エリトリア沿岸の戦い
ムソリーニがエチオピア侵攻戦争に介入して来た戦艦の性能を知ったのは、タラント港から艦隊を出撃させた直後である。
日本は、最早新鋭とは言えなくなったが、それでも世界有数の戦艦の性能を明かして良いものか、悩んだ。
それが時間が掛かった理由である。
不機嫌でデータ表を見ていたムソリーニは、やがて青くなって叫ぶ。
「艦隊を呼び戻せ!
こんな艦にぶつけるには危険過ぎる!」
ムソリーニは、戦艦「ムツ」は満州に居ると思っていた。
それに「ナガト」「メリーランド」に並ぶ16インチ砲戦艦を日本がアフリカに派遣等しないと高を括っていた。
かつて世界最強と言われた第3戦隊「コンゴー」「ハルナ」「キリシマ」「ヒエイ」という優秀な英国式巡洋戦艦も捨てる事は無い。
なにせ、ロンドン軍縮会議の際に日本は練習戦艦という形にしてまで「ヒエイ」を守り抜いている。
そうなると、設計上の問題が指摘されている「フソー」か「ヤマシロ」のいずれかだろうと見ていた。
この22ノットしか出ない低速戦艦ならば、30.5センチ砲13門(三連装砲塔3基+連装砲塔2基)、21.5ノットの「カイオ・ドゥイリオ」級だけでは対抗出来ずとも、20センチ砲8門と30ノット以上の重巡洋艦がセットになれば嬲り殺しに出来ると見ていた。
しかし、相手はまさかの「ムツ」で、初めて目にした性能諸元に驚く。
主砲は公表値は40センチ砲であったが、実際は41センチ砲であった。
速力は公表値23ノット、アメリカは24.5ノットと推測していたが、実際は26.7ノットであった。
さらに水中防御も予測以上に固い。
(昨年造り始めた新型戦艦(後の「ヴィットリオ・ヴェネト」)でなければ、とても対抗出来ん)
ムソリーニは自軍に無駄な犠牲を出させない為、出撃させた艦隊を引き上げさせ、新たに計画を練り直す必要に迫られたのだった。
当分の間、紅海の制海権はエチオピアに落ちた。
イタリアは海上輸送もままならない。
だが、これは「陸奥」の性能を買い被り過ぎてのミスであった。
「陸奥」はこの海域を詳しく知らない。
エリトリア北部、紅海有数の良港であるマッサラと、その近くのズラに沖合には124個の小島からなるダフラク諸島がある。
北上してイタリア最大の補給拠点であるマッサラを叩こうとしたが、多島海では見知らぬ岩礁によって艦を傷つけてしまう可能性が高い。
エリトリアは内陸部が高地となっている。
沿岸の道路を北上し、イディ、可能ならティヨまで進出して、イタリア軍を防ぐという作戦を立案した。
一方で張宗援こと伊達順之助が率いる馬賊部隊は「ラクダの回廊」を進んでエチオピアに入り、そこから北部の戦線に移動して、退却するイタリア軍を後ろから襲う。
襲うと言っているが、そこは馬賊の事、補給部隊だけを攻撃して軍需物資を奪うのだ。
エチオピア高原を伊達の軍旗「竹に雀」が駆け抜ける。
伊達順之助は、襲撃を部下の程国瑞に任せ、首都アディスアベバに向かった。
日本人義勇軍は二千人足らず。
十万以上のイタリア軍を相手にするには足りない。
そこでエチオピア軍を逆にエリトリアに進撃させ、戦争をエチオピアからエリトリアに移す策を皇帝ハイレ・セラシェ1世に献案する為であった。
ハイレ・セラシェは日本人義勇軍の到着を喜んでいた。
しかし、彼は日本人の作戦に乗ろうとしない。
むしろ
「戦争を指揮するのは余である。
日本人の援軍は有難いが、その命令に従う義理は無い!」
と君主らしく、命令系統について頑迷であった。
彼は北方の3軍に対し、国境を超えた追撃を禁じている。
奪還した都市に再度防衛線を敷いて、再来するであろうイタリア軍を待ち構えるつもりだ。
「そんな消極的な戦いでどうする?
戦いは古来、国の外で行うものだ。
籠城とは援軍のアテが有って行うもの。
我々以外にエチオピアへの援軍等、無いに等しいではないか。
だったら戦争を外に移し、イタリア軍をエリトリアから動けなくするのが得策だ」
伊達順之助がそう説くも、ハイレ・セラシェ1世は聞く耳を持たない。
一方で
「南方のソマリランドから攻めて来るイタリア軍をどうする?
