6 千尋と千尋
これが最後だ。
一希はエンジンキーを差し込むと意を決して後部座席を振り返った。
「中里さんやっぱり、」
「くどいです伊原さん」
……秒殺。
もう知らねえぞ、と呟いて車を発進させる。昨日から何度も忠告したのに聞き入れられなかった不満が、惨めったらしい愚痴となって心の中にこぼれた。
ちぃちゃんはこんなに頑固な子じゃなかった。わがままが出たときだって俺の言うことだけは聞いていたのに。
なぜこれほど千尋にポスティングをやらせたくないかというと、著しく生産性の低い仕事だからだ。費やす時間と労力の割にほとんど効果が見込めない。やらないよりはましといった程度だ。
それでも続けられている理由は、不動産物件は一つでも契約に結びつけば大きな売上となるからで、会社によっては営業マンにはやらせずバイトを雇うところもある。
昨日のうちにこのことを教えていたらやめる気になってくれたかも。今となってはタイミングが悪すぎるが。
「伊原さん、チラシの反響って普通どれぐらいあるもんなんですか?」
だからこのタイミングで訊くんじゃねえよ!
助手席から呑気そうに尋ねた須賀は、昨日畠山に言われたとおりジャージと運動靴を身に着けていた。軽い運動のつもりでいるのかもしれない。
「聞きたい? 配る前に」
「……やめときます」
それがいい。五千枚配って一、二件と知ったら間違いなくやる気が失せる。今回はオープンルームの宣伝だから冷やかしの客も来るかもしれないし、他にも目的がないわけではないが。
バックミラーをちらりと見れば、千尋は首を少し傾けて何かを一心に見つめている。フロントガラスの向こう? いや、外じゃない。
「この車マニュアルなんですね」
そこだったか。
「社有車は全部オートマかと思ってました。これ伊原さん専用なんですか?」
「うん、まあ」
リヴィータ所有の営業車で唯一のマニュアルのハッチバックセダン。少し古いが自ら希望してこの車を使わせてもらっている。
「好きなんだ、マニュアルのほうが」
「私もです。自分がこの機械を動かしてるんだって気分になれるから」
MT車乗りにしかわからない楽しさである。
「女の子にしては珍しいね」
「うちの車は代々マニュアルなんです。父が頑固にそれしか買わないから、必然的に私もマニュアル車運転するしかなくて」
「へええ。うちなんか父親がマニュアル乗りたいなんて言ったら、絶対母親が大反対するよ。俺もだけど」
「須賀くんちはずっとオートマ? うちもね、昔は母がぶうぶう言ってたんだけど、いつの間にか慣れちゃって、二台目もマニュアルなの。私も自分の車はマニュアルにするつもり。まだ当分はバス通いだけど」
思いがけずに両親の話が出てきてどきりとした。この調子で家族の情報を聞き出せば、ちぃちゃんなのかどうかはっきりするかもしれない。
「じゃあ家族みんなでマニュアルに乗ってるの? 兄弟も?」
「妹はまだ免許持ってないです」
「妹がいるんだ。学生?」
「高校生と中学生です」
二人もいるのか。下の子は八重子が産んだのか? まさかな。でも連れ子として考えてみてもあの人が三人の子の母親なんてそぐわない。謙三と離婚することになった経緯が経緯なだけに。
――お母さんって何してる人?
