9 父の決断
接客していた若い夫婦をエントランスまで見送りにいっていた須賀が戻ってきた。こういうときは真っ先に首尾を報告するのが新人というものだが、この男に関しては従来の認識を改める必要があるだろう。
「うわー、千尋ちゃん可愛い」
「え? あ、ありがと」
「会社以外だとそんな格好するんだ」
「今日はたまたま。妹がコーディネートしたんだけど、おかしくない?」
「全然。すっごい可愛い」
……女同士かよ。
報告はそっちのけで、まるで同性の友人がするみたいに千尋を褒める。下心をまったく感じさせないのは、そういう性格なのか、それとも立ち位置なのか、一希には不可能な距離感で接する須賀がちょっと妬ましい。
――俺だって可愛いって思ったのに。
先に言った者勝ちの教訓を胸に刻んで肝心の話に切り替える。
「で、さっきの客、どうだった」
「手応えありです。奥さん、まだ目立たないけどお腹に赤ちゃんがいて、もう少し広い部屋に引っ越したいそうなんです。和室が気に入ったって。赤ちゃんの世話に使えるし、三人で川の字で寝るのも楽しそうって」
思わず千尋と目を合わせた。断言してもいい、彼女はいま自分と同じ気持ちでいる。
「今度会社のほうに来てくれるそうです。まだはっきりはわからないけど、ローンの話とかよく聞いてから決めたいって」
「わかった。お前、やれるな? もちろん俺もフォローはする」
「いいんですか? 伊原さんの担当物件なのに」
「まだ見込み客の段階でなに遠慮してんだ。俺は俺で他の追客するよ」
自ら掴んだチャンスを逃がすな。もっとガツガツいけ。
一希の言わんとすることを理解したのか、ニコニコ顔が大きく頷く。千尋も我が事のように嬉しそうだ。
「頑張って、シゲ。初契約取ったらお祝いしてあげる」
「マジ? ちょうど行ってみたい店があったんだよね」
「えー、どこどこ?」
「ちょっと遠いんだけどさ……」
……だからお前ら仲良すぎ。
自分だけ除け者にされたみたいでまたしても嫉妬したが、タイミングよく千尋の鞄から着信音が鳴り出してお喋りを中断させた。
携帯画面を一瞥すると、彼女は微かに顔を曇らせた。ちょっとごめんなさい、とこちらに背を向け窓際に移動する。
「はい、千尋です。……舘野市にいます……いえ、仕事じゃないですけど、ちょっと。……え? 今からですか? ……いえ、そういうことでは……でも……」
聞くともなしに聞いていたが、少し困っている様子だ。何かあったのだろうか。
「……わかりました。……はい……それじゃ」
通話を終えて振り向いた顔には無理に作ったような微笑みが浮かんでいた。
「知り合いに呼び出されちゃったんで、これで失礼します」
「……そうなの? よくわかんないけど……大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
じゃあ月曜日にと言って千尋は部屋を出ていった。大きなトラブルを抱えているとも思えないがやはり気になる。
「電話、誰だったんでしょうね」
「お前でも心当たりないの」
「そこまでの仲じゃないですよ。興味はありますけど」
これ以上はないというほどの不意打ちだった。まったく下心はなさそうに見えて、実は大アリだったということか?
「……お前ってやっぱり……彼女のこと」
「好きかどうかってことですか? もちろん好きですよ、友達として」
「それだけ?」
「それだけです。安心してください」
からかってんのかと睨みつけたが、須賀はいつものようにニコニコして悪びれる素振りも見せない。そういえばこいつは鬼瓦の迫力さえ受け流す男だった。
「だって伊原さん、千尋ちゃんのこと何かと心配するじゃないですか」
「妹みたいな感じでほっとけないだけだ」
「それだけ?」
「……それだけだよ」
他に何がある。余計な気を回すんじゃない。
ついさっき妹だと確信したばかりの一希には、それ以外の答えなど存在するはずがなかった。
***
出勤前に告げた帰宅時間に十五分ほど遅れて家に到着した。遅くなった理由を「はい」と差し出すと、コンビニ袋の中に好みのビールの銘柄を見つけて、謙三の顔が綻ぶ。
スーツから部屋着に着替えてリビングに戻り、さっそく喉を潤しながら、なかなか時間が取れなかったことを謝った。勤務の後に知り合いの業者と飲んだり休日は付き合いゴルフに行ったりと、営業込みのオフが続いていたのだ。
「急ぎじゃないって言ったろ? でも仕事とはいえお前も大変だな。身体だけは壊さないように気をつけろよ」
「うん。それで相談って何? 不動産に関係あること?」
「ああ」
やっぱりそうか。それなら自分でも力になれるだろう。そうだ、ついでに温泉旅行の話も全部決めてしまおうか。
気楽に構えてビールを味わっていたが、驚愕はすぐその後にやってきた。
「この家を売ろうと思うんだ」
「……え?」
「古い家だから需要があるかちょっと不安だけど、できれば更地にしないで、なるべく手元に多く残るように売りたい。それでお前に買い手を見つけてもらえないかと思って」
……急に何を言い出すんだ。
呆然としてしばし言葉を失った。こんなものは相談でも何でもない。まさに営業マンに向かって要望を伝える顧客のように、謙三の意志は明確だった。
「ど……どういうこと? この家を売るって、なんでそんな急に」
「あちこち古くなってもう修繕するだけじゃだめなんだよ。大規模なリフォームをする必要があるんだ。でも二人しか住んでないのに意味ないだろう? コスパを考えたら、この家を売ってもっと小さいマンションを買うほうがいいと思うんだ」
コスパだの意味がないだの、父の言葉とは思えなかった。家族のためにとこだわりをもって建て、誰よりも愛着を感じていたはずのこの家を、損得勘定だけで手放そうとするなんて。
「日下部先生が設計した家っていうのが父さんの自慢だったのに、何言ってんだよ。いつだったか、先生が来てくれた時もすごく喜んでたじゃないか」
あれは去年の松の内が明けた頃だっただろうか、建築家の日下部が不意に訪ねてきたと謙三から教えられたことがあった。近くまで来たついでだったらしいが、思い出してくれただけでも嬉しいと興奮気味に語っていた。
それほど日下部への敬意は厚く、彼が設計したこの家を誇らしく思っていたのだ。なのになぜ?
