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われても末に  作者: 乃梨
20/21

20 この手は離さない

 神保の話はのっけから想像の域を超えていた。


「事の発端は弊社が追徴課税を受けたことでした」


 面食らった三人の中でいち早くこれに応じたのは水島である。


「追徴課税? 申告漏れですか」

「ご存知かわかりませんが、弊社はベトナムに子会社を持っています。そこから支払われる特許使用料に移転価格税制を適用されたというわけでして」


 これを簡単に説明すると、

 子会社が親会社に支払った特許使用料が一般的基準より安い→親会社は本来ならもっと多い所得を得られたはず→これは所得の海外移転、税金逃れである→通常の価格を基準にして所得を計算し直し、課税しよう、

 という制度である。


「私どもにしてみれば不当な二重課税ですよ。当然異議申し立てをしました。ですが、実は以前にも申告漏れを指摘されたことがありまして――それは国内での話ですが――その時から目をつけられていたのかもしれません」

「今回は逃さないぞ、というわけですか」

「もし国税局での再調査が認められず、さらに審査請求や裁判となれば、時間はかかるし負担も大きくなります。それで藁にもすがる思いだったんでしょう、片桐先生を頼ってみようという話になったらしくて」


 一瞬の間が空いて、口利きですな、と畠山が低い声を漏らした。


「国会会期中ですし、片桐先生はお忙しい方です。直接会うのは難しい。そこで事務所に伺って地元秘書の方に話を聞いてもらったそうなんですが――」


 会いに行ったのは経理部門の責任者とその部下。陳情を聞いた秘書は鷹揚に頷き、「どこまで力になれるかわかりませんが」とした上で、国税局への口利きを約束してくれたと言う。二人にとっては光明が差したようなものだっただろう。

 ところが問題はその後に起こった。

 彼らは「謝礼です」と言って、ふくさに包んだ現金五十万円をその場で差し出してしまったのだ。


「それ、普通にあっせん利得ってやつなんじゃ……」


 陳情を受け付けるのも政治家の仕事であって、口利きは違法ではないが、金品が動けば話は違ってくる。相手が秘書でも同じだ。合法的な政治献金ですら問題になるのに、さすがにそれはあからさますぎないか。


「お恥ずかしい限りです。百万や二百万なら別ですが、五十万程度なら本当に謝礼の範囲だと思ったんでしょう。就職を世話してもらったり、顧客を紹介してもらったりした時にするのと同じ感覚で。秘書がそのまま懐に入れてしまえば表に出ることもないですし」

「それでどうなったんですか」

「さすが片桐先生の秘書と言いますか、やんわり断られたそうです。でも同席していたもう一人の秘書が――慎弥しんやさんのことですが」

「慎弥さん?」


 一希が訊き返すと、知らないのかい、と水島が口を挟んだ。


 ――片桐代議士には二人の息子がおり、長男は公設秘書の一人として東京で政党活動などを補佐している。一方、地元選挙区で選挙のために地盤を固めているのが次男の慎弥だ。東京で就職していたが、二年ほど前に戻ってきてこの仕事に就いた。


「まだ見習いというか、秘書の秘書みたいなものだけれどね。年齢としは伊原くんと同じくらいじゃなかったかな。自転車が趣味のスポーツマンで、爽やかな青年だってもっぱらの評判だよ」

「お前とは正反対だな」


 うるせえな。

 余計な一言を言った畠山をぎろりと睨んでから神保に先を促す。


「で、そのおぼっちゃまがどうしたんですか」

「現金を渡そうとしたことで疑わしく思ったんでしょう、荷物を改めさせてくれと言ったそうです。断れるような雰囲気ではなく、一つ一つ所持品を出していったそうなんですが……その中にICレコーダーが」

「録音してたんですか!?」


 神保は面目なさそうに頷いた。


「その部下というのが日頃から重要な会議などはすべて録音する男で、ついその延長でやってしまったそうです。言質を取ったことを記録に残しておきたかったのかもしれません」


