8 目撃
オープンルーム当日の朝は嫌味なほどの快晴だった。
こんなによい天気なのに午後は目一杯マンションの一室で過ごすのだ。これで客が来なかったら、須賀ではないが泣きたくなるだろう。いや、チラシ配りに協力してくれた千尋のためにも来てくれなくては困る。
というわけで、ネクタイは験を担ぎ、以前同じくオープンルームで契約を決めた時のものを選んだ。結局最後にはそういうものに縋るのだから、あまり新人にエラそうなことは言えないかもしれない。
いつもより丁寧に身だしなみを整えて出勤準備完了。階下に降りて行って謙三の姿を探し、書斎でパソコンに向かっているのを見つけた。
「父さん、今日は出かける?」
「ああ。夕方には戻るけど、どうした?」
「ほらこの間、相談したいことがあるって言ってたあれ。俺、今日はそんなに遅くならないから」
「そうか。じゃあ今夜な」
ひょいとモニターを覗くと城の画像が映っていた。先日見に行ったという彦根城だろうか、手前に咲く桜越しに遠景で天守閣を捉えた一枚だ。
「ブログに載せる写真?」
「ああ。ちょっと補正をな」
「綺麗に撮れてるじゃん」
「そうか? 嬉しいなあ。一眼レフ、少しは使いこなせるようになってきたかな」
謙三は趣味の城巡りをブログで綴っている。もう何年続けているのか、マメなことだと感心するが、当人によれば長続きの秘訣は「義務と感じないこと」だそうだ。最近では写真投稿SNSにも手を出しているというから、定年で暇を持て余すのではという心配はまったくしていない。
一希はおおよその帰宅時間を伝えて書斎を後にした。この機会に中里千尋のことを話せればと思ったが、そうなると八重子についても触れないわけにはいかず、やはりためらいを感じる。
玄関から外に出ると早くも初夏を感じさせる陽の光。千尋は今日一日何をして過ごすのだろう――そんなことをぼんやりと考えながら会社へ向かった。
***
須賀を助手席に乗せて舘野市方面へ車を走らせること約四十分。矢坂町入り口のインターチェンジでバイパス道路を降り、市街地に入ると、やがて先日集中的にポスティングした地域に入った。集合住宅が比較的多く集まっている場所だ。
なかでも四棟が連なる市営住宅は去年建て替えられたばかりで非常に目立つ。建物を取り巻く共有地や隣接する公園も合わせて整備され、屋根付きのちょっとした広場まであって、近隣の住民の交流場所になっている。
その広場に今日は人だかりができていた。何かの集会らしく、演説者はマイクを使って聴衆に訴えている。
「気になるな。行ってみようか」
「ええ? 住民集会とかだったら僕たち関係ないじゃないですか」
「これから売ろうってマンションの近くで何か問題が起きてるとしたら、知らないじゃすまないんだよ」
地域問題は不動産の流通にも影響を及ぼす。たとえ小さなことでも情報は手に入れておいたほうがいい。
道端に車を停めて人だかりに近づくと、マイクを通した女性の声が耳に入ってきた。
『……こうしたハコモノ行政を続けた結果、市の財政状況は年々厳しくなっています。なぜタテノプラザから手を引かないのか。毎年赤字を救ってやってまで営業を続けるのは、メンツのためとしか思えません。新庁舎も同じことなんです。百二十億ですよ? 何のためにそれだけの税金をつぎ込んで建設しなければならないのか……』
どうやら舘野市の政策への反対集会のようだ。であればマンションには直接関係する話ではないが、須賀は逆に興味を引かれたらしい。
「タテノプラザって舘野駅前にあるファッションビルですよね。上に図書館が入ってる。あそこそんなに経営悪かったんですか?」
「毎年赤字補填だよ。勢いがあったのは最初だけで、最近はテナントが全部埋まらないってさ。第三セクターの運営なんてそんなもんだよな。今の市長の肝いりで作ったから、営業停止したくてもできないんだろ」
