育を受けた海軍士官、下士官、兵士が居た。
「陸奥」を預かっていたのはもう9年前の事なので、下士官、兵士は除隊していたりする。
タイ海軍はそういった退役兵まで呼び戻し、この巨大戦艦を泣く泣く運用する。
「『トンブリ』『スリ・アユタヤ』を返して下さい!」
「だから『扶桑』と『山城』ですってば」
「あの2隻は我々にとって手頃なサイズで、扱いやすかったのです!」
「大丈夫、気合いがあれば何とかなるよ」
「我々の手に余るんです!」
「一つ聞くが、昔の『トンブリ』『スリ・アユタヤ』と、今の『扶桑』と『山城』、戦ったら強いのはどちらですか?」
「……今の方です」
「戦争で使う時、役に立ちそうなのは?」
「……今の方です」
「じゃあ、良い事じゃないですか!」
タイ海軍の高官は、日本海軍の高官に反論出来なかった。
現在、タイに国王は不在である。
1932年に起きた立憲革命の後、ラーマ7世は目の病気を理由にイギリスへ逃亡した。
タイ政府は王の承認を貰う為に、度々イギリスに出向かざるを得なくなる。
そのラーマ7世は1935年に自らの意志で退位する。
次の国王ラーマ8世は、7世の甥にあたる。
ラーマ8世は即位前はスイスに留学していて、1935年に帰国して即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けている。
故にタイ国内に国王は居ない。
日本人から「シャムの西郷さん」と呼ばれたパホン大佐と共に立憲革命を起こしたルワン・ピブーンソンクラームは、軍事政権と化したパホン内閣の辞職後に政権に就く。
このピブーン政権がタイを動かしている。
ピブーン首相は、原型を留めないくらいに魔改造された、いや実際には艦をすり替えた事がバレバレの日本の行為に対し、それを可とした。
ピブーン首相は、軍事行動一択ではない。
巨大戦艦をタイが保有したと知れば、ヴィシー政府のインドシナ植民地は、領土割譲交渉に今度こそあっさり応じるかもしれない。
戦艦の意義の一つは「国家の力」の象徴として、それが浮かんでいるだけで周囲を威圧出来る点にある。
20世紀後半の核戦力のようなものだ。
戦わずとも抑止力や、「砲艦外交」という言葉にある外交の手札として使える。
貸してくれたのなら、それはそれで有効利用させて貰おうという事になった。
ピブーン政権は改めてインドシナ植民地政府に、旧領返還を要求する。
手札である「扶桑」「山城」の存在を教えた上で脅迫に使い外交を行った。
ここでフランス政府が崩壊してデメリットが出た。
ヴィシー政府もインドシナ植民地政府も、タイがそんな戦艦を保有する等有り得ないと判断したのだ。
つい9年前まで「イサーン」という預かりものの戦艦の前に震えていたというのに、それを忘れてしまったかのようだ。
その「イサーン」こと正体の戦艦「陸奥」は、つい半年前までフィンランドに加担してソビエト連邦と戦い、バルト海艦隊を1隻で壊滅させるという大武勲を立てていた。
「陸奥」はその後、イギリスのポーツマスで傷ついた体を修理しているという。
間違っても「陸奥」がまたタイに来ている筈は無い。
かと言って、中国と戦争をしている日本が戦艦をまた貸し出す筈等無い。
旧式艦だろうが、手元において使うのが常識だ。
……フランスの情報機関が弱体化した為、日本の陸軍と海軍が基本的には仲が悪く、海軍内部も親米派と親独派で分裂し、陸軍の意趣返しと、海軍内の反米内派が南方への布石を欲した事が、「扶桑」「山城」を貸し出すという形になった等と分析出来なかった。
かくしてフランスはタイの要求を拒絶。
ピブーン首相は日本に「いいの? 本当に使っちゃっていいの?」と確認しながら、「扶桑」「山城」を戦争に投入したのであった。