 とんでもないことをしたもんだ。口利きの報酬としての現金。そしてICレコーダー。これで疑わなかったらそのほうがどうかしている。


「慎弥さんはこう言ったそうです。『片桐をはめるつもりですか』ってね。もちろん否定しましたが信じてはもらえなかった。当然です」


 結局、二人はその場から追い出されて口利きの話もパーになった。それだけではない。社長を始めとして役員一同、片桐の後援会に入っている者は当面の活動参加を見合わせるよう求められた。


「水島社長もそうだと思いますが、この辺りの会社経営者はほとんどが片桐先生の後援会の会員です。何しろ次期総理候補ですからね、熱心に支援する人も少なくない。そこにもしうちの会社が先生をはめようとしたと噂が流れたらどうなると思いますか」

「……悲惨な未来しか見えませんね」


 悪くすれば取引の停止。代替先は全国で探せるかもしれないが、地元の経済界からはまず間違いなくハブられる。それほどの絶大な人気に片桐知彦は支えられている。


「陳情に行った部下のほうは体調を崩してしまいましてね。社員が交代で見に行っていますが、自殺もしかねない状態で。でももともと現金を用意させたのは社長です。認識の甘さというか、意識が古いままなんでしょう」


 よほど鬱憤が溜まっていたのだろうか、自社の社長を批判する言葉は辛辣だった。


「いつ噂が漏れるかと経営陣はビクビクでしたよ。でも救いの手を差し伸べてくれる人がいました。――久浦幹雄(みきお)氏です」

「久浦って……もしかしてあの久浦?」

「もしかしなくてもあの久浦だ。久浦建設元会長。……大物だな」


 久浦建設は地元で圧倒的な売上高とシェア率を誇る中堅ゼネコンだ。久浦不動産ほか数社の子会社を傘下に土建屋業界を牛耳っている。下請け・孫請け泣かせで有名で、一希が取引先の工務店の職人から怨嗟の声を聞いたのも一度や二度ではない。


「確か会長職を退いた後も睨みを利かせてるっていうじいさんでしょ。富永電機さんとはどういう関係があるんです?」

「伊原くん、久浦さんは片桐先生の後援会の会長なんだよ」


 代わって答えた水島の顔に苦々しさが浮かぶ。


「これでようやく繋がった。片桐事務所に取りなす代わりに、あの物件をよこせと言われたんですね」


 ……何だよ、それ。

 いきなり目の前に突き出された話の終着点。到底信じがたいそれに神保は悔しさを滲ませながら頷いた。


「隣のマンションがいつの間にか久浦不動産の所有になってましてね。隣接の土地を合わせて大型マンションを建てるんだそうです。一応申し上げておくと、売却価格は御社のプラス五十万。皮肉なもんでしょう?」


 行き場のない怒りが一希の全身を徐々に侵していく。

 あの社宅を。数ヶ月かけて積み重ねてきた俺の仕事を奪ったのが、恐喝まがいの取引だと?