「で、市庁舎も建設しようとしてるんですか? 百二十億も使って?」
「確か実施設計の段階で予算が増えて問題になったんだよな。でも結局三月の市議会で承認されて、もう工事の入札に入ってるはずだよ」
それで舘野市はいま大揺れになっているのだ。七月に行われる市長選ではこの新庁舎建設問題が最大の争点とされていて、立候補予定者の意見も真っ二つに割れている。
まず現職の脇田広志は当然ながら建設推進派だ。当選すれば四選となり、これまでの市政についても信任を得たことになる。無所属だが与党の推薦を得ており、加えて舘野市は片桐幹事長の選挙区でもあるから万全の態勢で支援するだろう。
一方、建設反対派の宇佐美史恵は保守系の元県議会議員。早くから出馬を表明し、三月に辞職した後は街頭活動や住民集会で政策を訴えている。ただ革新系の候補者を擁立する動きもあり、そうなると票が割れる可能性がある。
『……市の収入の何パーセントが県や国からの補助金だと思いますか? 四十八パーセントです。この比率は毎年増えているんです。このまま依存体質が進んでいけばどうなるでしょうか? 確実な予算編成は難しくなって……』
演説者の中年女性はスピーチに慣れているのか、抑揚のつけ方が上手く、とても聞きやすい。もしやと思いチラシの束を手にした関係者らしき男性に訊くと、宇佐美史恵本人だと言う。大々的に名前を出せないのは、告示前の選挙運動とみなされて公職選挙法違反に問われるからだそうだ。
「そんなのいちいち通報する人なんかいるんですかね」
「いるから注意を払ってるんだろ。今度の市長選挙は最初っから接戦が予想されてるし、脇田陣営のスパイがどっかに紛れ込んでたっておかしくない」
それらしき人物を探そうと思ったのか、須賀はキョロキョロと辺りを見回した。すぐにわかるようならスパイじゃねえよ、と苦笑して、一希も何気なく周囲に目を遣り――何かが視界に引っ掛かった。
視線を戻し、それが何かではなく見覚えのある誰かであることを確認して息を呑む。人だかりの向こう、少し距離を置いた場所に一人佇む女性。見間違えではない。
――八重子。
かつて母と呼んでいたひとが、昔と変わらない美しさのまま歳を重ねた姿でそこにいた。ベージュ系のテーラードジャケットに黒い細身のパンツ、そしてあの頃取材に持っていっていたのと同じような大きめのトートバッグ。休日のラフな格好で集まった人々の中では明らかに異質だった。
こんなところで何をしているのだろう。演説に耳を傾けているというより、聴衆の反応を観察しているといった様子だ。取材に来たのだろうか。
やがてその顔がこちらにも向いて、一希は慌てて回れ右をした。
「もう行こう」
須賀を促し、まるで逃げるようにそそくさとその場から離れる。
逃げる? 八重子から? どうして? 逃げ出す理由なんかこっちにはないじゃないか。堂々としていればいい、もうあの頃のような子供ではないのだから。
頭ではそう考えても身体は従ってくれず、結局後ろを振り返ることなく車に乗り込んだ。
八重子自身ではなく、忘れたつもりになっていた過去と向き合いたくなかったのだとわかったのは、目的地に着いてからだった。千尋についての疑問をすべて解決する、千載一遇のチャンスを逃したことに気づいたのも。
たぶんあのひとはこっちに戻ってきているのではないか――
八重子をあそこで目撃したことの意味を考えていくと、その結論にたどり着く。
仕事であちこち飛び回りはするが、拠点としては故郷を選んだ。そこそこ名前は売れているし、ネット環境が整っていれば決して難しくはないだろう。舘野市の市長選挙に今の時点から関心を寄せ取材を行うのも、地元に住んでいればこそ。
だとすればちぃちゃんもこの街のどこかにいるということで、それはやはり中里千尋なのでは――?
