7 涙の理由
一希には実の母親との思い出があまりない。
物心ついた時にはすでに病床にいて、小学校に上がる前にこの世を去ったから、一緒に遊んだり甘えたりといったことがほとんどできなかった。優しい人だったという記憶はあるが、それよりも病室のベッドで儚げに微笑んでいる姿のほうが印象に残っている。
だから八重子が新しい母親になると聞いてギャップの大きさにひどく戸惑った。若くて健康的で、はきはきと喋って、よく笑う。――これがお母さん?
そもそも十八歳の年齢差では親子というより年の離れた姉弟だろう。亡くなった母親の位置にぽんと収まろうというのはどだい無理な話だ。
しかし実際に生活を共にしてみると、欠落していたピースを埋めて余りあるほどの存在感が八重子と千尋にはあって、新しく出来上がった家族の形は不格好でも決して歪ではなかった。
それを最も強く実感したのは学校からの帰宅時だ。玄関の扉を開けるやいなや子犬みたいにすっ飛んでくる妹。こちらが靴を脱ぎ終わらないうちから手を引っ張って中に連れていこうとする。
「にぃに、おやつ」
「帰ってくるの待ってたの?」
「うん、にぃにと一緒に食べるんだもん」
「カズくん、おかえり。学校どうだった?」
「どうって別に、」
「にぃに、あのね、ちぃちゃんね、」
……すごい。うちじゃないみたいだ。
人けのない家に帰るのが当たり前だった一希には、こんな日常は想像すらできなかった。うるさいぐらいに賑やかで、鬱陶しいぐらいにかまってくる。でもちっとも嫌じゃない。
「ねえカズくん、宿題見てあげようか」
「えっ、いいの?」
「ちぃちゃんも見る!」
「……ちぃちゃんは見てもわかんないと思うよ」
「お母さんだけ見るのダメ! ちぃちゃんもにぃにのシクダイ見るの!」
どうやら千尋は文字どおり〝見る〟ものだと思ったらしい。
「まー、小さいくせに張り合って。呆れた独占欲だわ」
「にぃに、早く。ちぃちゃんが先ね。お母さんはあと」
くすぐったい心地よさを感じたのは、二人の間で自分が取り合いになったからというだけではなかった。あのとき子供心に悟ったのだ。誰かが帰りを待ってくれるのはとても幸せなことなのだと。
「一希、家の中が急に賑やかになったけど、嫌じゃないか」
「嫌じゃないよ。……あのね、学校から帰った時にちぃちゃんたちが『おかえり』って言ってくれるの、なんだか嬉しいんだ」
「父さんもだよ。一希だけでも嬉しかったけど、それが三倍になったんだから」
色鮮やかな今の日常に比べたら以前は無彩色だったと言ってもよく、もう元の生活に戻ることなど父も息子も考えられなかった。
八重子は再婚にあたってそれまで勤めていた地方新聞社を辞めた。政治部所属の記者として、県庁記者クラブに出入りしていた関係で謙三と知り合ったらしいが、どうして二人が惹かれ合ったのかは一希の知るところではない。
ただ父親は一回り年下の新しい妻を慈しむように愛していた。そのことに自分なりの確証を得たのは、子供ゆえの罪のない好奇心を八重子にぶつけた時だった。
「ちぃちゃんのお父さんは死んじゃったの?」
「ううん、ちゃんと生きてるわよ。私たち離婚したの」
「どうして?」
「向こうが望むような奥さんに私がなれなかったから」
今ひとつ理解できずに首を傾げると、彼女は小学生にもわかるように噛み砕いて言い直した。
「新聞記者のお仕事辞めて、転勤先についてきてって言われたの。でも私、どうしても辞めたくなくてね。そしたら喧嘩になっちゃって、離婚するって言われちゃった」
「うちのお父さんは県庁だから転勤しないよ? なんで仕事辞めちゃったの?」
「いっぱい頑張って疲れちゃったからかな。ちょっと休憩して、奥さんとかお母さんのお仕事を優先する人生もあるよって、お父さんが言ってくれたの」
大人の事情を当時の一希がすべて理解できたわけではない。でもいつも息子を温かく見守るのと同じような優しさで、謙三は妻の羽を休ませてあげているのだろうと思った。
「一希、カメラの三脚どこに置いたっけ」
「父さんの書斎でしょ。でも何すんの、三脚」