 ふざけんな。そんな話があるかよ。

 そんなことが許されるのかよ――



         ***



「伊原さーん、もうそろそろ帰りましょうよー」


 これで何度目になるのか、またしても須賀がせっついた。


「だからー、先に帰ればいいだろ。俺はまだまだ飲み足りないの」

「充分飲みましたよ、もう! 身体中の水分、アルコールになってますよ!」


 あー、うるせえ。

 せっかく騒々しい居酒屋からこの小さな古びたバーにやってきて、じっくり落ち着いて飲もうとしているのに、連れがこんなでは興醒めもいいところである。

 一希は馴染みのマスターにロックを注文し、何本目になるかわからない煙草に火をつけた。

 アルコールとニコチンと。精神衛生を保つためにむしろ身体に悪いことをするなんて最高じゃないか。悪魔的で。


「ほらまた煙草! 吸いすぎですって!」

「いつから俺の母親になったんだ、お前は」


 だいたい、誘ってもいないのに勝手に車に乗り込んでついてきたのは須賀である。そのくせ積極的に飲むでもなく、一希の飲酒と喫煙を邪魔してばかりいるのだ。


「ほんと、むだに酒に強いんだからなあ……」

「むだとは何だ、むだとは。営業マンたるもの、酒の百リットルや二百リットル飲めなくてどうすんだ」

「いや、飲まないし」


 ツッコミと同時に短い通知音が聞こえた。携帯を手に取った須賀はメッセージを読むと急いで返事を打ち始めた。

 よし、しばらくそのままおとなしくしてろ。


「そのお兄さんの言うとおりだよ。今日の伊原さんはあんまりいい飲み方じゃないね」


 オン・ザ・ロックを差し出しながらマスターが話しかける。


「何かあったの?」

「そうだねえ……簡単に言うと、大事なものを盗られた、かな?」

「おっ、もしかして女?」

「いやいや、女を盗られたことはないよ、逃げられたことはあるけど」


 ハハハと笑ってグラスを傾け、琥珀色の液体を喉の奥に流し込んだ。燃えるような熱さが胃の中から広がっていき、アルコールが徐々に染み込んで細胞を満たしていく。

 気持ちいい。ラクだなあ、何も考えなくていいってのは。

 ふわふわした浮遊感に身を任せていると、店の扉が開いて新しく客が入ってきた。

 ……千尋?

 酔いが見せる幻覚かと思ったがそうではないらしい。場違いな雰囲気にマスターも戸惑って、「いらっしゃいませ?」と恐る恐る声をかける。

 煙草とアルコールの臭いが充満するこんな場所に何をしに来たのか。訝しく思っているのは一希だけだった。


「千尋ちゃん、ごめん」

「いいよ、シゲ。もう帰ろう?」


 何だ? わざわざ迎えに来たってか?

 須賀と二人だけで了解し合っていることが気に入らない。自分と微妙な関係にある彼女が、同期とはいえ他の男と。


「……ちょうどよかった。それ、さっさと連れて帰ってよ。さっきからずっと『飲み過ぎ吸い過ぎ』って、もううるさくてさあ」


 何も感じていないふりをして、残っていたウィスキーに手を伸ばす。これでいい。今夜は面倒なことは考えないと決めたのだ。

 ところが一希からグラスを取り上げる不届き者がいた。


「伊原さんも帰るんですよ」


 当然のことのように千尋が言う。


「は? ……なに言ってんの」

「もう充分飲んだでしょ?」

「俺は帰らないよ? 明日は休みなんだし、好きにさせてよ」

「だめです。帰るんです」

「なに勝手に決めてんだよ」


 帰る帰らないの言い争いはマスターが一方に加担して終結した。


「伊原さん、今夜はもう帰んな。女の子を敵に回してまで出す酒はここにはないのよ」


 店から追い出され、傘を開いてしとしと雨の降る路上に立つ。鬱陶しいが仕方ない。ここがだめなら他の店に行って飲むまでのことだ。


「じゃあな」


 ところが足元が少しふらついたせいかあっけなく千尋に捕まった。すんなりと行かせてはくれないらしい。


「シゲはもういいよ。帰り、気をつけて」

「うん。本当に大丈夫?」

「大丈夫。ありがとね」


 お疲れさまでした、と一礼して須賀は帰っていった。こうなるといったい彼女は何のために来たのかということになる。

 ――俺のため?