これを訊けたら一発で解決するのだがさすがに怪しすぎるだろう。訊いても答えてもらえない可能性もあるけれど。
フリージャーナリスト・ノンフィクション作家、堤八重子。
ウェブ上の百科事典によると、以前、某企業と消費者団体との癒着を暴いた記事に関し、名誉毀損で訴えられたり脅迫文書が届いたりしたという。主として社会問題を多く取り上げるためそのようなトラブルが他にあってもおかしくなく、万が一を考慮して家族であることを秘するというのは充分に考えられる。
つい先日までその事件を知らずにいたことが一希にはひどく悔やまれた。千尋は怖い目に遭わなかっただろうか。なぜ自分は八重子の仕事にもっと関心をもたなかったのか。
『お前も読んでごらん。いい本ばかりだよ』
謙三がただの一読者としてあんなことを言ったのかどうかはわからない。でも一希と同じくらい、あるいはそれ以上に抱えていたはずの葛藤から、どうやって自由になったのだろうと真剣に思った。
今回オープンルームを開催するマンションは、県庁所在地A市の西側に隣接する舘野市の南部、矢坂町にあった。市の中心から住宅地の拡大に伴ってできた街の一つで、バイパス道路にアクセスしやすく、病院や郊外型ショッピングモールにも近いので人気がある。
ポスティングはこの矢坂町と近隣の町で行うことになっていた。まずは千尋を降ろし、ボンネットに地図を広げて、あらかじめ決めておいた担当区域と注意事項をもう一度確認する。
「空き家や空き室があったら必ずチェックしておいて。あとで売却に繋がるかもしれないから」
「はい。ポスティングをする意味ってそういうところにもあるんですね」
「理解が早くてよろしい。住民と遭遇したら明るく挨拶ね。不審者と思われないように」
「はい。怒られたらどうすればいいですか?」
「黙って怒られとけ。で、いなくなったら続きをやる」
さすがにこれはすぐに承知できなかったようである。
「……怒られてるのに?」
「特に注意書きがなければね。じゃないと枚数さばけないよ。チーフにまで怒られたい?」
あの人は女だろうが容赦しないよ、と付け加えると、千尋はさっと顔を強張らせた。
ちょっと意地悪だったかな。でもこれぐらい脅かしておかないと、またやると言い出さないとも限らない。
「じゃあ俺たち行くから。三時間を目処に配れるだけ配ってみて。何かあったらすぐ連絡するように」
「頑張ってね、千尋ちゃん」
千尋はちらっとこちらの反応を気にしてから、須賀くんもね、と答えた。
さりげない名前呼びに少し心がざわっとしたが、それも一瞬のこと。同期なのだから親しみを込めて呼んだっていいじゃないかと鷹揚に構え、次の場所へ移動を始めるとさっそく後輩をからかった。
「いいねえ。若い者はすぐに仲良くなれて」
「二人きりの同期だから仲良くしようって初日に話したんです。向こうは僕のことシゲって呼びます」
「ほーお」
「本当はちぃちゃんって呼びたかったんですけど」
ふざけんなよ、てめえ。
前言撤回、一瞬にして殺意が湧いたが、須賀の話には続きがあった。
「それはだめって言われちゃって」
「だめ? なんで?」
「子供っぽいから嫌だそうです」
動揺がハンドルに伝わって車が少し蛇行した。
「……どうかしました?」
「いや別に」
落ち着け。きっと言葉以上の意味はない。
大人の千尋と子供の千尋を結びつけようとしているいま、彼女がちぃちゃんだった過去を忘れたがっているとはどうしても考えたくなかった。
***
目安としていた三時間が過ぎた。千尋と須賀をピックアップし、近くの川沿いの道に車を停める。河川敷に至る土手が緩やかで一休みするにはもってこいの場所だ。
二人は休憩と聞くと車からヨロヨロ降りてきた。かなりへばっているらしい。一希は買っておいたペットボトルのお茶を差し出して、お疲れさん、と労った。
「ありがとうございます。すごく喉乾いてたんです」
受け取ろうとした千尋の右手の甲に血が滲んでいる。
「怪我したの?」
「あ、郵便受けに手を差し込んだ時に擦りむいちゃって……」
「放っといたらだめだろ、雑菌ついてるかもしれないんだから。見せて」
傷は浅いが念のため消毒することにした。こういうときのために救急セットを車に用意してあるのだ。
「染みる?」
「はい、少し」
痛みを堪える表情が昔の記憶を引っ張り出す。庭で転んで泣きべそをかく千尋と、こんなふうに傷の手当てをしてやる一希。
『にぃに、お膝痛いよ』
