19 急転
安川からの電話を受けたのは金曜日の午後六時を過ぎた頃だった。営業先にいた一希は後でかけ直すと言っていったん通話を切った。
富永電機とはいよいよ来週の火曜日に正式な契約を交わす予定になっている。最後にもう一度確認することでもできたのか、それとも前祝いとして急に飲みに誘いたくなったのか。
営業先を出て車の中からかけ直したのがおよそ二十分後。電話に出た安川の声はあまり元気がなく、実際の用件は予想とはかけ離れたものだった。
『実は、御社との契約なんですが……キャンセルさせていただきたいんです』
「キャンセル? 来週のアポを、ということですか。契約書に何か見直す点でもありましたか」
『いえ、そうではなく、この売買契約自体を……申し訳ありません』
どういうことだ。契約をやめる?
「売却をやめてリノベするってことですか。それなら、」
『いえ、リヴィータさんとのお話はいったん白紙に戻すことになったんです。すみません、これ以上のことは僕の口からは……本当に申し訳ありません、伊原さん』
安川はとりあえずキャンセルの意向を伝えるよう指示を受けただけで、正式なお詫びは週明けにさせていただきます、と言って電話を切った。
携帯を握りしめたままどれぐらい呆然としていただろうか。
冗談じゃねえぞ、おい。
一希は畠山に急ぎ報告すると車を飛ばして会社に戻った。オフィスに残っていたのはほとんどが営業マンで、すでに話は聞いていたらしく事態の急転に色めき立っていた。
「キャンセルってマジ? なんで?」
「知るかよ」
「会社押しかけて聞いてこいよ」
「今が昼間ならな」
「お前、先方を怒らせるようなこと何かやってね?」
「やってるわけねえだろ!」
畠山はと言えば鬼瓦の顔には殺意すら浮かんでいる。できれば近寄りたくないが、ドスの利いた声で「来い、伊原」と呼ばれては黙って従うしかなかった。
連れて行かれた社長室で、水島を前にあらためて詳しい事情説明を求められた。しかし「急にキャンセルを告げられた」以外に何が言えるだろう。一希自身わけがわからないのだ。
「契約をふいにすると見せかけて価格を釣り上げようってんじゃねえのか」
「そんなギリギリの駆け引きはしないでしょう。でも匂いを嗅ぎつけたハイエナにそそのかされた可能性はありますね」
うちならもっと高く売れますよ――甘い言葉で仕掛けてくる不動産屋は掃いて捨てるほどいる。そういう業者が接触してきて富永電機側に欲が出たというのは考えられなくもなかった。
もし再交渉のテーブルに引き出せたとしてもこちらの譲歩は免れないだろう。合意済みの価格に多少の色をつけることになるが、果たして水島はそれをよしとするかどうか。
一希と畠山の視線に彼は呟くように答えた。
「……直接当たってみるか」
「誰にですか?」
「先方の社長に」
自ら掛け合ってみると言うのである。
「私からの電話には出てもらえないかもしれないけどね。地元の経済同友会には共通の知人もいる。個人的な繋がりというのはなかなかバカにできないもんでね」
「それで価格アップを言ってきたらどうします?」
水島は「うーん」としばし考え込んだが明確な答えは出さなかった。「あまり先走って考えるのはやめよう。あちらにのっぴきならない事情ができたのかもしれないしね」
こうして週末は通常の業務をこなしながら吉報を待つこととなった。
顧客とのアポ以外はオフィスで待機しつつ電話営業。その合間合間に携帯を覗いては、水島から連絡が来ていないことを確認して肩を落とす。
どうなっているんだろう。接触することには成功したのだろうか。
一希自身も神保から話が聞けないかと電話をかけてみたが、仕事用の番号は虚しくコールを続けるだけだった。
ようやく動きがあったのは日曜日の午後四時。畠山とともに社長室に出向くと、待っていたのは水島の「お手上げだよ」という台詞だった。
「会うことは会えたんだけどね。土下座せんばかりの勢いで『申し訳ない』って言うばかりで。わかったのは他の買い手が現れたってことだけだった」
「実在するんですかね。価格の見直しをほのめかしたりとかは」
「いいや。あっちに駆け引きする気なぞないよ。うちとはキャンセル。それで終わり」
「やってくれましたなあ」
うちとはキャンセル。それで終わり。
わずかな望みさえ完全に断ち切ろうとする言葉が、これまで抑えに抑えていた一希の感情をついに爆発させた。
「待ってくださいよ、こんな簡単に終わらせていいんですか! うちより高く買ってくれるから乗り換える? それならそれで相談ぐらいしてくれたっていいじゃないですか!」
「落ち着け、伊原」
「だいたい、ここまで話がまとまってて最後の最後に引っくり返すなんてあり得ない! 裏切りですよ! どれだけ俺がこの案件に力を入れてきたか、」
「落ち着けと言ってるだろうが!」
怒号とも呼べる畠山の一喝。水島はとっさに耳を押さえたが、直撃を食らった一希の鼓膜はびりびりと震えた。
……畜生。少しは手加減しやがれ。
しかし容赦を知らない上司はさらに手厳しい叱責を浴びせた。
