和平成立
ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相は、一戦艦の恫喝に等屈しない。
レニングラードを撃つなら撃て、代わりにフィンランドを焦土と化してくれよう、そう考える人物である。
グルジア人である彼に、ロシア帝国の旧都等は大して価値は無かった。
しかし、革命の首班、レーニンの名を冠した第二の都市を破壊される屈辱は晴らさねばならない。
その小癪な戦艦を撃沈し、カレリアとラップランド方面からフィンランド本土へ侵攻せよ!
「で、その戦艦は何者なのだ?」
一戦場や、一兵器の事等気にしていなかったスターリンの意識に、「陸奥」の名が入った瞬間であった。
大日本帝国海軍の戦艦「陸奥」、16インチ砲を搭載した世界最強の戦艦。
外交人民委員モロトフは、気になる事があった。
日本の動きである。
この戦艦が世界各地を放浪している、名乗り通りの「通りすがりの戦艦」なのは分かったが、それは本当に本国日本と繋がりを失っているのを意味するのだろうか?
ソ連と日本はノモンハンの戦場で戦った。
ソ連が勝利したが、犠牲だけで見れば大変なものだった。
その復讐を日本が狙っているならば?
モロトフは至急、日本に潜んでいるゾルゲという男に連絡をした。
すると恐るべき事が分かる。
イギリスとドイツが共に、日本にシベリア侵攻を提案していると言うのである。
日本の総理大臣は米内光政という海軍の軍人である。
その前任の平沼騏一郎は、反共産主義の急先鋒ドイツがソ連と不可侵条約を結んだと聞き、
「欧州情勢は複雑怪奇」
と悩んで辞任した。
今回、戦争状態にあるイギリスとドイツが揃ってソ連を背後から撃てと言って来たのもまた、複雑怪奇な事態であった。
だが米内は
「いくら不可侵条約を結んだとは言え、ドイツとソビエトは相容れないって事だね。
それと、僕たちはイギリスと戦っていない。
だから、敵の敵は味方の論理で、イギリスは僕たちを利用しようとしている。
恩を売る為に、動いているように見せかけるだけにしよう。
本当に動いたら、損だよ」
そう見切った。
だが、満州国の中で本気でソ連との戦争準備を始めた部隊もいる。
白系ロシア人部隊である。
遠く、フィンランドで戦う同胞からの電報を受け取った彼等は、本気で戦争準備を始め、溥儀ら政府を慌てさせた。
この様子は、シベリアの前線部隊からモスクワに届けられる。
さらに驚くべき情報がNKVDのベリヤ長官に届く。
イギリスの同志からの連絡で、イギリス海軍が氷の解けたバルト海に増援艦隊を派遣すると言うのだ。
イギリスが戦争中のドイツの庭先を通るのだが、「虚偽戦争」と呼ばれている、両軍1発も銃弾を撃っていない今は、もしかしたらドイツが無傷で通す可能性が高い。
疑心暗鬼が募る。
スターリンもこの情勢で全面戦争をする程愚かではない。
緊急で駐日大使に、米内総理と会うように命じる。
果たして日本は動くのか、動かないのか?
ソ連大使と面会した米内光政は、全く手の内を明かさなかった。
日本といえば外交下手が多いと思っていたが、この男の肚は読めない。
ゾルゲ報告では、ドイツからの連絡は確かなようで、若手将校が「ノモンハンの復讐だ」と息巻いていると言う。
もっとも、日本においてノモンハンの事は秘密扱いで、辻政信という将校が喚いて、他に口を慎むよう注意された、というのが真相であったが。
結局日本の動向が読めない為、イギリスが艦隊を派遣する前に停戦する事にした。
スターリンの腹の底に、日本への深い憎しみが沈殿する。
停戦成立の報を、朝田たちは上部構造がボロボロになった「陸奥」艦橋で聞く。
レニングラードを人質に取ってから一週間、絶えず空襲に曝された。
通常爆弾に艦を沈める力は無かったが、数に物を言わせ、狭い海域にいる戦艦を絶えず襲い続けたなら、命中弾も出るし、破壊される部分も出る。
毎日の対空戦闘に、兵員も疲れ切っていた。
事情はヴィープリ湾内の「イルマリネン」「ヴァイナモイネン」も同様である。
防御力の弱い海防戦艦である両艦は、早く撤収してドック入りしないと、そろそろ沈む。
間一髪で、世界情勢の不確かさが「陸奥」やフィンランド軍を救った。
帰投した「陸奥」は、フィンランド国民から熱烈な歓迎を受ける。
マンネルヘイムは
「よく撃たなかった!
