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われても末に  作者: 乃梨
2/21

2 十二月の空の下

 夢うつつに聴覚が捉えたのは女の声だった。

 耳元をくすぐられるような甘い囁きならよかったのだが、そうではない。もっと騒々しくて不快なキンキン声。しかもどんどん大きくなる。何だこれ。


『皆さまにご支援のお願いに参りました。木下澄夫、木下澄夫でございます。ご声援ありがとうございます。木下澄夫、皆さまの豊かな暮らしのために、精一杯働かせていただきます。どうか木下澄夫を国政の場に送り出してください』

「うるせえっ!」


 日曜の朝っぱらから何なんだよ。こっちは真夜中に帰ってきたんだ、ゆっくり寝かせろよ。


 一週間後に実施される衆議院議員選挙に向けて、街頭演説や選挙カーでの運動が連日行われている。短期間のこととはいえ休日にやられると本当に迷惑だ。あんなに名前を連呼されたら逆に投票したくなくなるのは自分だけだろうか。

 拡声器で増幅された声はやがて遠ざかっていったが、怒鳴ったせいで眠気が完全に吹き飛んだ。こんちくしょう。


 一希は二度寝を諦めパーカーを羽織って部屋を出た。寒さに身震いしながらギシギシと鳴る階段を降りる。

 この家は築二十八年の木造注文住宅で、地元の高名な建築家がまだそれほど知られていなかった頃に設計したものだ。新耐震基準には適合しているが、断熱性能は現在の基準と比べると格段に低い。冬の朝方は冷蔵庫みたいに冷えることがある。

 父親が定期的にメンテナンスを施してはきたものの、いかんせん三十年近い年月には勝てず、快適とは言いがたい。でも長年の慣れと愛着もあって不便とは感じないし、独身の男二人にはこんなもんでいいだろうとも思う。


 一階の居間は暖房で暖められていて、父親の謙三けんぞうが新聞を手にソファで寛いでいた。おはよう、と声をかけると、老眼鏡を少しずらしてこちらを見る。


「朝飯あるけど食べるか?」

「え、作ってくれたの?」


 奇妙な会話には理由がある。伊原家には炊事当番がなく、各々好き勝手に食べる決まりになっているのだ。謙三は県庁勤めの地方公務員だが定時で帰ることはまずないし、一希はそれ以上に帰宅時間が毎日バラバラとあっては、合理的にやらざるを得ないのである。

 来年三月で父は定年退職を迎えるが、このルールはたぶん変わらないだろう。


 せっかくなので朝食をいただくことにし、味噌汁を温め直した。焼き魚をメインにしたシンプルな献立には一希の好きなきんぴら大根がある。こういう嬉しいこともあるからたまには日曜日に休むのも悪くない。

 と、完全に無防備でいたところに突然どきりとする言葉をかけられた。


昨夜ゆうべは泊まってくるのかと思っていたよ」


 口調はさりげなく、何か意図があって訊いたのではなさそうだが、返事に困ることに変わりはない。もともと自分は女性関係については何も話さないし、父親のほうからそれとなくとはいえ踏み込んできたのも初めてだった。


「帰ってきたの真夜中だったな」

「うん、ちょっと予定変更。起こしちゃった? ごめん」

「いや、それはいいんだけど」


 眼鏡の奥の目が何かを案じるように陰を作る。


「なに?」

「いや……まあ頑張れよ」


 たいしたことではなかったのか、謙三は再び新聞に目を落とした。

 昔から父は意見を押し付けたり頭ごなしに叱ったりせず、一希の言葉にきちんと耳を傾けた上で励ましてくれる。まあ頑張れよ、と。だけどもし昨夜の出来事を聞けばさすがに呆れるだろう。