「みんなで写真撮るんだよ。新しい家族ができましたって、日下部先生に知らせたいんだ」
日下部先生とは伊原家の住宅を設計した建築家のことで、実の母が元気だった頃、家の前で三人で撮った写真を送ったのだという。
「お母さんの葬式で、『きっと家も泣いていますね』って言ってたの思い出してさ。この家がまた賑やかになったこと教えてあげたら喜んでくれると思うんだ」
きっと喜んでいるのは誰よりも謙三自身だっただろう。〝家族〟のために注文して建てた家に、再び〝家族〟の明るい声が満ちるようになったのだから。
テラスで撮った親子四人の写真は焼き増しされ、一枚は日下部に、もう一枚は額に入れて居間に飾られた。
幸せな、本当に幸せな日々。あの頃はまだ、それがいつまでも続くと信じて疑わなかった。
***
眠りから覚めていく脳が最初に知覚したのは頬をなぶる風だった。次いで聴覚がすぐ近くでボソボソと交わされる男女の話し声を捉える。
「……シゲだったらどうする?」
「そうだなあ、俺だったら……」
徐々に開けていく視界に青空が映る。なんで外で寝て……ああ、そうか。ポスティングが終わって休憩してたんだ。
一希はバツの悪さを感じながら起き上がった。外回り中の昼寝は珍しくないとはいえ、新入社員の前でそれをやってしまっては先輩の威厳などあったものではない。
「あ、おそようございます」
「うるせえ。何分寝てた?」
「二十分くらいかな。起こそうかどうしようか迷ってたんですよ。僕たちと違って体力回復に時間かかるんだろうなって」
「……言うね、お前」
きっと千尋も呆れているだろう。恐る恐る視線を動かし、そこで初めて異変に気づいた。
目と鼻が赤い。泣いた後みたいに。
「……どうしたの」
「あっ……大丈夫です。何でもないんです」
「何でもないってことないだろ」
「本当に何でもないんです」
それでは到底納得できない。代わりに説明してもらおうと須賀に目で要求すると、思わぬ答えが返ってきた。
「花粉症みたいですよ」
「は? 花粉症?」
「イネ科のね。草の花粉です。河川敷はわりと多いんですよ」
草の花粉症か。ちぃちゃんにそんなアレルギーはなかったから思いつきもしなかった。
「なんで起こさなかったんだよ。つらいのに我慢なんかするな」
「はい……すみません」
症状が治まらないのか、千尋はまたうるうると涙目になった。彼女のほうが土手の下の位置にいるから見上げる格好になって、思わずどきりとさせられる。
……上目遣いで涙ぐむのヤメテ。
ほら行くぞ、と立ち上がって逃げるように車に向かった。ちぃちゃんの泣き顔と比べたらこちらのほうがずっと心臓に悪そうだった。
会社に戻った一希たちを待っていたのは、「ごゆっくりさん」という畠山の嫌味だった。
「三人がかりでずいぶんと時間をかけたもんだなあ。あの辺り、そんなに戸建てが多かったか?」
サボりを疑っているのは言うまでもない。それも相手が一希だとうまいこと言い逃れされると思ったのか、追及の目は新入社員二人に向けられた。
ただでさえ鬼瓦みたいな顔でしかもガラが悪いため、こういう場合、たいていの新入りはビビって苦しい言い訳をする。ところが須賀はいつものようにニコニコして顔色一つ変えなかった。
「いえ、集合住宅結構多かったですよ。でもチラシをポストに入れるのってコツがいるんですね。終わる頃になってやっとそれがわかったんで、次回はもっと早くできると思います」
……こいつ、思ってたより心臓強いのかも。
先に〝不慣れな新人の反省〟を口にされれば、さすがの鬼上司もやり込めることはできない。しかも今回のペース配分が基準になるから次回の配布はこれでグンと楽になる。会社に戻る前に短時間で立てた作戦だったが、ここまで平然とやるとは恐れ入った。
畠山はつまらなそうに鼻を鳴らすと、須賀にかわされた矛先を一希に向けた。
「お前が仕込んだのか」
「何のことですか」
すっとぼけておいて、彼が食いつきそうな話題をただちにちらつかせる。
「それよりチーフ、富永電機の件なんですが」
「おう。なんか進展あったか」