撃ってしまったら、この戦争は終わらなかっただろう」
と握手しながら語る。
「ところで、うちの男爵、どこ行きました?
まさか、最前線出たとか?」
あの350年遅く産まれた戦国武将ならあり得る。
そしてフィンランドの湿原で討死とかも。
マンネルヘイムは苦い顔で答える。
「最前線と言えば、最前線だ。
彼は我が使節団に混ざって、講和会議に向かった」
朝田、才原、森、角矢たちは顔を見合わせ、マンネルヘイムに詰め寄る。
「どうして止めなかったんですか!?
きっと話を滅茶苦茶にしますよ!!」
「あの人は戦争が好きなんです!
講和なんてぶち壊すに決まってます!」
「接していて分からなかったのですか?
乱世には良いかもしれないが、平和にしようって時期には一番居てはいけない人ですよ!」
マンネルヘイムは、日本語でそう言われても困る。
彼を使節に混ぜたのはリュティ首相だったのだから……。
■ソビエト連邦モスクワ クレムリン:
フィンランド代表団は丁重に招待を受ける。
礼節において問題は無い。
しかし、交渉となるとモロトフ外相ら、ソ連代表団は容赦無く攻めて来る。
・カレリア地峡の割譲
・フィンランド湾の島嶼割譲
・ハンコ半島の租借
・ハンコ半島までの鉄道敷設権をソ連に認める
フィンランドの国土の一割をソ連に渡せというのだ。
モロトフらは勝者の余裕で
「呑むだろうね?
そうしないと国が立ち行かない事くらい分かっているだろう?」
「君たちは立派に戦ったよ。
だから、これは君たちへの敬意を示したものだ。
今、これを蹴れば、条件は悪くなるよ」
等と言ってくる。
謎の東洋人が口を開いた。
「占領した訳でもないのに、ハンコ半島を要求するのは何故かね?」
「彼は?」
「男爵ダテといって、援軍の責任者としてオブザーバー参加を申し出て来た者です」
「ふんっ」
モロトフは、オブザーバーに発言権は無いと一言言ってから、教えてやろうと言う態度で語る。
レニングラード防衛は陸と海からなる。
海の脅威からレニングラードを守る海軍基地は、フィンランド湾入り口付近に作るべきなのだ。
男爵ダテは爆笑する。
まるで正気を失ったかのように馬鹿笑いをし、呼吸困難になり、咳き込み始めた。
「何がおかしいのか?」
モロトフは不愉快な表情で問う。
「おかしいに決まってるさ。
ハンコ半島の海軍基地に、一体なんて言う軍艦を置くんだい?
艦隊が全滅している癖に、他国の土地に海軍基地だなんて、デカい酒瓶作って中に酒が入ってないのと一緒だな。
酒飲みの癖に、酒瓶さえでかけりゃ満足するのかい?」
「我々を侮辱するのか?」
ソ連代表団が激昂する。
男爵ダテはなおも馬鹿笑いしながら
「いやいや、正しく君たちに物事を教えようって思ってるよ。
ハンコ半島に海軍基地を造るより、クロンシュタットを直す方に金を使うべきだよ。
ただでさえ、戦艦一隻に第二の都市を人質に取られる恥を晒したんだからさ」
そう言うと、また馬鹿笑いする。
「我々に対する非礼にも程が有る!」
と青黒い顔色でモロトフが怒鳴る。
「男爵、退席し給え。
貴方の態度は紳士のそれでは無い。
ここから出て行きなさい」
それはフィンランド首相のリュティの叱責だった。
「彼の同席を認めたのは我々の失態です。
どうかお許しいただき、交渉を続けて下さい」
モロトフはダテの言を理由に席を立とうとしたのだが、機先を制された。
仕方なく席に改めて着き、リュティの謝罪を受け入れる。
ソ連代表団のレニングラード軍管区長官ジダーノフが
「この猿、忘れるなよ、ここは我々の国の中なのだ。
お前の如き猿が明日生きているかどうかは、我々の意思一つだと覚えておけ」
と脅す。
伊達は
「あの全滅した情けない暗殺団を見るに、吾輩を殺せるとは思えんなあ。
むしろ吾輩の連れて来た者によって、お国の首相が、そうですな、お手入れされて髪の毛を七三分けにされ、髭を剃られているかもしれませんな、ヌルフフフフ……」
と不気味な笑い方をした。
お前らに俺は殺せん、逆に俺がこの街に居る以上、あんたらの首相の首が危ないぞ、と脅し返したのだ。
結局伊達順之助は議場から追い出されたが、役割は十分に果たした。
怒りを露わにしてしまい、余裕の無さを露呈してしまったソ連代表団は、フィンランド代表団に余裕を持って交渉される。
精神的に、立場が逆転してしまった。
「彼は確かに失礼でしたが、お国のバルト海艦隊に艦が無いのは確かですね。
どうでしょう?