『お薬塗ったからもう大丈夫だよ。ほら、ちぃちゃんの好きなうさぎさんの絆創膏』
『まだ痛いよ。おんぶして』
『擦りむいただけなのに。しょうがないなあ』
甘えん坊のちぃちゃん。可愛かったなあ。
「あのう……」
思い出に割り込んできたのは大人の千尋。応急処置が終わっても掴まれたままの手を気にして、目が合うと恥ずかしそうに視線を泳がせる。
……こっちも可愛いんですけど。
「千尋ちゃん、早くおいでよ。すごく気持ちいいよ」
須賀の姿を探すと土手に大の字で寝転がっていた。寛ぎすぎ、と笑って、一希と千尋も柔らかな草の上に腰を下ろし、まずは水分補給に努める。河川敷を吹き抜ける爽やかな川風が、歩き回って汗をかいた身体に心地よい。
「これだけチラシ配って土日にお客さん来てくれなかったら、僕泣いていいですか」
「いいけど、売れるまでは何度でも配るよ」
「うわー、地獄……」
「こんなもんで地獄とか言うな。俺なんか新人の頃は毎日やらされてたんだぞ」
そこから抜け出そうと空き物件を見つけるたびに持ち主を調べて売却を持ちかけた。昼間は営業に時間を使いたかったからチラシ配りは深夜に行った。一希が初めて取った契約はそうやって生まれたのだ。
「この仕事は頭も使うけど体力も使う。どっちかだけってことは絶対にない。どう配分するかは、まあ、お前次第だな」
柄にもなく先輩ぶって言うと、寝転がっていた身体がむくっと起き上がった。
「伊原さん、宅建もってますよね。何歳で取ったんですか?」
「二十一だったかな」
「え、学生の時?」
「いや、俺、大学中退。この業界に入ったの二十歳の時」
須賀は意外そうに目を丸くした。
「なんで不動産営業マンになろうと思ったんですか?」
「学歴不問、経験不問で給料のいい仕事なんて他にないだろ」
正直に答えたことをすぐに後悔した。自嘲めいているし、ドロップアウトした人間の僻みみたいだ。かっこわりぃ……
煙草が欲しくなったが車の中。少し迷って、やはり取りに行こうと腰を浮かせかけたそのとき、ためらいがちに問う声がした。
「どうして大学やめちゃったんですか?」
千尋は何を思ってそんなことを訊くのだろう。自分のような人間にはしょせんくだらない答えしかないのに。
「……つまらなかったからだよ」
「……そうですか」
案の定がっかりさせてしまったようで申し訳ない気分になった。煙草を吸う気も削がれてしまい、仕方なくごろんと横になる。
うっすらと雲のかかった空。草の匂い。川の流れる音。五感を包む自然はあまりにものどかで、あまりにも単調で、一希の眠気を誘う。
昨夜馴染みの業者と飲みに行き、はしごして深夜帰宅。起床した時はなんとも感じなかったが、ポスティングをやって疲れが一気に出てきたのだろう。
なんだよ、へばってんの俺のほうじゃないか。
次第に瞼が重くなり抵抗できなくなっていく。周囲の環境に身体が溶け込んで、土手はいつしか芝生が敷き詰められた平坦な空間へと姿を変えた。
この場所には見覚えがある。子供の頃によく通っていたスポーツ公園だ。休みの日になるとサッカーボールを持って出かけては遅くまで遊んでいた。
――そう、あの日も。
「おーい、一希」
リフティングの真似事をしていた一希は、名前を呼ばれるとボールを拾って父親のもとに小走りで戻った。傍らには女の人と小さな女の子。父の同僚だろうか、見たことのない人だ。
「紹介するよ、一希。八重子さんと千尋ちゃん」
「初めまして。どうぞよろしく、一希くん」
綺麗な大人の女性に初めて握手を求められ、ドキドキしながら手を出した。だって担任の先生も友達のお母さんも、もっと年上のオバサンばかりだったから。
「千尋のこともよろしく。ちぃちゃんって呼んであげてね」
よろしくって言われても、年を訊けばまだ二歳だっていうし、何をしたらいいんだ。
じぃっと一希に視線を注ぐ未知なる生き物に、とりあえず「こんにちは、ちぃちゃん」と言ってみる。
「一希お兄ちゃんよ、ちぃちゃん」
かずきおにいちゃん。二歳児にとっては長すぎるその呼び名を、千尋はたちまちアレンジしてみせた。
「お、にい……にぃに!」
かかとを上げ、こちらに向かって懸命に両腕を伸ばしてくる。
もしかしたらそれは、ただ母親の握手を真似したかっただけなのかもしれない。でも一希と仲良くなりたくて、自分から近づいてこようとしているようにも見えて――
――まるで一瞬で恋に落ちたみたいに千尋を好きになったんだ。