リヴィータの実績を実際に見てほしいと、先方の実務担当を介して部長に打診したところ了承の返事をもらった。もちろん視察の後に設けた〝懇親会〟も込みである。
「やったじゃねえか」
鬼瓦がニヤリと笑った。事前に接待してその後の商談をやりやすくするのが彼の好むパターンなのだ。だが今回は少し勝手が違うかもしれない。
「ただ、その部長さん酒が飲めないらしいんですよ」
「マジか」
「二次会でキャバクラとかもNGみたいです」
「ゴルフは?」
「それもやらないそうで」
「……何が楽しみで生きてんだろうな」
その三つをこよなく愛する彼にとっては宇宙人みたいなものだろう。実際、大事な接待なのに酒にも女にもゴルフにも頼れないとなると、お手上げの感はあるのだが。
「食事主体の会食でいいですかね」
「男ばっかりでそれも味気ねえなあ。……そうだ中里、お前も来い」
ぎょっとしたのは千尋よりも一希のほうだった。
「待ってくださいよチーフ、中里連れてって何をさせるつもりですか!」
「心配すんな、華を添えてもらおうってだけだ。せっかくかわい子ちゃんなんだから」
「その死語を使うとこからして目的が見え透いてるじゃないですか!」
「あのなあ、キャバクラ嫌いってわかってて、こいつにホステスみたいな真似させるわけねえだろ、バカ!」
「そんなこと言って、プロは嫌いでも素人なら好きかもって思ってるでしょうが!」
千尋を行かせたくない。その思いはポスティングの時の比ではなかった。
こちらは接待をする側であり、ただでさえ相手方の要望を断りにくい立場だ。多少無茶なことを言われても応えようとするし、無理なら他の対応を考える。だが社会人になったばかりの彼女にそれができるとは思えない。
もし先方の部長がセクハラしてきたら? 上手にかわせなかったら?
相手がどんな人物かわからない以上、行かせるべきではない。行かせてはだめだ。
「あの……富永電機さんっていうのは……」
「ああ、中里は知らないよな。これはな、久々の大型案件でな――」
対立する二人の間で困った千尋がおずおずと声を上げ、畠山はこれ幸いと概要を説明し始めた。それはよいとして、伊原が伊原が、とやたら一希の働きを持ち上げるのが気に入らない。彼女の顔が次第に真剣になっていくのも。
「一部屋じゃないぞ。一棟だ。うまくいけば建物まるごとリノベーションして売り出せる。わかるな? それだけデカい案件なんだ」
「はい。あの……接待、私が行ってお役に立てますか……?」
うまいこと丸め込まれやがって!
「行かなくていいって言ってんだろ!」
「決めるのは俺だ、伊原!」
上司の権限を持ち出されたらこれ以上口答えできない。一希は今にも発火しそうな視線で畠山をひと睨みすると、踵を返して部屋を出て行った。
フロアの一番奥にある喫煙所に直行し、胸ポケットの煙草に手を伸ばす。が、苛々しているせいか、引っ張って取り出すうちに箱が手からすっ飛んで床に落ちた。
「クソッ……!」
かがんで手を伸ばしたら細い指が先にそれを掴んだ。何をしに追いかけてきたのか、煙草を手渡すと、その後はただ心配そうにこちらを見つめる。違うだろ、心配されるべきなのはそっちだろ。
「……なんで俺がやってほしくないってことばっかり、やろうとするの?」
顔を背けて煙と不満を吐き出すと、理不尽な言い分にもかかわらず、千尋は申し訳なさそうに謝った。
「すみません。そういうつもりじゃなかったんですけど、結果的にそうなってしまって。でもそんなに心配してくれなくても大丈夫ですよ。私、思ってるほど子供じゃありませんから」
……やはり〝ちぃちゃん〟だった過去から遠ざかろうとしている?
さっき考えないようにした可能性を、千尋自身の口から言い渡されたような気がして心に冷たい汗が流れた。
彼女がちぃちゃんであろうとなかろうともう七歳の女の子ではない。昔の面影を重ねられても迷惑でしかないのかもしれない。
十五年の空白は考えていた以上に大きく、無力感に肩を落としながら言葉を返した。
「……症状はもう落ち着いた?」
脈絡のない問いにきょとんとした千尋は、すぐにハッとして「もう大丈夫です」とふんわり笑って答えた。