3 春は嫌い
四月がやってきた。
進学や就職など新たなスタートが切られるこの時期、伊原家にも一つの節目を迎えた者がいた。三月末をもって県庁を定年退職した謙三である。
といっても完全にリタイアするわけではなく、嘱託職員としての再任用が決まっている。半年や一年のんびり過ごせばいいのにと一希は思うが、当人曰く、「週二、三十時間程度の労働なら充分のんびり」だそうだ。
その謙三から出掛けに、ちょっといいか、と呼び止められた。この時間にまだ普段着でいるということは、今日は出勤日ではないのだろう。
「お前の都合のいい時でかまわないから時間を作ってくれないか」
「いいけど、どうしたの」
「相談したいことがあってな」
「なに改まって」
「別に深刻な話じゃない。でもお前の力を借りることになると思うから」
不動産関係の話か。退職金で不動産投資でも始めたいのかな。どこから情報を嗅ぎつけてくるのか、最近銀行や証券会社の営業攻勢がすごいと言っていたから、老後の資産運用に興味が湧いたのかもしれない。
「わかった。なるべく早く時間作るようにする。じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい。――ん? どうした?」
違和感を覚えてふと真顔になったのを見咎められ、何でもない、と微笑む。
「平日に父さんより先に出勤することなかったから。本当に退職したんだなって思って」
「そうだなあ。父さんもまだあまり実感がない」
「今度一緒に温泉でも行かない? 退職祝い」
「ああ。いいな、温泉」
父は嬉しそうに笑うと、ほら会社遅れるぞ、と言って一希を送り出した。
最後に二人で旅行したのはいつだっただろう。これからは謙三も時間の余裕ができるし、こちらの休みに合わせてあちこち出かけるのもいいかもしれない。
――そうなったらもっとコイツを可愛がってやれるな。
カーポートに並んだ二台の車の一つ、パールホワイトに輝く愛車に乗り込む。クラッチを踏んでエンジンスタートボタンを押すと、たちまちシートに伝わってくる、ぐおんという気持ちのよい重低音。毎日聞いていても飽きない。
国産のスポーツクーペ。仕事には社有車が貸与されるため完全に趣味で選んだ自慢の車だ。低重心で路面に吸い付くように走り、ステアリングの反応はしなやかで、加速時にはゾクゾクするような声で鳴いてくれる。
今のところ助手席が空席なのは残念だが、次に座る女性がいるなら、この車で走る楽しさをわかってくれる人がいいと思う。愛香は性能よりも価格のほうが気になるような女の子だったから。
クーペは軽快に唸りながら県道を走った。途中、何台かのロードバイクとすれ違うのはこの辺りでは馴染みの光景である。
ここは県庁所在地A市北部の郊外住宅地。「サイクリストの聖地」と呼ばれる山の麓にある、自然が豊かでのどかな町だ。市の中心部にある会社までは渋滞にはまらなければ約三十分で着く。
ちなみに一希自身は自転車には乗らない。ここでは行政が積極的に後押しをして毎年レースも行われているが、ヒルクライム(要するに坂道登りだ)なんていう苦行のために、全国各地から何百人もやってくることには毎回驚きを覚える。
フロントガラスに映る山の中腹は桜の花で見事なまでにピンク色に染まっていた。その美しい光景にはサイクリストに限らず誰もが目を奪われるだろう。
ただ一人、一希を除いては。
春は嫌いだ。桜の咲くこの時期はいつも憂鬱になる。どうしたって思い出してしまうから――千尋と別れた日のことを。
『にぃに! お父さん!』
泣き叫んで追いかけてくる妹の姿が目に浮かび、しょっちゅう溜息が出る。これをつい会社でもやってしまうものだから、一ヶ月早い五月病とからかわれるのだ。新入社員でもないのに。
……そういえば今日入ってくるんだっけ。
『女の子は確か、千尋って名前よ』