 あらためて無様だった自分を思い返し、情けなくなった。ちょっとしたことなら車を走らせれば忘れてしまうが、今日はその気にすらなれなかった。

 ふと思い立って携帯を取り上げ、メッセージアプリを開く。こういうときに頼りになるのはあいつしかいない。


『今日、そっち行っていい?』

『どうぞ。司の誕生日ケーキが残ってるから食べに来て』


 もう誕生日か。じゃあおもちゃでも買っていこうかな。それで昨夜の顛末をネタにして笑ってもらい、愛香の件は終了だ。



        ***



「……カズさあ、最近そういう女の子とばっか付き合ってない?」


 あれ? 何か予想と違う。


 友人、野上拓馬のがみたくまは昨日一歳になった長男のつかさを膝で遊ばせながら、婉曲に苦言を呈した。中学校からの付き合いで一緒にバカをやってきた仲間だが、近頃はすっかり落ち着いてしまい、一希の耳に痛いことを時々言うのだ。


 一方、拓馬の妻、苑子そのこは多少好奇心を刺激されたようである。


「ねえ、その彼女いくつ?」

「ハタチ」

「そんなに若いの!?」

「別に犯罪は犯してませんけど?」

「自分の年考えたら遠慮するよ、普通」


 結局彼女も非難したいらしい。しかも夫よりストレートに。夫婦の恋のキューピッドなんだから、もうちょっと優しくしてくれてもいいだろうに。

 二人の馴れ初めは四年前、一希が会社の同僚である苑子に拓馬を紹介したのがきっかけだ。しかし子供も生まれた現在いま、そんな事実はすっかり忘れ去られているようである。


「前の彼女も二十一、二だったよね。このオッサンの何がそんなに若いコを惹きつけるのか」

「苑ちゃんと同い年なんですがそれは」

「カズはカネ払いはいいからね。さすが不動産営業マン」

「拓馬ったら、要するにおカネ目当てだなんて、何もそんな本当のこと」


 アテが外れて逆に傷を広げられた一希は喫煙を口実に逃げることにした。ところがソファから立ち上がろうとすると、苑子がふと真面目な表情になって押し止める。


「伊原くん、その子と付き合ってたこと会社のみんなに言ったほうがいいよ」


 意味不明。言わないほうがいい、の間違いではないのか。どうせこの二人にされたようにこき下ろされるのがオチだろう。


「なんで?」

「もちろん、ロリコン疑惑を晴らすためよ」

「はああ?」


 何それ! ロリコンを疑われるような趣味持ってないんですけど、美少女アニメとか美少女ゲームとか!


 実はあたしも、と苑子は自分も疑惑の目で見ていたことを打ち明け、同僚たちがその根拠としたとある有名人の名前を挙げた。


「服部由衣ちゃん」


 わずか七歳の天才子役である。でもあの子が何か?


「雑誌に出てた由衣ちゃんの写真、穴が空くほど見つめてたって」


 それはちぃちゃんを思い出してたから! ちぃちゃんのほうが可愛かったけど!


「他には遠藤ほのかちゃん」


 ご当地アイドルグループの最年少メンバーだ。確かまだ十三歳だったか。


「ローカルテレビのロケに偶然出くわしたとき、人垣をかき分けて一番前に行ったんだって?」


 ちぃちゃんが大きくなったイメージに一番近い子なんだ! 生で見たいじゃないか!


「それから」

「苑ちゃんもうヤメテ……」


 ……そんな姿を何度も見られて、俺、無事死亡。


 一希の心を崖から突き落とした苑子はさらに上から土を落とした。


「でも本当は違ったんだね。伊原くんはロリコンじゃなくてシスコンだったんだ」

「……もう何とでも言って」


 煙草とコートを手にベランダへ出ると、拓馬が「お相伴」とついてきた。すまなそうな顔をしているので何かと思えば、ガラス戸を閉めるなり、ごめんと謝る。


「苑子には言ってないんだ」

「何を?」

「なんでカズがそこまで千尋ちゃんのこと引きずってるのか」


 そうか、苑子がシスコンと言ったのを気にしているのか。


「……いいよ別に。どっちにしろシスコンだからさ」


 しかもこじらせてるし、と一希は笑って付け加えた。


 野上夫婦の部屋は五階建てマンションの三階にあり、真冬であろうとベランダで喫煙するのがルールになっている。二人はコートを着込むと並んで手すりに寄りかかり、虚空に向かってふーっと煙を吐き出した。こうしていると一緒に煙草を覚えた頃に戻ったみたいだ。