クロンシュタットが再建され、艦隊が復活するまで、ハンコ半島の件は先延ばしにしませんか?」
「カレリアの割譲には同意します。
国境線はラドガ湖北西の湖岸線を基準にしましょう。
ヴィープリを寄越せ?
他はともかく、ソ連軍はヴィープリに手が着いていませんよね?
流石に守備兵が黙ってはいませんよ」
「フィンランド湾の島についてですが、援軍を出してくれた国が使わせて欲しいと言って来てましてね。
お国より海軍が圧倒的に強い国なんですよ。
そちらと交渉されますか?」
時にイギリスの影をちらつかせ、ソ連代表団を揺さぶる。
結局ソ連は、カレリア地峡の大半を得るものの、フィンランドは第二の都市ヴィープリをはじめ、ソルタヴァラ、スイスタモ、トルヴァヤルヴィといった地域を守り切った。
また、ハンコ半島の租借権については先送りとされた。
全く満足はいかないが、バルト海艦隊が基地を含めて全滅という醜態を見せた以上、海については強く出られない。
フィンランドにしても、国土の7.5%を奪われたのだから面白くは無い。
結局その両者痛み分けで「モスクワ講和条約」は締結された。
スターリンの激怒が予想されたが、案外スターリンは文句を言わず、戦争は終結した。
これについて、フィンランドではある噂が飛んだ。
ある朝目覚めたスターリンは、打撃を受けて気を失っている護衛の兵士と、綺麗に手入れされた己の髭を見た。
激怒し、不甲斐ない兵士は処刑した上で、護衛を増やして寝た次の朝、やはり叩きのめされて気絶した兵士と、眉毛を綺麗に手入れされた自分の顔を見た。
何時でも暗殺出来る、そのメッセージを理解したスターリンは、講和条約に口を挟まなかった、と……。
「順之助さん、何かやったんですか?」
「ナイショ」
……いつか酷いしっぺ返しを受けそうで、
(いくら交渉の主導権を奪う為に、道化師役が必要だったとは言え、あの人を連れて行ったのは間違いだったのでは?)
「陸奥」のスタッフはそう思って、頭を抱えていた。
(順之助は「まあ面白い噂だから、その方が俺、カッコイイし、黙っておこうか」と思っている)
(実際にはスターリン相手にそんな悪戯は出来ない、スターリンの自重が戦争を終わらせた)
とにかく和平は成った。
フィンランドに「陸奥」級の戦艦を整備出来る施設は無い。
ウィンストン・チャーチルから「ポーツマスに戻るように」と指示が来ていた。
フィンランド国民の見送りを受け、「陸奥」はヘルシンキを出港した。
■ドイツ帝国ベルリン 総統府
「以上がフィンランドとソビエトの戦争の顛末となります」
アドルフ・ヒトラーは報告を受け、そして感想を漏らした。
「諸君、我々はソビエトを恐れ過ぎたのかもしれない。
フィンランドにすら勝ち切れない、だらしの無い軍隊ならば、ロシアの冬にさえ気を付ければ、簡単に勝てるのでは無いかね?」




