日本人義勇兵参集
戦艦「陸奥」の脱走、それは日本の朝野を大いに騒がせた。
帝はこの事件を聞き、烈火の如く怒りを露わにした。
何故なら、海軍は3年前に五・一五事件を起こし、当時の犬養総理を暗殺している。
一体海軍は統制が取れているのか!?
帝は極めて穏やかそうな容貌だが、意外に短気な面もある。
1929年、張作霖爆殺事件の後、最初は「関東軍は無関係」と言った当時の田中義一総理が後に前言を翻した時、
「お前の最初に言った事と違うじゃないか」
と詰問した。
さらに鈴木貫太郎侍従長に
「田中総理の言う事はちっとも判らぬ。
再び聞くことは自分は厭だ」
と愚痴を言ったところ、それを伝え聞いた田中は涙を流して恐懼し、内閣総辞職に及んだ。
その後、田中義一は急性の狭心症で死亡する。
帝は自分の叱責が田中を死に追いやったものと思い、以降不満があっても口を出さないようにしていた。
していたのだが、今度の件はどうにも許せない事である。
「陸奥」の朝田艦長を許せないというより、海軍は一体何をしていたのか、帝は海軍出の鈴木侍従長に命じ、詳細な報告をするよう海軍に「勅」を出す。
そこで初めて、大正時代から続いていた東方エルサレム計画や河豚計画、中国に王道の地を築く計画を知らされ、書類を床に叩きつける程激怒した。
「朕は猶太人を助けるなとは言わぬ。
何故このような事を秘密裏に進めておったのか、その姿勢をこそ問題とす」
陸軍にも問題は波及し、何人かの関係者が退役に追い込まれる。
その退役に追い込まれた陸軍軍人は「皇道派」と呼ばれる「天皇親政による国家改造」を目指す派閥の者が多かったのは皮肉的である。
しかし、その事によって「帝は君側の奸の策謀によって、道を誤るところだ」と、若手将校が考え始め、翌年の大事件へと繋がる。
一方、海軍で退役に追い込まれたのは、「条約派」と呼ばれる「英米との協調重視、軍縮条約已む無し」とする派閥の者が多く、軍縮会議破棄を求める「艦隊派」が一気に力をつける。
意外な事に、「陸奥」の一党に対して帝は「罪を問うが、恩赦の対象とする」と、許す方向で物を考えていたという。
「シャムに8年、満州に4年も捨て置いた者に、罪を問う気にはなれぬ。
艦長以上の人事について、朕に報告をせよと言っておったが、この件は隠されて知らなかった。
とは言え、朕にも責任はあろう。
エチオピアの戦が終わり、戻って来たならば受け容れてやるが良い」
この帝の思いは、全く反映されなかった。
海軍は帝の叱責を受けた屈辱から、より厳しく造反に対処する事になる。
「この艦は、山東自治軍司令官伊達順之助様がいただいた!
エチオピアまでちょいと行って来るから、黙って行かせろ!」
この伊達順之助の煽りは、報道管制をしたにも関わらず漏れてしまい、日本を揺さぶった。
多くの退役軍人や若者が、エチオピアを援護せよと叫び、義勇兵になると言い出したのだ。
この頃、日本とイタリアは対立状態にあった。
満州事変以降、イタリアの統領ムソリーニは中華民国を支援し、軍事顧問団を派遣していた。
また、エチオピアの金・プラチナ鉱山の開発権を日本が狙っていると非難した。
さらにハイレ・セラシエの甥のアラヤ・アババと、旧久留里藩主黒田広志子爵の次女の雅子の婚約話が出た時も、ムソリーニは黄禍論を持ち出し非難をしている。
東京五輪を巡る「イタリーの裏切り」というものもある。
1940年大会を東京、1944年大会をローマで開くべく、1940年大会の候補地からローマは撤退するという約束を日本とイタリア(ムソリーニ)は交わした。
しかし1944年大会の候補地にスイスのローザンヌが立候補すると聞くと、イタリアは急遽1940年大会にローマを再エントリーさせた。
これにより大会開催は紛糾し、1936年のベルリンでの五輪総会まで決定持ち越しとなる。
反伊感情もあり、日本の世論は判官びいきでエチオピアを支持する。
そんな中、「仙台の伊達様(本当は宇和島)の御曹司が、エチオピアを助けに行かれるそうだ」という話が拡がり、義勇兵の動きは加速する。
実際は仙台の伊達本家ではないし、御曹司じゃなくただのチンピラだし、助けるというより「暴れに行く」のが正解なのだが、正確な報道がされていない為に憶測で動く。
6月には日比谷の「東洋軒」で頭山満を代表に「エチオピア問題懇談会」が開かれた。
7月以後は大アジア主義協会、大日本ツラン連盟、愛国青年連盟、愛国婦人会等がエチオピア支持を表明する。
そういう団体の支援の下、義勇兵希望者は密かにシンガポールに送られていた。
そのシンガポールには、日本の哨戒網を突破した「陸奥」が錨を下ろしていた。
朝田には補給の宛てがあった。
東方エルサレムで動いていた時、アメリカとイギリスの企業と縁を持っていた朝田は、シンガポール入港こそ急で騒動を起こしたものの、現地のイギリス総督を通じて補給と整備と船員の手配を取り付けたのだった。
半ば脅しで
「これまで10年以上も『夢』の為に協力した同志を見捨てる真似はしないだろ?