「ライフステージが変われば必要な住まいも変わる。そんなのはお前のほうがずっとよくわかってるだろう? 定年はちょうどいい機会なんだよ、この家を出て一人暮らしをするのに」
「一人暮らし!?」
「四十年近くも公僕をやってきたからな。これからは自由気ままに生きていくよ。だからお前も自分で気に入った家を見つけて好きなように暮らしなさい」
いっそ清々しいほどの決意表明に開いた口が塞がらない。
公務員としての仕事はともかく、父子二人、独身の暮らしは窮屈どころかむしろかなり「気まま」な部類に入るだろう。結婚してからの拓馬を見ていると心からそう思う。金銭的負担は軽く、互いの趣味に深く干渉もしない。ルールを守って協力し合う必要はあるが、生活の質を保つためだし、家族なら当たり前のことだ。
それを「一人になって自由に生きていきたい」だ? この家を売ってまで? 冗談じゃない、ただの容れ物じゃないんだ。ここにはたくさんの――
「父さん。話すかどうか迷ってたんだけど」
今朝の時点では否定のほうに傾いていた針が反対側に動いた。もうためらっている場合ではない。
「うちの会社の新入社員に中里千尋って子がいる。たぶんちぃちゃんだと思う」
謙三の表情がさっと変わった。普段は口にこそしないが、あの子の消息を知りたかったのは父だって同じなのだ。
「一希、お前……」
「俺のことは気づいていないかもしれない。もしかしたら忘れてるかもしれない。でも奇跡だと思わない? 東京で暮らしてたのにいつからかこっちに戻ってきてたんだ。俺、もう一度会えたことは何か意味があるんじゃないかって、」
「やめなさい!」
感情の赴くままに語る一希を鋭い声が遮った。いつも最後までこちらの言い分を聞いてくれるあの穏やかな父親が、どこに隠し持っていたのかと思うほどの厳しさで叱りつける。
「やめなさい。覚えていないんなら無理に思い出させてはいけない。苗字が変わっているということは、新しい家族がいるってことだ。そのままそっとしておいてあげなさい」
「そんなのわかってるよ! でもちぃちゃんがうちの家族だったことも事実なんだ。なかったことにはできないんだよ!」
「そうやっていつまでも昔のことを引きずってるから、お前は……!」
謙三はその先を続けなかった。が、息子を非難しようとしてかろうじて踏みとどまったのは明らかである。
何が言いたい? 昔のことを引きずっているから何だというのだ。
途中でやめても売り言葉は売り言葉、カチンときた一希は言い返した。
「じゃあ訊くけど、父さんは何なの? なんであのひとの本、全部持ってるんだよ。忘れられないからじゃないの? あのひとが父さんと離婚してまでやりたかったこと、理解したいと思ったからじゃないの? 引きずってるのは父さんだって同じじゃないか」
それは長年気になってはいたものの、決して立ち入ることのできない領域だった。こうして問い詰める形で踏み込んでしまったのは悪手だが、どんな反応をするのか見ものではあった。
動揺するのか。怒り出すのか。認めるのか。否定するのか。
ところが父親の反応はそのいずれでもなかった。
「……お前には可哀想なことをしたと思ってる」
「……何が」
「お母さんを亡くして、八重子ともああなってしまって、結局普通の家庭というものをお前に作ってやれなかった。自分が不甲斐なくてな」
思いがけない悔恨の言葉に一希はうろたえた。
「そんなの父さんのせいじゃないだろ」
「そうかもしれない。でもな、考えずにはいられないんだよ。もっと他にやりようはなかったんだろうかって」
「何ができたっていうの? 離婚を言い出したのはあのひとだよ」
「もっと強く引き留めることはできたはずだ。……いや、俺はいいんだ、自業自得だから。でも一希、お前は……」
申し訳ないと訴える眼差しを直視できずに目を伏せる。
――やめてくれ。きっかけを作ったのは俺なんだから。
『ごめん。ごめんねカズくん、間に合わなくて……本当にごめんなさい』
『もういいよ。取材のほうが大事だったんでしょ。俺の三者面談より』
きっと父は知らないのだ、かつて一希が八重子に何を言ったのかを。知っていたらそんな負い目を抱えることはなかっただろうに。
後ろめたさを隠して再び目を上げると、謙三は心情を吐露してすっきりしたのかサバサバした表情になっていた。
「もっと早く決断すればよかった。――なあ一希、もう終わりにしよう。この家を買ってくれる人をお前自身の手で見つけてくれ」