苑子が言っていた内定学生。本日四月一日が入社日である。それを教えられたとき、ふーん、とすげない反応で甚だがっかりさせたものだけれど。
『何その薄いリアクション』
『だって妹のわけないし』
『もしかしたらもしかするかもしれないじゃない』
引っ込みがつかなくなったのか、苑子は可能性の高さに言及した。ここは東京や大阪のような大都市ではないのだから、名前と年齢が同じなら確率は上がると言うのだ。
しかし一希はそれを笑って取り合わなかった。可能性があるのは理論上であって実際はゼロである。だって千尋がこの街にいるはずはないから。
――ちぃちゃんは東京に住んでるんだ。わざわざこっちに就職なんかするもんか。
若者が都会に出ていくことはあってもその逆はない。地方都市の現実の前では、そんな奇跡みたいなことが起きると期待するほうが愚かというものだった。
***
市の中心部に入ったとたん渋滞に捕まってしまい、会社に到着したのはぎりぎり始業三分前だった。
敷地内の駐車場から建物まで走り、行ったばかりのエレベーターを恨めしく思いつつ、オフィスのある三階までまた走る。おかげで自分のデスクに着いた時には息も絶え絶えになっていた。
「もうだめ……HPゼロ……」
ぐたっと突っ伏していると、苑子が椅子のキャスターを滑らせて背後から近づいてきた。隣の島、一希のほぼ真後ろが彼女の席だ。
「なに情けないこと言ってんのよ。拓馬なんて一日体力仕事した後でも夜になったらムフフなのに」
「……朝っぱらからノロケるのヤメテ」
「そのうえ腹筋もやって細マッチョ維持してんのよ。でね、その理由がね、」
ひとの話聞いてないのね。
「『腹が出て苑子に嫌われたくない』だって。んもう、拓馬ったら!」
「イテッ!」
無防備な背中をいきなりはたかれた。相変わらずベタ甘なのは結構だが、時としてはた迷惑であることはわかっているのだろうか。
「そうだ、さっき新入社員ちらっと見たんだけどさ」
……わかってないな、これは。
苑子は呆れるほどの切り替えの早さで例の〝千尋〟に話題を変えた。
「美人だったわよー。しかも国立大卒なんだって。頭もいいんだね」
「……よくそんなのがうちに来たね」
一希の勤める株式会社リヴィータ(Rivita、イタリア語の〝rivitalizzazione=再生〟から取っている)は中古住宅の再生事業に特化した不動産会社だ。以前は水島不動産の名前で賃貸売買の仲介や新築戸建の販売を主に手掛けていたが、二代目である現社長が経営を引き継いでから大きく変わった。
事業の柱は三つある。中古物件を仕入れ、内装を新しく施して販売するリノベーション分譲。物件探し、工事、資金計画のトータルサービスを提供するワンストップリノベーション。不動産所有者向けにリノベーションを柱とした有効活用方法を提案するコンサルティング。
十年ほど前から少しずつ実績を積み重ねてきたところに、住宅供給のダブつきや空き家率の上昇、好立地・低価格の魅力などが重なって中古住宅が見直され、近年は右肩上がりの業績が続いている。
とはいえ大手不動産会社やハウスメーカーに比べれば知名度は低く、社員数約四十名の小さな企業であることもまた事実だった。
「うちもずいぶん高く買われるようになったもんだ」
「新卒採ってみるもんよね」
実はリヴィータが新卒採用するのはこれが初めてである。会社を大きく変革するに当って即戦力が必要だったし、新人を育てる余裕もなかった。一希と苑子も中途採用で、それぞれ不動産部門と建築設計部門で働き始めたのは四年前、ほぼ同時期の入社だ。
なぜ今年は新卒を採ることになったかというと、地元の商工会議所で若者の雇用促進についての提言がたびたび行われたからだそうだ。
『片桐先生自ら旗振り役になってるからなー。地元を活性化させるには若者の定住しかない、どうかよろしくお願いしますって頭下げられたら、応えないわけにゃいかんのよ。ということで君たち、来年新人入れるからちゃんと育ててあげてね』