 そう思い至ったとき、身体がぐらりと揺れた。


「大丈夫ですか? 少し休憩しましょうか?」


 ……休憩って。

 この状況で男が何を期待するか想像もしていないのだろう。「この近くにファミレスあったかな」と携帯を取り出そうとするのを制して、一希は衝動のままに口を動かした。


「いいところがあるよ。ラブホだけど」


 アルコールのせいかひどく欲を感じる。この際、一気にそういう関係になってもいいんじゃないか。

 しかしどうもそれは期待外れに終わりそうだった。なんと千尋は身体を硬直させていたのだ。そういえば「伊原さんはひどいことなんかしない」とおかしな幻想を抱いていたっけ。


「嫌ならいい。帰んな」


 突き放すように言うと、彼女は慌てて「行きます」と答えた。


「いいの? 本当に?」


 こくりと頷くのを確かめ、繁華街とは反対の方角へ足を向けた。ラブホテルが並ぶ裏通り。平日の雨の夜、人影はほとんどなかったが、千尋は身を隠すつもりなのか傘を前寄りにさして歩く。

 チクチクした痛みが心の中で疼いた。誰かに見られるのを恐れる行為を自分は彼女にさせている。これでいいのか。本当にこんなふうにして抱いてもいいのか。

 ……いや、意志はちゃんと確かめた。それに今夜はもう何も考えないと決めたじゃないか。


「ここでいい?」


 適当に選んだラブホの前で足を止めると、千尋は傘の柄をぎゅっと握り締め、不安そうな目を建物にさまよわせた。


「どうしたの?」

「あ、あの……」

「気が変わった?」


 怖気づいたのだろう、見ればわかる。でもここまで来てやっぱりやめたと言われて、それでも鷹揚でいられる男ばかりいるわけじゃない。


「覚悟もないのについてくるなよ」


 キツい言葉にしょげ返るかと思いきや、千尋はキッとなって言い返した。


「こんなの間違ってます」

「は?」

「吐き出したいなら吐き出せばいいじゃないですか。お酒とかこういうことに逃げるんじゃなく」


 さすがに情けなくなったか。でもそういう一見正論を受け入れるには、ひねくれすぎた人生しか送ってこなかったんだよ、こっちは。


「わかったようなことを言うな。俺がどんな思いであの仕事をしていたかも知らないくせに」

「だから! それを話してほしいんです。伊原さんだって言ってくれたじゃないですか、『俺には話して』って。私じゃだめですか? 私じゃ役に立ちませんか?」

「話したらあの契約を取り返してくれるとでも言うの?」


 言葉に詰まった千尋は悔しそうにこちらを見上げた。

 ずるいか? そうだよ、ずるいんだ。反論させないようにすることなんかいくらでもできるんだよ。


「帰んな。送ってやれなくて悪いけど」


 背中を向けて歩き出すと、すかさず手を掴まれた。


「なに? 飲みに行くんだから、手、離して」

「離しません」

「離せよ」

「嫌です」


 静かに降る雨が傘から出た二人の腕を濡らしていく。そしていつの間にか、一希を見つめる千尋の目にも涙が浮かんでいた。


「……離したら戻ってこないでしょ? あの時みたいに」


 ……あの時?


「泣いても叫んでも走っても、止まってくれなかった。もう私のことなんか要らないんだって、どんなに絶望したと思う? あの時みたいに、また私のこと置いてくの?」


 大きく見開かれた一希の目にあの日の情景が映し出される。

 動物園で過ごした春の一日。別れのために移動した駐車場。車で走り去る自分と父を、泣き叫びながら追いかけてくる小さな妹。

 まさか。まさか、本当に――


「ち……ちぃちゃん……?」


 その呼び名を聞いたとたん、千尋の目から大粒の涙が零れた。矢も盾もたまらず傘を放り出して抱きしめる。


「ちぃちゃん……! ちぃちゃん、ちぃちゃん……!」


 呼び続けなければ消えてしまうのではないか。そんなおかしな思いが頭をよぎった。

 でも腕の中の身体は温かくて。背中に回った手は力強くて。

 夢じゃない。これは夢じゃないんだ。


 嗚咽に混じって小さな声が不意に聞こえた。


「……にぃに……」


 一希は細い雨音からそれを守るように、抱きしめる腕に力を込めた。



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