「お前、何年この業界にいる。どれだけ互いに合意していようが、契約してなければただの口約束だ。それを反故にされたって責めるのか? 泣き言を言うな」
そんなことはわかっている。こと不動産売買に関しては契約がすべてだ。口約束など何の担保にもならない。
だけど、あれだけ何度も会い、説明を重ね、要望を持ち帰っては新たな提案をして、自分なりに信頼を築いてきたつもりだったのに。それを何の意味もなかったかのようにあっさり幕切れと言われ、どうして簡単に受け入れることができるだろう。
「そう落ち込まなくていいよ。契約直前のキャンセルなんて珍しいことじゃない。今回はちょっと大きな物件だったというだけのことだよ」
水島が気を引き立てるように言ってくれたが、もちろんそれで慰められたりはしなかった。
なぜ。どうして。
答えの出ない問いを一希はその夜何度となく繰り返した。
明けて月曜日、富永電機からの詫び状が速達で届いた。キャンセルの理由を『弊社の都合により』としたそれはビジネスレター以上のものではなく、読んでも虚しさしか残らない。
「煙草吸ってくる」
息抜きを求めてオフィスから逃げ出す。すでにこの一件は社内に周知され、一希は一日中腫れ物扱いだ。
見るからに機嫌が悪く近寄るなオーラを出していれば、そうなっても仕方ないのかもしれない。須賀や苑子でさえ話しかける時には気を遣っているのがありありとわかり、余計に己の失態を思い知らされる。
契約直前で逃げられた。しかも他の誰かにかっさらわれて。詰めが甘かったと言われればそれまでだが、ではどうすればよかったと言うのか。
自分はどこで間違えた? 何がいけなかった?
吹っ切れない思いを煙草の煙とともに幾度も吐き出す。そこへ、軽やかな足音が近づいて千尋が現れた。パーテーションで区切った喫煙所の縁で足を止め、こちらをじっと窺う。
「なに?」
「あの、よかったら……今日、何か美味しいもの食べに行きませんか?」
彼女から個人的に誘われるなど初めてのことだった。よほど一希を元気づけたいのだろう。
『あの子はね、伊原くんが好きで好きでたまんないのよ』
……あれ、意外と当たってるのかもしれないな。
先日苑子に背中を押された言葉が頭をよぎる。千尋の気持ちが本当なら、それに応えてみようかと思い始めたところだった。
でも今はとてもじゃないがそんな気になれない。
「食べるより飲みに行きたいな」
投げやりに言うと千尋ははっとして俯いた。
……最低だな、俺。彼女が飲めないことをわかっていて。
「ごめん。俺のことはしばらくほっといていいから」
安易に逃げ出そうとしたものの、千尋はそれを許さなかった。先日見たような挑戦的な目で一希を捉え、一瞬たりとも離そうとしない。
「ほっときません」
……自分が何を言ってるかわかってんのか。
少し脅かしてやれと思ったのは男としての意地だった。
「そばにいるとひどいことするかもしれないよ?」
「伊原さんはひどいことなんかしません」
信頼されたもんだな、と口元を歪めて笑ったそのとき、ポケットの中で着信音が鳴った。助かった、と内心ほっとして携帯を取り出し、『富永電機 神保部長』の表示に眉をひそめる。今さら何の用だ。
正直に言えば謝罪の言葉を受けるのさえ腹立たしい。だが昨日畠山に叱責されたこともあって、意地でも苦情は言わないと決めて電話に出た。
『――このたびは御社に大変失礼なことを……恥を承知で私からもお詫びさせていただきます。特に伊原さんにはあれだけ尽力してもらったのに、謝っても謝りきれないと思っています』
神保の言葉は少なくともさっきの詫び状よりはずっと心がこもっていた。一希について言及したのは、たぶん富永電機の社員というより、個人としての心情からなのだろう。
キャンセルは恐らく神保の判断ではない。
だからといって気が晴れるわけではないが、彼個人を恨まなくてすむのならそのほうがよかった。
「一つだけ訊いていいですか」
『何でしょうか』
「あの社宅はどうなるんですか」
絶句している様子が電話の向こうから伝わってくる。
……解体されるのか。
がっかりして一希もまた言葉を失くしていると、不意に神保が思いがけないことを言い出した。
『伊原さん、明日少し時間をもらえませんか』
「はい?」
『今回のこと、たぶん皆さん納得されていないと思う。本音を言えば私だって納得なんかしていない。せめてなぜキャンセルすることになったのか、理由だけでも説明させてもらえないだろうか』
彼らの言う「弊社の都合」である。単により高い価格で売れるほうに乗り換えたのではなかったのか?
「いいんですか、社外の人間に話しても」
『構いません。聞き苦しい話ですが』
「わかりました。お会いしましょう」
こちらの都合がよければ会社に出向くと言うので、時間調整のためいったん電話を切った。水島や畠山が会う気はないと言うならそれでも構わない。
ふと振り向けば、千尋が同じ場所に突っ立ったまま心配そうに見つめていた。
「中里」
「はい。あの、今の電話……」
「うん。食事をするのはまた今度にしよう。この件がちゃんと片付いてから」
さっきよりはずっと前向きな返事に彼女は嬉しそうに頷いた。