と、片桐代議士の尽力に報いる形で決めたことを社長の水島は明かしていたが、まさか国大生が応募してくるとは本人も予想していなかったに違いない。
どんな女の子なんだろう。
好奇心を刺激されたそのとき、水島が二人の若者を引き連れてオフィスに姿を現した。年齢五十二歳、腹回りの立派な自称ダンディは彼らを隣に並ばせると、みんなちょっといいかー、と社員に呼びかけて注意を向けさせた。
「今日からうちの仲間になった須賀さんと中里さん。須賀さんは不動産部門、中里さんは建築設計部門に入るけど、最初は部署に関係なく仕事全般を覚えてもらうつもりだから、みんなよろしく頼むよ」
初日だからだろうか、二人とも真新しいスーツでピシっと決めている。顧客に会う時以外は服装規定が緩いこの会社では余計に初々しい。
水島から自己紹介を求められ、まずは須賀と呼ばれた男性が口を開いた。
「須賀成晃と申します。父親が転勤族でいろんな家に住んだことから、不動産に興味をもつようになりました。趣味は食レポ投稿です。精一杯頑張りますのでどうぞよろしくお願いします」
……大丈夫なのか、こいつ。
流行りの草食系だろうか、優しげな第一印象に一希は早くも不安を覚えた。脳筋タイプがよいとは言わないが、線が細くてはこの仕事は到底やっていけない。
そして件の女性である。
「中里千尋と申します。古い建物を見て回るのが好きで、一つでも多くの家が新しく生まれ変わる、そのお手伝いができたらいいなと思います。どうぞよろしくお願いします」
皆が言うだけあって確かに目が吸い寄せられるような美人だった。ふんわりしたショートボブに縁取られた顔は二重の目が印象的で、過剰な化粧をしていないせいか透明感があって真面目な印象を受ける。
……でも何だろう、この変な感じ。
続けて水島は各部門のチーフを二人に紹介し始めた。それぞれが挨拶と新人に向ける言葉を述べ、ユーモアや寒いギャグで場を盛り上げる。
一希は彼らのスピーチをぼんやりと聞きながら中里千尋をじっと見つめた。先ほどからの妙な感覚が消えず、それどころか少しずつ大きさを増していって、ようやくその正体が既視感だったことに気づく。
――ちぃちゃんに似てないか?
そんなバカなと否定してみたものの、見れば見るほど似ていると思えてくる。以前にも千尋に似た同じ年頃の女の子を見かけたことはあるが、それは〝似たような〟とか〝似た感じ〟であって、こんな感覚を覚えたのは初めてだ。あの目元。口元。妹が大人になったらまさにあんな顔立ちになるのではないか。
「大きな会社だと何ヶ月も研修をするんだろうけど、うちはそんな悠長なことやってられないからね。基本的なことを覚えてもらったらすぐにOJTに入ります。まずは後藤さん、いろいろ教えてあげて」
水島は管理業務担当の中堅男性社員を名指しすると、それでは今日も一日よろしくお願いします、と言って場を締めた。各自が個々の業務に取り掛かるなか、部屋を横切って移動する後藤と新人二人。一希もラップトップを覗き込んだが、視線が中里千尋を追ってしまうのを止められなかった。
似てる。やっぱり似てる。あり得ないと思っていたけど、苑子が言ったようにもしかしたらもしかするかもしれない。でももしそうだとして、中里って何だ。母親は再々婚したのか? 東京に住んでいるはずなのにどうしてここにいるんだ?
疑問が一気に噴き出したそのとき、中里千尋が不意にこちらを向いてどきりとした。何らかの反応があるだろうかと一瞬期待したものの、軽い会釈だけで一希の前を通り過ぎる。
……そりゃそうだよな。
あっさり空振りに終わって少し冷静になった頭に、もっと重要でしかも切ない疑問が浮かんだ。
もしかしたらもしかしたとして。ちぃちゃんは俺のことを覚えているんだろうか――