願望で都合よく解釈するなと自制する一方、期待が膨らんでいくのも抑えられない。今すぐ千尋に会って確かめられればいいのに。
そんな気持ちでいたところに、狙ったようなタイミングで嬉しい知らせがもたらされた。
「そういえば、千尋ちゃんが後で来るって言ってましたよ」
「なんで? あいつ今日は休みだろ?」
「お客さん来てくれるか気になるし、それにチラシ作った部屋が実際にどんなのか見てみたいからって」
ヤバい。グッときた。
表情筋を動かさないように堪えながら指示を出す。
「よし、こっち準備終わったな。須賀、お前、エントランスで待機。お客さん来たら上に案内して」
「オープンまでまだ十五分くらいありますけど」
「早く着く客がいるかもしれないだろ」
気合いが入っているように見せかけて須賀を追い出してから、思う存分顔を緩めた。
千尋がやってきたのはオープンルーム開始から三時間ほどたった頃だった。邪魔にならないか気にしているのだろう、中の様子を窺いながら入ってくる。
……すげー可愛いんですけど。
ひと目で釘付けになったその姿は、透け感のある白いニットのトップスにネイビーのフレアースカート。会社では急に現場に行くこともあるためパンツスタイルが多く、こんなに〝女の子〟を主張する服装の彼女を見るのは初めてだった。
これ差し入れです、と菓子の入った袋をちょこんと差し出す仕草まで可愛らしい。
「須賀くんは?」
「接客中。チラシ持ってきたお客さんなんだ。須賀の判子押したやつ」
「本当に? よかったー」
「ちょっとは報われたな」
せっかく来てくれたので部屋の内部を案内することにした。玄関、リビング、キッチン、バスルーム、寝室。ビフォーアフターの資料とともに、一つひとつゆっくり見せては彼女の質問に答える。
「オープンキッチンにしたんですね……そっか、採光を考えると確かにそのほうが……洗面台はどこの業者さんのですか? え、うちのオリジナル?」
リヴィータでは仕入からリノベーションの企画、販売までを一人の営業マンが担当するため、その物件に誰よりも詳しくなる。当然愛着も湧くから何を訊かれても嬉しい。
「お客さまの反応はどうですか? 気に入ってくれてました?」
「まあね。でも予約して来たお客さんのなかに、和室のことで意見対立してた夫婦がいたな」
「どうしてですか? 琉球畳、素敵なのに」
「奥さん、リビングとして使うイメージが湧かないんだって」
古いマンションのリノベの場合、和室を潰してフローリングにし、リビングを広くすることが多い。しかしこの物件は和室をあえて残し、間仕切りをなくすことでリビングと一体化させた。
「私は好きですよ。和室だけ一段高くなってて特別感はあるけど、お客様用っていうんじゃなくて、普段からのびのび使えそう。寝転がったりとか」
「うん。畳に直接横になるのって気持ちよくない? 企画する時に真っ先にそれが思い浮かんだんだ」
「わかります。特に夏場は。今住んでる家には和室がないんですけど、ずっと昔ゴロゴロ転がったのが気持ちよかったの覚えてて」
その言葉が脳裏の引き出しから懐かしい思い出を引っ張り出した。
暑い夏の日の午後。プールではしゃいで疲れた身体を休ませようと、千尋に付き合って和室にごろんと横になる。でも妹はちっとも寝ようとせず、畳の上をゴロゴロ転がってばかり。
『ちぃちゃん、お昼寝しなきゃだめだよ』
『にぃにもゴロゴロしよ? はい、ゴロゴロ、ゴロゴロ』
『しょうがないなあ、もう。一回だけだよ』
でもやり始めると興が乗って、部屋の端から端まで、同じテンポに合わせたり、急に速度を上げてわざとぶつかってみたり。
『にぃに、畳、気持ちいいね。いい匂いもするね』
『うん。夏はこの部屋が一番涼しいんだ』
ようやく寝入った小さな身体にタオルケットを掛け、一希もその横で目を閉じる。気怠い安穏さのなか、やがて眠りに落ちていって――
子供の頃に畳の上で転がった経験なんて取り立てて珍しくはない。でも一希には偶然とは思えなかった。八重子を目撃したことによって膨らみ始めた期待が、それは二人が共有する思い出なのだと強く訴えていた。
この子はきっとちぃちゃんだ。ずっと覚えていたんだ。あの時の畳の感触を。
そうだ。間違いなくちぃちゃんなんだ――