むしろ日本人義勇軍にはエリトリアを棄てて、エチオピアに入り、ソマリランド方面に展開して貰いたい」
そんな事を言って来る。
短気な伊達順之助は
「もう知るか!」
と席を蹴って戻ってしまった。
そして、日本人義勇軍とエチオピア軍は、切羽詰まった状況まで共同作戦を行わずにこの戦争を戦う羽目になる。
アフリカの熱気の中を、徒歩で進軍する日本人義勇軍2千は、行軍だけで既に疲れていた。
倒れる兵も出る。
救いなのは、沖合を戦艦「陸奥」も並走している為、病院代わりに活用出来る事だった。
もっとも、後に日本が建造する超巨大戦艦と違い、「陸奥」には冷房設備は無い。
消火設備として設置された炭酸ガス発生装置を転用したラムネ製造器があり、通風装置しか無いが、日陰でラムネを飲めるだけで随分とマシだった。
(義勇軍でなく、正規の訓練を受けた兵士なら、もっとマシだろう)
とは思うが、実際のところ正規の陸軍軍人でも厳しい暑さなのは間違いない。
義勇軍の歩みは遅々としていて、希望目標ティヨには到底辿り着けそうになかった。
何とかイディに辿り着いた義勇軍は、ここを防衛する事にする。
建物に入り、水を飲んで体力を回復する。
一方、エリトリア民兵や「アスカリ」を棄てて、イタリア人だけで撤退したデ・ボノ大将は、首都アスマラに早くも到着し、態勢を立て直した。
エチオピア国境付近にエリトリア軍団を置き去りにして来た為、手持ちの兵力はイタリアI軍団、イタリアII軍団という2個軍団である。
これをこのまま投入されたら、日本人義勇軍は終わっていただろう。
だが、慎重なデ・ボノはL3/C.V.33豆戦車と偵察機を使い、威力偵察に出た。
L3/C.V.33豆戦車は、8mm重機関銃2丁、装甲最大15mmと、大規模な戦力との戦いでは使い物にならないが、砲も機関銃も少なく、小銃部隊中心の日本人義勇軍相手なら対エチオピア軍同様、猛威を振るう筈であった。
偵察機の報告では、敵軍は既にイディを占領しているが、数はそう多く無さそうである。
L3/C.V.33豆戦車20両は、歩兵支援無しにイディに迫っていた。
……彼等は沖合から艦砲射撃を受ける。
沿岸の道路ではこれが怖い。
豆戦車部隊はあっという間に壊滅した。
だが、壊滅の仕方が良くなかった。
砲撃により完全破壊された訳ではなく、無限軌道が壊れて走行不能になったり、道が崩れて転覆しただけの物もあり、そういう状態で戦車を棄てて逃走したのだ。
逃走したのはL3/C.V.33豆戦車5両、まだ戦える戦力ではある。
残り15両の内、穴が開いたりはしたが修理可能なものは5両、完全破壊6両、中破4両である。
翌日、「陸奥」から連絡を受けた日本人義勇軍は、使えそうな車両を引っ張り出し、破壊された車両からも部品を漁って修理をしてしまった。
こうしてL3/C.V.33豆戦車7両と、取り外した8mm重機関銃15丁が義勇軍の物となった。
一方で逃げ帰った戦車や偵察機からの報告で、イディに居る敵軍は5千人(かなりの過大評価)と推定され、アッサブ守備隊をおよそ1万人と見積もり
「敵は1個師団相当。
ただし沖合の戦艦との連携を行える為、砲兵1個師団以上の火力を有する」
という、何とも膨大な見誤りをしてしまった。
アッサブを空けて全軍でイディに移動したという非常識に思い至らず、また航空兵の技量不足から兵の数を倍に見てしまっての事だ。
しかしデ・ボノは
「これならば、エチオピア侵攻を先にしよう。
2個師団をティヨまで南下させ、そこで海から離れた所を通る街道を固めれば、敵は戦艦からの支援もしづらく、守り抜く事は容易い。
アスマラにも後衛を置く。
イタリアI軍団は補給が終わり次第、エチオピアへ再侵攻せよ」
だが、このイタリアI軍団とデ・ボノは再侵攻に当たって思わぬ苦戦を強いられる。
先日までは3個軍団で攻撃をしていた。
その内、エリトリア軍団を置き去りに2個軍団が一時エリトリアに撤退した。
謎の軍対策に1個軍団を残し、残り1個軍団で再侵攻をした時、エリトリア軍団はほぼ壊滅していたのだった。