もしそうなら、君らの同胞に何もかもぶちまける」
と言ったのが、効いたのかどうなのやら。
イギリスのスタインズ商会が、今後の朝田たちの面倒を見る事になる。
イギリスは、当初はイタリアに同情的であった。
エチオピアの国際連盟加盟にも反対し、エチオピアに十字軍を送って懲罰すべき等という意見も出た。
イギリスは元々イタリアのファシスト党と親和的であり、エチオピアでも不干渉を掲げていた。
そして、このところ急拡大して来たナチス党率いるドイツに対し、イギリス・フランス・イタリアは手を組んで対抗する「ストレーザ戦線」を結成した。
このように親イタリア的であったものが、急にイタリアを止める方に方針転換する。
イタリアのエチオピアでの戦争が、イギリス領ソマリランド及びフランス領ソマリランドに影響を及ぼす可能性が出たからだ。
イギリスはフランスと共に侵略に対する警告をイタリアに発すると、イタリアも「イギリスは最早同盟国ではない」と通告する。
現在はエチオピアでの戦争の「枠組み」を巡って、数ヶ国で協議が行う為の調整が行われている。
そんな中、シンガポールに日本・満州を脱走した「陸奥」が飛び込んで来た。
イギリスは自ら手を汚す事なく、この艦と日本人を利用する事を思いついた。
そこで、名指しされたスタインズ商会と相談し、「陸奥」を密かに支援する事を決める。
駐日イギリス大使館から、日本の右翼団体がエチオピア支援の義勇軍を送る事を知らされた為、その集結地点にシンガポールを指定した。
かくして、「陸奥」は整備がてら、日本人の義勇兵の到着を待つ足踏み状態となった。
1935年8月、「陸奥」が旅順から脱走して3ヶ月。
日本からは「陸奥」返還と朝田艦長らの逮捕要請が来るが、イギリスは無視する。
また「お調子者の英雄夢想者」がシンガポールに集まっているから、国外追放するよう求められるも、これも無視している。
対日で無視を決め込みながら、イギリスはイタリアに圧力をかけ続けていた。
8月16日にパリでイタリア・イギリス・フランス三国会議を開き、エチオピア領の割譲や宗主権をイタリアが得る代わりに、エチオピアは独立国のままとする案が出されたが、ムソリーニが拒否をした。
イギリスはついにマルタ島に艦隊を出動させる。
イタリアも国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世が「エチオピアの独立を認める」が、ムソリーニが頑として譲らない。
月が替わり9月11日、イギリスのサミュエル・ホーア外相がエチオピアの独立を支持する演説を行う。
再度提出された英仏の妥協案をムソリーニはまたも拒否。
ついに英仏エチオピア対イタリアの地中海・アフリカ戦争が見えて来た。
「陸奥」も義勇兵たちも、いよいよかと緊張する。
しかしここでイタリアが英仏にある事を宣言する。
”戦争範囲をエチオピアだけに絞る”
”英仏の植民地には手を出さない”
これによりイギリスはイタリアの行動を容認した。
エチオピアの悪夢である。
イギリスはエチオピアを捨てたのであるが、一方で戦艦「陸奥」に出港許可を出した。
ここまでに雇われ船員が「陸奥」の運用に当たる他、
・日本人義勇兵:約2000人
・伊達軍及び馬賊:約500人
・白系ロシア軍人:約200人
・八極拳の村人:数十人
・シンガポールのマレー系、インド系の義勇兵:約100人
という兵力と3000丁の小銃、15門の野砲、50丁の機関銃が集まった。
「やっとか、やっと出撃か!」
「まあ4ヶ月待たされたが、その間に兵の訓練、艦の運用の習熟が出来た。
この時間は必要だったと見る」
「問題は砲撃の方だ。
流石にシンガポールで実弾での砲撃練習は出来なかった。
俺たちを追って来た『榛名』の砲撃精度、3万メートルを超えたら、この艦も似たり寄ったりだろう。
今までの訓練方法では、まだ足りないのかもしれない。
どこかで一度訓練が必要だ」
「じゃあ、今回戦いながら学ぶ事だな。
実戦ならば砲の使用制限は無いぞ」
それぞれ機関長、航海長、砲術長、主計長の発言である。
1935年10月2日、ムソリーニはラジオ放送でエチオピアへの侵攻を宣言する。
それを受けて「陸奥」と徴用輸送船はシンガポールを抜錨した。
更に「陸奥」には情報担当としてイギリス情報部の某少佐が乗り込んで来た。
その情報を元に目的地はイタリア領エリトリア第二の都市アッサブの港に決まった。
”大日本帝国より義勇軍が援軍としてやって来る”
この報を聞いたエチオピア皇帝ハイレ・セレシェは歓喜した。
そして軍を前に演説をする。
「我々は決して孤軍ではない!
最後まで戦い抜いて、エチオピアの国土を守り抜こうではないか!」
エチオピア兵は槍と弓を高く掲げ、歓喜の踊りを始めた。
士気はこれまでで最高に達した。
この報は、進撃し始めたイタリア軍を最初に迎え撃つ北方軍にも伝えれた。
士気高揚したエチオピア軍は、イタリアに味方したソマリ人傭兵「アスカリ」の部隊に奇襲をかけ、一部ながら撃退に成功する。
こうして第二次エチオピア戦争は、「日本人義勇軍」の効果がエチオピア軍の士気を上げ、思わぬ形でイタリア軍を苦しめる形で始まった。