「今日何本目?」

「三本目」

「減ったね」


 ――司のためにもっと健康でいようと思って。


 少しずつ本数を減らしている理由を聞いたとき、ずいぶん俺より先に行っちまったな、と寂しくなったっけ。昨日のようなことがあると、その差はますます離れる一方だと思ってしまう。


「昨日両方のジジババが来てお祝いしてくれたんだけどさ。親父が一番はしゃいでた」

「おじさんあんな強面のくせに可愛いな」

「事務所の机に司の写真まで飾ってんの。従業員に携帯の画像見せたりとか」


 拓馬は自動車整備工場を経営する父親の下で整備士として働いている。一希のクルマの好みは多分に彼からの影響だ。


「カズのお父さんもきっと同じだと思うよ」

「え?」

「孫ができたらうちの親父みたいになるんじゃないかな」


 いきなり自分の父親の話なんかするから何かと思えば、さっきの苦言の続きか。――本気とも遊びともつかない恋愛をいつまでやるのか。


 そんなこと言ったって、結婚するイメージが湧かないんだから仕方ないだろ。お前は好きな女を見つけて、生涯の伴侶にして、子供も生まれて、万事上手くいってる。それでいいじゃないか。俺のことはほっといてくれ。

 ……とは口に出して言えないので、無言で煙草をくゆらせた。


 話の接ぎ穂に困っていると遠くから女性のマイク音声が流れてきた。また選挙カーだ。こちらに近づいているらしくだんだん音が大きくなってくる。


「カズ、投票行く?」

「どうかな。どうせ片桐で決まりだろ」


 ここは政権与党幹事長、片桐知彦かたぎりともひこのお膝元だ。盤石な人気を誇り、開票と同時に当確が出るような候補者に、一希の一票が入ろうが入るまいが変わりはないだろう。


「タクは行くの?」

「親父が行けってうるさいからね」

「ああ、伯父さんか」


 拓馬の伯父は片桐の小学校時代の同級生で、後援会組織の幹部を務めている。親戚などは真っ先に投票を頼まれる対象だ。

 選挙カーはその片桐所属のものだった。本人は幹事長という役職ゆえなかなか地元には帰れないから、乗っているのは運動員だけだろう。

 ウグイス嬢は声を聞く限り朝に聞いた何とか某のよりずっと若かった。でもあまり慣れてなさそうだ。


『皆さまこんにちは。片桐知彦、片桐知彦です。どうか片桐に皆さまの温かいご支援をよろしくお願いします。あっ、どうもありがとうございます。え? ……はい、頑張ります! あっ、片桐知彦が頑張ります! 片桐知彦、皆さまの温かい激励をいてで、いただき、』

「噛んだ」

「すげーシロウトっぽい」


 つい笑ってしまったがこれで応援になるんだろうか。さすが片桐事務所、余裕だな。

 通り過ぎていく選挙カーが建物と建物の間に見えた。窓から運動員たちが手を振っていたが、どれが今マイクを持っているウグイス嬢なのかはわからなかった。


 部屋に戻ると司はおやつの最中で、苑子が一口一口スプーンで食べさせてやっていた。すっかり母親業が板についてきたなあと感心して見ていると、あーん、と一緒に口を開ける合間に、さっき思い出したんだけどね、とこちらにも話しかける。


「うちで内定出してる来年新卒の子なんだけど。……はい、あーん」

「ああ、二人入ってくるんだったっけ?」

「そう、男女一人ずつ。……もっかい、あーん。上手だねえ、司くん」


 すごく綺麗な子が面接に来ていたって、そういえば誰かが言ってたな。……で、その内定学生がどうしたのか。

 苑子は顔を上げると、聞いて驚けとばかりにニヤリと笑って言った。


「女の子は確か、千尋って名前よ」



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