アマル・ハイレ・セラシェの左翼部隊、ムルゲタ・イェガズの中央部隊、カッサ・ハイレ・ダージの右翼部隊は同時に攻勢を開始し、三方からエリトリア軍団を包囲・殲滅した。
デ・ボノ後退の2日後の事である。
残存部隊が抵抗を続けていたが、ある時にエチオピア軍とは違う、謎の騎兵集団が現れた。
その部隊はエリトリア領内まで侵入し、徹底的に略奪・焼き討ち・虐殺に奔走する。
道路を崩し、村を焼き、女を攫って去っていく。
エリトリア軍団の残存部隊が対抗しようとするが、そいつらは戦おうとしない。
神出鬼没に動き回り、軍の物資ばかりを狙う。
ある「アスカリ」の部隊が、その騎兵と激突したが、彼等は意外にもモーゼル小銃やモーゼル大型拳銃で武装していて、旧式装備の「アスカリ」部隊を撃破した。
そして翌日、「アスカリ」に参加していたソマリ人傭兵等の首が、沿道にズラリと晒された。
「あいつらは何なのだ!」
「まるで野盗か蛮族ではないか!」
「あまりに残虐非道過ぎる!」
そう激昂しているのは、エチオピア北方軍の幹部たちであった。
エリトリアは元々エチオピアの領土である。
いつかは奪い返したい。
しかし、こんな残忍な事をしていると、両国の住民は憎しみ合って、元に戻れなくなる。
「我が国では、敵の首を晒すのは当たり前の事なんだが。
それでも恐れぬのなら、敵の方が悪いのだ」
アディスアベバからやって来た、張宗援という男が中国語で嘯く。
エチオピアにおいて「中国とは敵の首を晒し、虐殺をして恥じる事のない、残忍な国」という認識が、次第に広がり始めていた。
一方でエリトリアにおける戦果を聞いて
「日本は少数の兵で正々堂々と戦い、敵の戦車を奪い取った!
サムライの国はやはり凄い!!」
と親日感情がどんどん高まっていた。
……蒋介石は風評被害で伊達順之助を訴えて良いだろう……。
さらにエリトリアにおいて、戦況が動く。
少数の敵軍がティヨのイタリア軍を攻撃して来た。
これに対し、二個師団のイタリア軍は反撃に転じ、あっという間に撃退する。
しかし敵は下がらず、遠距離から鹵獲した重機関銃で攻撃して来る。
この被害にイラついたイタリア軍は、打って出る。
出撃した大軍に、その敵軍(この頃には日本人義勇軍と知られ始めた)は、機関銃を使った巧妙な撤退戦を行う。
小癪な敵を一掃しようと、突撃を行うイタリア軍。
沖合から迫る戦艦を見た瞬間、罠に嵌まった事を知った。
ついに、今まで温存していた41センチ砲が火を噴いた。
アフリカの沿岸の道にいるイタリアの大軍に、オーバーキルとも言える巨砲の砲弾が降り注ぐ。
イタリア軍は、艦砲の届かぬ、あるいは当たりづらい内陸部に逃げ込む。
被害こそ大きくないが、突出した一個連隊が支離滅裂となり、後続部隊は来た道を逃げ帰る。
戦艦は更に追撃し、ティヨの町を砲撃する。
ここを守備していたイタリア軍も撤退。
日本人義勇軍はティヨを占領する事なく、「陸奥」後方に居た輸送船に乗り込んで引き上げて行った。
「我々は可能な限り、エリトリアで『嫌がらせ』をして、イタリアがエチオピア攻撃に専念出来ないようにしよう」
伊達順之助から「エチオピアの野郎は指示に従わねえ」という怒りの籠った伝令を受け、基本作戦をこのように変えた。
そしてエチオピア北方でも、3将軍がデ・ボノのイタリア軍を撃破するという快挙を遂げた。
同じく3方向からの同時機動による包囲殲滅戦だったが、戦車や航空機、機関銃を装備するイタリア本軍に遭っては上手くいかない。
それでも士気上がるエチオピア軍は包囲を完成させ、銃弾を雨を浴びせる。
状況が不利と察したデ・ボノは撤退を決断。
戦車の突撃と偵察機からの機銃掃射で退路を作ると、エリトリア国境付近までの撤退に成功した。
追撃戦でもエチオピア軍に犠牲を強いて、死傷者の数で見るとエチオピア軍の方が大きい。
しかし、多くの物資を置き去りにした事(小癪な馬賊が狂喜して持ち去っていった)や、後退を強いられた事で、世間は「イタリアの敗北」と見てしまった。
ムソリーニは激怒した。
そして、デ・ボノを召還し、代わりの司令官を派遣する。
その名をピエトロ・バドリオと言う。